第三十二話 宿命の刃、交わるとき
──内裏の南西、塀の外。
月は再び雲に隠れ、道を照らすものはない。
見回りの兵に足止めされたことで、予定よりも大きく時間を食っている。
黒い夜の帳に溶け込むように、日野介は静かに路地を進んだ。
汗が、湿った夜気と混ざり合い、肌にじっとりと貼りつく。
(ここだ……内裏、南西の角)
ようやく目的の場所に着いた。日野介は音を立てぬよう、塀際の木立に身を潜めた。
──だが、
「久しいな、日野介」
背後から、聞き覚えのある声が落ちてきた。
振り向くと、瓦葺きの屋根の上に立つ黒い影。
茂吉──。
「吊り橋以来だな……」
その姿を見た瞬間、日野介の胸に重苦しい感覚が広がった。
かつての仲間。猿渡コモリの兄にして、“黒衣のもの”へと堕ちた裏切りの忍び。あの日、日野介たちは確かに茂吉を追い詰めた。だが──最後の一瞬、すり抜けられた。仲間だった者を斬れなかったという苦味が、今も喉の奥に残っている。
茂吉は音もなく地に降り立つと、すぐさま顎で日野介を指した。
「日野介──お前に用はない。宵乃はどこだ?」
その声音は、氷のように冷たい。刃を突きつけるような敵意が滲んでいた。
「さあな。知るかよ」
日野介は低く吐き捨てながら、一歩踏み出す。
腰の刀に手をかけ、一気に抜く。鋭い視線を茂吉に返した。
茂吉は、わずかに口元を歪めて笑う。
「宵乃の居場所を教えろ。そうすればお前の命は助けよう」
何もかも見透かしているような、その態度に日野介の喉がかすかに鳴った。
「馬鹿言え。ここで死ぬのはお前の方だ」
そのときだった──
いつの間にか、茂吉の横にもう一人の男が立っていた。
現れた音も気配も感じなかった。
その男が、無言のまま茂吉の前へと一歩出る。
すでに右手には抜き放たれた剣──
次の瞬間、雲の隙間から月が顔を出し、男の刀身が照らし出された。
紫色に鈍く光るその刃は、まるで夜闇に浮かぶ毒。妖しく、冷たい光を放っていた。
男の顔も月明かりに照らされる。痩せた輪郭、鋭い眼光。そして、頬には一本、細く鋭い傷。
(まさか……)
日野介の胸が凍りついた。
師・世良周一が倒れた、あの夜の情景が脳裏によみがえる。立っていたその背。振るわれた剣。血の音。地に崩れ落ちた師の姿──
(……こいつだ。あのとき、師を斬った男……!)
喉がきゅっと締まり、息が詰まる。手のひらが、じわりと汗に濡れた。
茂吉はふっと口角を吊り上げ、あからさまな余裕を見せた。
「さて、俺は高みの見物といこう」
嘲るように一言吐き、次の瞬間、身体を軽やかに宙へと翻す。黒衣の裾が月明かりに舞い、屋根の上に音もなく着地した。
その場の温度がひとつ、すうっと下がったように感じた。
日野介の視線は、頬に傷のある剣士に注がれていた。
「お前はあのときの……」
記憶の底に、幾度となく夢に見た光景がよみがえる。あの夜。血の中に崩れ落ちた師。なすすべもなく、その場に立ち尽くしていた自分──
日野介は、両手で刀を構え直した。
(ひりつくな……)
じりじりとした睨み合い。
かすかな呼気の音。睨み合う沈黙。
剣士が、ゆらりと前へ出た。
月の光を浴びて、紫の刀身がわずかに揺れる。
その構えは奇妙に低く、間合いが掴み難い。
──安易に踏み込めば、殺られる。
日野介は知らず足を引いた。
緊張が背筋を這う。
息を吐くことさえ、躊躇わせる。
フッ、剣士の唇がわずかに吊り上がり、笑みが浮かぶ。
その微笑は、かつて師を葬ったときと、きっと同じものだった。
──次の瞬間、剣士は踏み込んでくる。
日野介は狙っていたとばかりに、刀をまっすぐ振り下ろした。
カンッ!
刃と刃が交わり、乾いた金属音が路地に響く。
(……重い──!?)
まるで刃の芯にしなりがあるような、奇妙な衝撃。
押されている──そう直感した。
刀の鍔で押し返して、日野介はサッと後退し、再び男と距離を取る。
男は間を詰めることもなく、ゆらりと刃を揺らした。
──そのとき、頭上から鋭い声が響いた。
「お前たち、何を──!」
塀の上。見張りの兵士が、騒ぎに気づいて身を乗り出していた。
(まずい──)
だが、その警告は最後まで発せられなかった。
茂吉が屋根の上から音もなく地へ滑り降りるや否や、刹那の加速で塀へと駆け上る。黒衣が夜風にひるがえったかと思うと、見張りの兵士の身体がふっと緩み、瞳が虚ろになる。
次の瞬間、兵士は音も立てずに塀の上に崩れ落ちた。
茂吉は表情一つ変えず、下にいる剣士と日野介を見下ろしながら告げる。
「眠らせておいた。……さあ、存分にやり合え」
日野介は、剣を構え直す。
呼吸を整える暇もない。焦りが指先を冷やす。
(間合いが、読めない……)
これまでのどんな相手とも違う。
まるで幽霊と剣を交えているような感覚。
(一気に行かないとまずい)
日野介は一歩距離を詰める。そして、自分から真っ直ぐに踏み込んだ。
夢で何度も繰り返したこの斬撃。
しかし、男はわずかに体を入れ替えただけで日野介の刀をかわした。
そして──振り向きざまに一太刀。
日野介はすんでのところで、かわした。
しかし、日野介の着物の袖がざっくりと切られて裂けた。
態勢を立て直す間もなく、今度は剣士が踏み込んだ。視界が揺れるほどの速さ。
(来る──!)
日野介も迎え撃つように足で踏ん張り、渾身の一太刀を振るう。
だが──
ギィンッ!
斬撃は受け止められた。次の瞬間、衝撃と共に日野介の刀が弾き飛ばされた。
「──ッ!」
打ち上げられた日野介の刀は宙を舞い、地面の上に音を立てて落ちた。
(やられた……!)
日野介は立ち尽くした。剥き出しの喉元に夜気が触れる。
剣士はニヤリと笑った。
ただ、死が訪れるのを待つばかりだった──
ところが、場の緊張を断ち切るように、馬の蹄音が響いた。
「そこまでだ!」
静かだが揺るぎない声。
月明かりと共に姿を現したのは、馬上の千空照雅と道継だった。
照雅は無言で手綱を引き、厳しい視線を三人に向ける。
道継は槍を右手に持つ。
その様子を見た茂吉が、静かに印を結ぶ。
すっと──彼の体から、煙のようなものが立ち上がった。
すぐにそれは濃密な靄へと変わり、あっという間に辺り一帯を包み込む。
そして、靄はすぐに晴れていく。
気づけば、まるで闇そのものに溶けたかのように──茂吉と剣士の姿は、跡形もなく消えていた。
茫然と立ち尽くす日野介に、道継が鋭く声を放った。
「そこの者──ひざまずけ。今すぐにだ」
道継の槍の穂先が、迷いなく日野介の胸元を突いていた。
威圧と警告は十分に伝わる。
日野介は静かに両手を頭の後ろで組み、ゆっくりと膝をついた。
その様子を見届けると、照雅が無言で馬を降りる。
ゆっくりと日野介に近づき、真正面からその顔を覗き込んだ。
「……さっきだけじゃないな。今朝、茶室の前にもいたな、お前」
その声に、日野介はわずかに目を見開いた。
すぐに照雅の顔を思い出す。
──千影神社の茶室。
日野介は外の腰掛待合にいた。
一番に中から姿を現した、あの武士。
あのときはすれ違い程度だったが、威圧感と目の鋭さだけは記憶に刻まれていた。
日野介は口を開かず、ただ、黙ってうなずいた。
照雅のまなざしが、一層鋭くなる。
「……ここにいるのは偶然ではないな。中で話を聞かせてもらおうか」
拒む余地などなかった。




