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第三十一話 闇夜の追走、コモリの覚悟

──夜の都、静かに息づく影。


月はちょうど雲に隠れていた。真っ暗な夜道を、日野介は影のように動いて進んでいた。


(月が隠れている間に、急ぎたい)


背を低くし、町中を駆ける。建物の隙間から、見張りの兵の姿が遠くに見えるが、こちらの方を気にしている様子はない。幸い、人通りもほとんどない。


(南西の角まであと少し……)


そのとき──


「止まれっ!」


鋭い声が背後から響いた。


(まずい……!)


咄嗟に日野介は柱の影に身を滑り込ませた。馬に乗った二人が近づいてくる。背格好や装備からして、ただの兵ではない。


(あれは……上級兵か、役人……)


暗がりで顔までは見えない。だが、いずれにせよ自分の格好では言い訳も通じない。

帯刀した若い男が、夜更けに内裏の周囲をうろついていれば、どう見たって怪しい。宵乃たちの役目は隠密の行動。素性を明かすわけにはいけない。


捕まれば、厄介な尋問が待っているだろう。それはまずい。


(二人なら倒せる。だが──)


斬り伏せたところで、音で見張りに気づかれる可能性が高い。


(いまは逃げるしかない……)


日野介は踵を返して路地へと駆け出した。


「待てっ!」


馬の蹄が後方から迫る。


(狭い道なら──馬では追いにくい)


商屋の裏の細い路地に飛び込み、身をひるがえす。湿った空気が、肌にまとわりついた。


やがて、前方に別れ道。右だ。しかし、そこは袋小路。


(……行き止まりだ)


そこには古い井戸と、二本の木。向かいには高い石垣。


背後から蹄の音が響く。


(戦うか?……いや、早まるな)


日野介は素早く木に取りつき、枝を掴んで登った。そして石垣に飛び移り、身をひるがえして向こう側に飛び降りる──ように見せかけ、実際はわずかな石の出っ張りに指先と足先を掛け、壁の裏にしがみついた。


(……頼む、向こう側に回れ)


息を殺す。腕が震えた。落ちれば声が出る、声が出れば終わり──。汗がこめかみを伝った。


やがて、男たちは馬を戻し、石垣の裏へ回り込んでいった。


(……よし、今だ)


日野介は慎重に石垣を這いのぼり、先ほどの井戸のそばに戻った。


(うまくまけた……だが、だいぶ離れたところに来た)


南西の角に向かうには、ここから大きく南下する必要がある。

空を見上げれば、月が雲間から再び顔を覗かせていた。遠く、五重塔の輪郭が闇に浮かぶ。


日野介は、塔と月の位置を頼りに路地を選び、静かに歩を進めた。





──その頃、照雅と道継は馬を止めていた。


「うまく逃げられましたね」


悔しそうに息を吐く道継に、照雅は肩をすくめた。


「そうだな……。顔までは見えなかったが、どこかで会った気もする」


「ふむ。何者でしょうか?危険な者ではないように思えましたが……」


道継が照雅の顔を見る。


「だが、用心にこしたことはない」


「兵の召集をかけますか?」


道継の進言に、照雅は静かに首を振った。


「騒ぎにはしたくない。……俺たちだけで見回りを続ける」


そう言って、照雅は馬の手綱を引いた。


道継は何も言わず、その後ろに続いた。





──内裏の内側、南西の角。


塀の向こう。そこに、兄とその仲間がいる。


茂吉──。


七年前、理由も語らず里を出て行き、気づけば“黒衣のもの”の仲間として現れた男。


(兄は、なぜ裏切ったのだろう?)


コモリの頭の中にはその疑問がつきまとう。父との諍いが原因か。しかし、兄上が、私を、そして宵乃を──皆を殺そうとした、それは事実。私情を捨てて、敵として戦う。その覚悟は定まっている。


コモリは塀の向こうに意識を集中させた。まだ、薄霧の術が二人を捉えている。


(父上の言葉……)


「忍びは常に“今”を見据え、“最悪”を想定して動く」


今、相手は二人。心音の乱れはほとんどない。どちらも戦い慣れている。そして、私の存在はすでに察知されているはずだ。


(今、ここで戦うのは愚かだ)


互いの手の内を知る兄。子どものときからずっと一緒──父から忍術を教わるときも。茂吉の忍びとしての才能は抜群だった。コモリはいつも遅れをとっていた。今も忍術勝負では勝てないだろう。


もし塀を越えて侵入する意思があるのなら、見張りの兵の一人や二人、たやすく倒せるはず。


だが──彼らが明日の謁見に備えているなら、今夜騒ぎを起こす意味はない。


(では、狙いは何だ……?)


結界の操作……。しかし、何のために?


(茂吉が結界を操作できるとは思えない)


父が昔話してくれたことを思い出す。猿渡家は、かつて千渡家の分家だった。結界を作る力を持っていたのは、千渡家の本家筋だ。猿渡家は、その末裔でこそあるが、結界を直接扱う力は持たない。


つまり──もし結界に何らかの細工が施されたのだとすれば、それを行ったのは茂吉ではなく、もう一人の男の仕業である可能性が高い。


だが、それもあくまで推測の域を出ない。


(何か、大事なことを見落としている気がする……)


コモリは小さく頭を振った。考えがどこかで絡まっている。


この内裏を守る結界がある限り、帝の力を直接奪うことはできない。逆に言えば、結界さえ壊してしまえば、帝を守る楯は消える。だが──それは明らかな緊急事態だ。内裏の結界が何者かに破壊されたとなれば、明日の謁見は当然中止になる。


もし彼らの狙いが謁見にあるのなら、いま騒ぎを起こす理由がない。


なのに、なぜこのタイミングで──?


(……やはり何かがおかしい……)


コモリは空を見上げる。雲に隠れていた月が出てきた。


(あるいは……!?)


コモリの中で一つの考えが浮かんだ。


(これがもし罠だったとしたら……?結界守をおびき寄せるため……?)


つまり、こちらの動きを見るだけの陽動作戦の可能性はないか?


確かに……。つまり、宵乃にわざと結界の乱れを感じ取らせた。それなら辻褄が合う。


(そうなると、守るべきは、宵乃と貴子様……)


結界の維持を担う者たちの存在を、知られてはならない。それが最悪の事態……!


コモリの背筋が寒くなる。


では、今の私がすべきことは何だ?


──暗殺。それが、静かに遂行できれば……最善。


(無理だ……。茂吉だけでも難しいのに、もう一人いる)


薄霧の術が捉えている二人の気配は、今も同じ場所に留まっている。相手は近くの建物の中か、あるいは物陰に身を潜めているのだろう。だが、術の効果が切れれば、相手の気配は再び闇に溶ける。


コモリは唾をのみ込んだ。


(……いま、動くのは危険だ)


こちらから仕掛ければ、相手に情報を与えることになる。


月の光の中、白い霧が静かにほどけていった。


コモリは、強く拳を握りしめた。


──すべてを、守り抜くために。

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