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第三十話 それぞれの夜、薄霧の術

内裏──北東の隅にある櫓の隠し部屋。


宵乃の呼びかけに日野介が目を開けると、宵乃は浮かない表情をしていた。


「どうした?」


日野介の問いに、宵乃は目を伏せ、ためらいがちに言う。


「……やっぱり、私が確かめに行った方がいいと思って」


「宵乃は、ここから動けないんじゃなかったのか」


「でも……」


不安と責任感が、宵乃の胸を交互に揺らしていた。

言葉を濁す宵乃に、日野介は短く息を吐く。


「人任せが苦手なんだな、宵乃は」


それから、穏やかに言葉を継ぐ。


「……分かった、俺が行くよ」


宵乃が驚いて顔を向ける前に、彼は続けた。


「俺には結界の音は聞こえない。でも……役目は果たす。原因を調べてみるよ。ここを宵乃が離れるよりは、俺が行った方がいい。走ればすぐだ。何もなければ、往復で半刻もかからない」


宵乃の唇がわずかに揺れた。何か言いたげだったが、言葉にならなかった。


「夜明けまでに戻らなかったら──何かあったと思ってくれ」


そう言って、日野介は立ち上がる。


迷いの残る宵乃の肩に、軽く手を置き、背を向けて静かに部屋を出ていった。





丑三つ時──


京極家軍営の中庭。ようやく兵たちは明日の準備を終えて、それぞれの宿舎へと戻っていく。


しかし、千空照雅は妙な胸騒ぎにとらわれていた。眠れぬまま、袴の紐を締め直すと、厩舎へ向かう。


「馬を出せ」


夜番の兵に声をかけると、兵は一瞬たじろいだが、すぐに照雅の馬を引いてきた。


照雅が馬にまたがり、人気のない門を抜けようとした、そのとき——


「照雅様、こんな時刻に……どちらへ?」


声の主は道継だった。まだ鎧を着たままだ。


「見回りだ。気になって、眠れん」


「私もお供いたします」


道継は迷いなく言い、すぐに自身の馬を引かせた。


やがて二騎は、夜の都へと静かに走り出す。


「……こうして夜中に馬を走らせるのは、懐かしいですね」


道継の言葉に、照雅はふと昔を思い出す。若き日、共に城を抜け出し、酒を酌み交わした夜のことを。


「……楽しかったな、あの頃は」


照雅は答えながらも、胸のざわめきはなおも収まらなかった。





──内裏の屋根上。


コモリは天井裏から抜け出し、ひらりと屋根へ出た。月は雲に隠れ、風の音だけが耳を撫でる。


内裏を囲む外壁の上には回廊があり、数名の兵士が交代で見張りをしている。だが彼らの視線は、あくまで外に向けられている。内裏の内側への意識は薄い。


目指すは南西の角。


建物の中を通るより、庭を抜けた方が良いと判断した。庭には木々や刈り込みがあり、姿を隠しやすい。


南の庭には川が流れ、池には石橋がかかり、その中央には小島がある。小島の上には茶室が立ち、灯籠には火が灯っている──美しき景観。


だが、今のコモリにとってそんな余裕はない。


(……身体が重い)


自らの気配を殺し続け、外の気配を探り続ける集中の連続。それだけで消耗する。

加えて、内裏を覆う結界の中を動くこと自体が、まるで水中にいるような息苦しさだった。ここは、呪力や霊性の高い者しかいられない場所。


コモリは、足音一つ立てず地に降り、刈り込まれたツツジの影に身を沈めた。


(アワイを殺した奴の仲間が、まだいるかもしれない)


一対一なら負けない。だが──未知の術を使う者、複数の敵との戦い、それらが重なるなら話は別だ。


コモリは庭の暗がりを通る。細心の注意を払いながら。

ようやく、南西の角に着いた。


松の木が多く生い茂る区域。灯りもなく、闇が深い。だが、コモリの目は闇に慣れている。コモリは背を木の幹に預け、音が出ないように指笛を吹いた。それだけでも通じるのだ。


シュッ──


しばらくすると、フクロウが音もなく舞い降り、コモリの肩にとまった。


「頼んだ。南西の角、外を見てこい」


フクロウはコモリの使い鳥。索敵と伝令のために育てた──飛賀の里の忍びの技。


フクロウは静かに飛び立ち、夜空へ溶けていった。



──だが、しかし──


待てども、戻ってこない。


(……おかしい)


再び音が鳴らない指笛を吹く。だが、空は沈黙のまま。なぜだ。ほんの小さな音を出して、もう一度指笛を吹いてみた。しかし、フクロウの返答はない。


コモリはじっと空を見上げ、額ににじむ汗を感じていた。初めてのことだ。主の命令に背くことはなかった。背中にもじわりと汗がにじむ。


(まさか──何かが)


コモリは周囲を確認する。塀の上に見張りはいない。


両手を組み、印を結んだ。


「……薄霧うすぎりの術」


白く淡い霧が、彼女の手から広がり始めた。

夜気にまぎれたその霧は、人の目では捉えられぬほど薄い。

内裏の塀を越え、静かに──外へと染み出していく。


それは、人の心音を探る術。


気配を隠している者でも、微細な反応があれば霧が感知し、術者に伝わる。


──そして。


塀の外にふたつの反応。


(町人ではない……)


その心音は均整を保ち、鍛錬された者のもの。霧に反応した直後の微かな心拍の揺れから、術に気づいていることが分かる。


(戦い慣れている。……しかも──)


そのうち一つの心音に、コモリは息を飲んだ。


(この音──まさか……)


確かに覚えている。剣を握るとき、弓を引くとき、術を教えるとき、いつもそばで聞いていた心音。


「……茂吉……?」


コモリは身震いした。

やはり、まだ生きていたのか。

コモリは”自分”の心臓の音が早くなるのを感じていた。


夜はまだ終わらない──



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