第三十話 それぞれの夜、薄霧の術
内裏──北東の隅にある櫓の隠し部屋。
宵乃の呼びかけに日野介が目を開けると、宵乃は浮かない表情をしていた。
「どうした?」
日野介の問いに、宵乃は目を伏せ、ためらいがちに言う。
「……やっぱり、私が確かめに行った方がいいと思って」
「宵乃は、ここから動けないんじゃなかったのか」
「でも……」
不安と責任感が、宵乃の胸を交互に揺らしていた。
言葉を濁す宵乃に、日野介は短く息を吐く。
「人任せが苦手なんだな、宵乃は」
それから、穏やかに言葉を継ぐ。
「……分かった、俺が行くよ」
宵乃が驚いて顔を向ける前に、彼は続けた。
「俺には結界の音は聞こえない。でも……役目は果たす。原因を調べてみるよ。ここを宵乃が離れるよりは、俺が行った方がいい。走ればすぐだ。何もなければ、往復で半刻もかからない」
宵乃の唇がわずかに揺れた。何か言いたげだったが、言葉にならなかった。
「夜明けまでに戻らなかったら──何かあったと思ってくれ」
そう言って、日野介は立ち上がる。
迷いの残る宵乃の肩に、軽く手を置き、背を向けて静かに部屋を出ていった。
◆
丑三つ時──
京極家軍営の中庭。ようやく兵たちは明日の準備を終えて、それぞれの宿舎へと戻っていく。
しかし、千空照雅は妙な胸騒ぎにとらわれていた。眠れぬまま、袴の紐を締め直すと、厩舎へ向かう。
「馬を出せ」
夜番の兵に声をかけると、兵は一瞬たじろいだが、すぐに照雅の馬を引いてきた。
照雅が馬にまたがり、人気のない門を抜けようとした、そのとき——
「照雅様、こんな時刻に……どちらへ?」
声の主は道継だった。まだ鎧を着たままだ。
「見回りだ。気になって、眠れん」
「私もお供いたします」
道継は迷いなく言い、すぐに自身の馬を引かせた。
やがて二騎は、夜の都へと静かに走り出す。
「……こうして夜中に馬を走らせるのは、懐かしいですね」
道継の言葉に、照雅はふと昔を思い出す。若き日、共に城を抜け出し、酒を酌み交わした夜のことを。
「……楽しかったな、あの頃は」
照雅は答えながらも、胸のざわめきはなおも収まらなかった。
◆
──内裏の屋根上。
コモリは天井裏から抜け出し、ひらりと屋根へ出た。月は雲に隠れ、風の音だけが耳を撫でる。
内裏を囲む外壁の上には回廊があり、数名の兵士が交代で見張りをしている。だが彼らの視線は、あくまで外に向けられている。内裏の内側への意識は薄い。
目指すは南西の角。
建物の中を通るより、庭を抜けた方が良いと判断した。庭には木々や刈り込みがあり、姿を隠しやすい。
南の庭には川が流れ、池には石橋がかかり、その中央には小島がある。小島の上には茶室が立ち、灯籠には火が灯っている──美しき景観。
だが、今のコモリにとってそんな余裕はない。
(……身体が重い)
自らの気配を殺し続け、外の気配を探り続ける集中の連続。それだけで消耗する。
加えて、内裏を覆う結界の中を動くこと自体が、まるで水中にいるような息苦しさだった。ここは、呪力や霊性の高い者しかいられない場所。
コモリは、足音一つ立てず地に降り、刈り込まれたツツジの影に身を沈めた。
(アワイを殺した奴の仲間が、まだいるかもしれない)
一対一なら負けない。だが──未知の術を使う者、複数の敵との戦い、それらが重なるなら話は別だ。
コモリは庭の暗がりを通る。細心の注意を払いながら。
ようやく、南西の角に着いた。
松の木が多く生い茂る区域。灯りもなく、闇が深い。だが、コモリの目は闇に慣れている。コモリは背を木の幹に預け、音が出ないように指笛を吹いた。それだけでも通じるのだ。
シュッ──
しばらくすると、フクロウが音もなく舞い降り、コモリの肩にとまった。
「頼んだ。南西の角、外を見てこい」
フクロウはコモリの使い鳥。索敵と伝令のために育てた──飛賀の里の忍びの技。
フクロウは静かに飛び立ち、夜空へ溶けていった。
──だが、しかし──
待てども、戻ってこない。
(……おかしい)
再び音が鳴らない指笛を吹く。だが、空は沈黙のまま。なぜだ。ほんの小さな音を出して、もう一度指笛を吹いてみた。しかし、フクロウの返答はない。
コモリはじっと空を見上げ、額ににじむ汗を感じていた。初めてのことだ。主の命令に背くことはなかった。背中にもじわりと汗がにじむ。
(まさか──何かが)
コモリは周囲を確認する。塀の上に見張りはいない。
両手を組み、印を結んだ。
「……薄霧の術」
白く淡い霧が、彼女の手から広がり始めた。
夜気にまぎれたその霧は、人の目では捉えられぬほど薄い。
内裏の塀を越え、静かに──外へと染み出していく。
それは、人の心音を探る術。
気配を隠している者でも、微細な反応があれば霧が感知し、術者に伝わる。
──そして。
塀の外にふたつの反応。
(町人ではない……)
その心音は均整を保ち、鍛錬された者のもの。霧に反応した直後の微かな心拍の揺れから、術に気づいていることが分かる。
(戦い慣れている。……しかも──)
そのうち一つの心音に、コモリは息を飲んだ。
(この音──まさか……)
確かに覚えている。剣を握るとき、弓を引くとき、術を教えるとき、いつもそばで聞いていた心音。
「……茂吉……?」
コモリは身震いした。
やはり、まだ生きていたのか。
コモリは”自分”の心臓の音が早くなるのを感じていた。
夜はまだ終わらない──




