第二十九話 皇女と忍び、静かなる指令
内裏の外周。
北東の隅にある櫓──二階と三階の間にある隠し部屋。
小さな祭壇がある部屋。
宵乃はおむすびを一口かじり、お茶を含んで喉を潤した。
張りつめていた心が、少しだけほどける。
「黄色の札、どうなるんだろうな?」
隣に座る日野介が静かにつぶやいた。
「……気になるけど、ヨリ様からは何も聞かされてないの」
宵乃はヨリ様の顔を思い出す。
「誰かが見に行っているのか?」
「わからない。でも、結界のわずかな揺らぎ、普通の人にはまず分からないと思う……」
「普通の人には分からないか……」
「うん。私が気にしすぎているのかなって」
日野介は短く息を吐いた。
「でも、迷った末に札を出したんなら、それでいい。決断ってのは早さが命だ」
「……ありがとう。少し気が楽になった」
宵乃は再び、祭壇の前に戻る。
香炉から立ちのぼる白煙の向こう、灯明の光がかすかに揺れている。
深く息を吸い、結界の波長に耳を澄ませる。
それは幾重にも折り重なった織物のように、絶え間なく、そして精緻に響いていた。
(……音に変わりはない)
──やはり、南西の角だけが、わずかに“たわんで”いる。
破れてはいない。けれど、そこには確かに、何かが触れている気配がある。
(……私は、ここにいるだけでいいのだろうか)
あの場に赴き、確かめたい。それが本音だった。
けれどそれは、ヨリ様との約束──「持ち場を離れるな」という掟を破ることになる。
迷いが、胸の奥に沈んでいく。
宵乃の真面目さに感化されるように、日野介もまた目を閉じた。
集中し、櫓の周囲の音を探る。
夜風が草葉を揺らし、遠くで鳥が羽音を立てている。
兵たちの足取りは変わらず、巡回の間隔も乱れていない。
平穏であった。
……にも関わらず、胸の奥で微かなざわめきが消えない。
気づけば、日野介は、あの場面をまた繰り返していた。
頭の中に浮かぶのは、いつもあの男だ。
頬に一筋の傷。痩せた体。
禍々しい気を纏い、紫の刀を持つ──師・世良周一を討った男。
(剣筋は、理を曲げるように、ねじれ、うねる……)
日野介は、深く息を吸い込んだ。
想像の中で、構えを取り、踏み込み、まっすぐに一閃を放つ。
幾度も、幾度も繰り返してきた一閃。
しかし、真正面から斬り込んでも、なぜか奴には刃が届かない。
あと一太刀……。
だがいつも、次の瞬間、日野介は斬られている。
「……日野介」
宵乃の声に、はっと意識を引き戻された。
日野介は静かに目を開けた。
◆
その頃、内裏の中、西棟の一室──
コモリは、第二皇女・貴子の前に正座していた。
小柄な少女。年は自分より若いはずなのに、その瞳には吸い込まれるような力がある。
(この圧……。帝の血と、千星家の血なのか……)
言葉を発するのも憚られるような威圧感があった。
だが、それは高慢さではなく、存在の強さから来るものだった。
貴子は白いカラスを懐にしまってから、コモリに問いかけた。
「コモリよ。何故、ここに来た?」
問いかけは穏やかだったが、真意を見定める目は揺らがない。
「……アワイ殿から、貴女に仕えていると聞きました。アワイ殿は……」
「すでに、殺されておったか」
コモリの言葉を遮って、貴子が言った。
まるで、コモリの次の言葉が見透かされているようだった。
「かわいそうなことをした」
「……目の前で、忍びに──」
コモリは拳を強く握った。
「そうか……」
死を悼むように、貴子はゆっくり目を瞑る。
「その者は?」
「その忍びは、私が仕留めました。ただ、身元のわかるものは何も──」
「おそらく、“黒衣のもの”の手先」
「“黒衣のもの”?仲間がまだ内裏に?」
貴子は、ゆっくりとうなずいた。
「いる。だが──まだ分からぬ」
そのとき、不意に。
貴子が両手で耳を塞ぎ、肩を震わせた。
「貴子様……?」
コモリが思わず近づこうとすると、鋭く手で制止された。
「……静かに。ただ……少し……」
しばし、少女はうつむいたまま、微動だにしなかった。
そして、ふいに顔を上げたその表情は、先ほどまでの静けさとは違う、険しいものだった。
「今、姉から”連絡”が来た」
「お姉さま……?」
「双子の姉──。私たちは思念を送ることで、心で話すことができる。千星家の血の力」
貴子は小さく息を吐くと、コモリに向き直った。
「コモリ、ひとつ頼みたい」
貴子のまっすぐな目。
「はい」
コモリは即座に承知した。
「内裏の結界に乱れがあると。
おそらく、それを察知したのは──千鳥家の娘だろう」
「宵乃ですか……?」
「会ったことはないが、名は聞いておる。結界の音を聞く耳を持っておると」
「はい。彼女には……結界の細かな揺らぎまで、自然と分かるみたいです」
「そうか……」
貴子は少し考え込む仕草を見せる。そして、静かに口を開いた。
「場所は…………南西の角だ」
「承知しました。確認に向かいます」
「頼む。無理はするなよ」
「はい」
コモリの背を見送る貴子は、わずかに瞼を伏せ、静かに──けれど深く、ひとつ息を吐いた。
その気配に応えるように、懐から白いカラスがひょいと顔をのぞかせ、貴子の表情をじっと見つめた。
(“黒衣のもの”の影──確実に近づいている……)
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緊迫の都編!
千代田と帝の面会が明日に迫る中、深夜の戦いが始まります。
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