第二十七話 忍びの末路、都の守備
コモリは闇の中でじっと、ときを待っていた。
半刻は経ったであろうか。
音もなく外の扉が開いた。
すっと黒い影が滑り込んでくる。
足音はない。無言のまま、黒い影は部屋の入り口に立ち止まった。
室内を一瞥し、地面の死体を見る──すぐに、視線は天井へ。
その隅へ向けて、手裏剣を三つ、迷いなく放った。
……ぶすりと何かに突き刺さる鈍い音。
影は視線を上げたまま動いた。
気配が、わずかに緩む。
(油断したな)
コモリは全身に力を巡らせ、一気に身体を起こす。
隠し持っていた小刀を握り、背後から──喉元へ、ためらいなく刃を走らせた。
肉を裂く感触。返り血は、ほとんどない。
黒装束の影は、声もなく崩れ落ちた。
コモリはふっと息を吐く。
そして、また外の気配を読む。
(仲間は……来ていない。こいつ一人だ)
天井を見上げる。板の隙間から、手裏剣が胸に深く刺さったアワイの遺体が覗いていた。自分が縄梯子を使い、引き上げた亡骸。
そして今、コモリが身にまとうのは──アワイの衣服。
敵が見た地面の“死体”は、アワイではなくコモリだった。
気配を消し、血にまみれた身体を伏せたまま、敵の到来を待っていたのだ。
策は、成功した。
コモリは倒れた敵に歩み寄り、その顔を覆う布を剥ぐ。
──見知らぬ顔。どの一派にも、任務にも覚えがない。
懐を探る。文も、印も、何もない。
手裏剣の形状も、ごくありふれたもの。流派を示す痕跡も見られない。
(……匿名性を徹底している。痕跡を絶った刺客)
つまり、この男は──“使い捨ての道具”として送られてきた者だ。
◆
同じ頃。京極家軍営内にある一室。
評定を終え、その一室に残っているのは、千空照雅ただ一人だった。
床の上には都の地図と軍備配置図。
壁の行灯が、薄闇に影を揺らしている。
照雅は腕を組み、鋭い目で地図を睨んでいた。
(……愚かしい)
京極宗高。己の主君にして、都の守護を担う名門・京極家の現当主。その宗高も、他の重臣達も、どこか夢でも見ているようだった。
「千代田信勝は謁見を求めているだけ」
「本軍は山に留まると約束している」
「たかが二百騎が都を訪れるだけだ」
笑止。
すぐそこの山の上には、六万の兵が控えているのだ。
約束など、破るためにある。
照雅は千影神社での会合を途中で切り、急いで馬を飛ばして戻ってきた。
しかし、──案の定だった。
兵は散らばり、物資は足らず、持ち場の配置すら決められていない。
(兵の配置に不備があるということは、非常時に対応できないということだ)
唇を噛みしめ、地図の端を握る手に力が入った。
都と都の周囲にいる京極家の兵は五千。
西と南の城から兵を加えても一万に届かぬ。
それで六万と対峙しろというのか。
(早急に、他の地域の兵を都に呼び戻すべきだ)
軍議ではその意見も通らなかった。
「千代田を刺激するな」という弱腰の声に、照雅の言葉はかき消された。
元来、京極家は都を含む広大な領域を治める守護大名であった。
かつては都の外郭、山際や街道の要衝を押さえ、広くその威を示していたはずだ。
それが今では、都の内の守備に専念する、“内向きな軍備組織”に成り下がっている。
情けない。照雅は、そう断じていた。
外から迫る脅威を見ようともせず、ただ内へ、内へと縮こまるだけ。
そして、その当然の帰結が──備えなき五千である。
それだけでも胃を蝕まれる思いだというのに──結界の問題もある
都には、都全体を包むように張り巡らされた六層の結界がある。
それぞれが異なる性質と役割を担い、重ねられることで都全体を守っている。
さらにその中心、内裏には特別な結界がある。
結界の強度、精度、霊的密度──すべてにおいて他に並ぶものはない。
その維持には、ヨリ様直属の使い、千鳥家の巫女、猿渡家の忍びが関わっている。
両方の結界を統括している存在──それが千星家である。
千星家は、古くから都の結界を守る存在の筆頭であったが、その実態は謎に包まれている。
現在の当主は、姉妹ふたりとされる。
姉は都のいずこかに潜み、六層結界の中核を担っているという。
妹は、内裏の中にいる──そこまでの情報は照雅にも伝えられている。
だが、ふたりの名も、顔も、照雅は知らない。
今朝の会合で現れたのも、千星家の使いとされる“白いカラス”のみだった。
両名と連絡を取ることができるのは、“ヨリ様”ただ一人。
六家はもともと、それぞれが独立して動く隠密の組織だ。
互いの素性を伏せたまま任を果たすことは、何ら珍しいことではない。
だが──味方でありながら、意思疎通すらできぬというこの構造は、今回のような緊急時において致命的になりうる。非常事態が起こったとしても、こちらから連絡を取る術はない。
六家にとって、最優先すべきは──結界の維持。
それは唯一無二の指針として合言葉のように共有され、長らくそれだけで機能してきた。千空家もまた、その理念のもとに役割を果たしてきた一家だ。
だが──今回も、それが通用するかはわからない。
照雅はゆっくりと立ち上がり、外に出た。夜風が頬を撫でる。
千空の血を引く者の中にも、結界を“作る”ことができる才を持った者が現れる。だが、それは数世代に一人。照雅にはその才がない。ゆえに、自らは“裏方”に徹して結界を支えている。
陣内では、かがり火がゆらめく中、兵たちが黙々と武器や兵糧を運んでいた。
時刻はすでに深夜──それでも動きが止む気配はない。
だが、それは精を出しているというより、遅れを取り戻そうとする動きにすぎない。
「浮かぬ顔ですな」
声をかけてきたのは、千空道継。
すでに鎧に身を包み、隙がない。
照雅の妹の夫にして、千空家に婿入りした優秀な武人。
数少ない、照雅が信頼を置く相手でもある。
「当然だ。明日の朝には奴が都に入るというのに、この有様だ」
「……進言は?」
「通らぬ。“戦ではないのだから”と、宗高様は仰せだった」
「……能天気ですな。六万が背後に控えているというのに」
「それがわからぬほど、戦も道理も知らぬお方だ」
道継はそれ以上言葉を重ねず、黙って隣に立つ。
千代田信勝──
明日、帝への謁見のため側近の二百騎を引き連れ、都へ入る。
何か、牙を潜ませているのか……。
本当に二百騎だけなのか……。
”黒衣のもの”は同行するのか……。
(もし……都が落ちれば……)
照雅はゆっくりと息を吐いた。
都の警護と結界の維持。
その両方を担う責任が、今、この身にのしかかっていた。
明日は、確実に“何か”が起きる。そんな予感が、消えなかった。




