第二十六話 闇に潜むもの
【*時間軸が前後していますが、このエピソードでのコモリのパート(午後8時半頃)は、宵乃&日野介のパート(午前1時頃)の前です。】
暗闇の中──
アワイの体は、まだ温かかった。
コモリの掌にべったりとついた血は、指の間をゆっくり伝いながら冷えていく。
(……刺されてから、まだ一分も経ってない)
アワイが扉から中に入ろうとした瞬間に刺したはず……。
(すぐそこにいる……!)
アワイを殺した相手は、この扉の向こうにいる。
何者なのか、何人いるのか──まだ分からない。
だが、おそらく敵は、千代田方か、“黒衣のもの”。
そして、こちらの存在には気づいているはずだ。
なぜなら、扉はまだ開かれない。
相手は踏み込まず、様子を窺っている。
コモリの動向を、静かに見ているのだ。
コモリは警戒を解かぬまま、アワイの懐に手を入れる。
布袋に手が当たる。中を探ると、鍵束、手裏剣、縄梯子、巻物──
鍵は五本。形も大きさもばらばら。
巻物には封蝋がされていた。
(……羽生流)
手裏剣に触れた瞬間、それと分かった。三角形の黒鋼。
北方の忍びの流派だ。
変装と暗殺を得意とするという……噂。
コモリは、巻物と鍵を懐に滑り込ませた。
その微かな重みが、心の奥の緊張を現実のものへと変えていく。
──アワイ。出会ったばかりの女。
私と出会わなければ、彼女は死ななかったかもしれない。
焦っていた。あのとき、確かに。
それに気づいていた。気づいていながら──助けられなかった。
悔いは、ある。けれど、忍びにとって死は常に隣り合わせだ。
今は、立ち止まるときではない。
アワイの死を、次につなげなければ。
静寂。外に気配はない。
コモリは立ち上がり、もう一つの扉を引く。
横開きの木戸。だが引いても動かない。
反対側からかんぬきがかけられているようだ。
蹴破ることもできる?──いや、音が大きすぎる。
今はまだ騒ぎを起こしたくない。
状況が不確定すぎる。
(……落ち着け)
静かに息を吐く。
父に教えられた言葉が頭をよぎる。
「忍びは常に“今”を見据え、“最悪”を想定して動く」
“今”──
私は内裏の中に潜入している。
唯一の協力者であり連絡役のアワイは死んだ。
内部にはまだ仲間がいるかもしれない。
おそらく千星家のもの。だが、確証はない。
内裏の外との連絡はとれない。
完全に孤立している。
“最悪”──
私がここで殺される。
仲間が殺される。
(いや、違う……)
最悪なのは、内裏を守る結界が破れ、帝が拉致され、霊力が奪われること。
それは、この国の崩壊を招きかねない。
それだけは、絶対に防がなければならない。
帝は、結界が存在し、その中にいる限り、外には出られない。
ヨリ様が言っていた。内裏を覆う結界は、帝の霊力が外に出ないようにする特殊なもの。
六家が最優先で守るべきもの──結界。
(ならば、私はどう動く?)
千代田信勝と帝の面会は、明日の朝。
敵は──その前に結界を壊すことは避けたいはずだ。
結界が壊れれば、面会は中止になるであろう。
面会が流れて困るのは、千代田信勝、そして”黒衣”のもの。
さらに、騒ぎを起こすわけにもいかない。
内裏で殺人が起こったことが露見すれば、それだけで面会の中止に直結する。
──ならば、この死体は放置されない。
必ず、“誰か”が処理に来るはずだ。
(ここで、迎え撃つべきか?)
そのとき──扉の向こう。
かすかに、人の気配がにじんだ。
(来るのか……?)
コモリは準備していた鉤爪を手につけた。
息を殺し、足に力を込めた。
誰かは分からない。だが、“いる”。
(……いや……まだ早まるな!)
コモリは指先を合わせ、息を潜める。
──火灯の術──
コモリの掌に、ひとつ、ほのかな火が灯る。
燃えることなく、熱も持たず、闇をかすかに照らす術火。
その淡い光の中で、天井を見上げる。
古びた板――継ぎ目に、わずかな隙間。
火は消え、闇が戻る。
コモリは鉤爪を壁に引っ掛け、無音のまま身を上げた。
壁を蹴り、天井の角に両足で踏ん張る。
手を伸ばし、古びた天井板に指をかける。
板の一枚を慎重に外し、わずかに顔をのぞかせてから、梁の隙間に身体を滑り込ませた。
息を止める。
闇の中、気配を読む。
(焦るな。まだだ……)
身じろぎもせず、静寂の中に沈む。
(ここで仕留める……)
闇の底で、殺意と気配が交差する。




