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第二十四話 内裏への潜入、真夜中の違和感

(——時間がない)


息は乱れていない。だが、コモリの心の奥には焦りがあった。日没までに“指定の場所”へたどり着けなければ、内裏への潜入の機会は失われる。


納屋で宵乃と日野介と別れてから、京極家の陣営を出るまでは、息を殺し、影から影へと身を滑らせた。兵たちの目を盗み、柵を越え、ようやく裏口へ。


そこからは、あらかじめ隠しておいた町人風の装束に素早く着替える。地味な布地、目立たぬ帯。背を丸め、所作も町人のように——変装は忍びにとっては序の口。



夕刻の都の大路は、ざわめきに満ちていた。

行き交う人々の足音、商人たちの急き立てるような掛け声が、通りにせわしない空気を作っていた。


明日、千代田信勝が入城する——その報せが、町全体に緊張を走らせているのだろう。


コモリは早足にならないよう意識しながら、溶けるように、群衆の中へ姿を紛れさせる。


——目指すは内裏の西側——


内裏の中は広い。執務と儀式が執り行われる正殿を中心に、帝の寝所、官庁舎、正妃や側室の居所、女官の詰所など、二十を超える建物がある。


内裏の周囲は高い白壁に囲まれ、さらにその上部には見張りの兵が見回る空中回廊が設置されていた。たとえ忍びであっても、何の痕跡も残さず、正面から乗り越えるのは不可能に近い。


すでに空は朱から紫へと変わり、沈みかけた日が壁の端を赤く染めていた。


約束の場所は、西側の呉服屋の前。そこは、空中回廊が途切れている場所の真下であった。


(日没まで……あと、わずか)


コモリは歩調をわずかに上げる。

呉服屋の前に来た。すでに軒は閉まり、人影はほとんどない。


——すると、


白壁の上から、するすると“縄梯子”が下ろされた。内側の協力者が手はず通りに動いている。


コモリはすぐさま周囲を見渡した。


(今しかない!)


コモリは木立の陰から、ひと息で助走をつけると、影のように跳躍した。

手が縄をつかむ。しなる感触を確かめるまでもなく、腕と足を使って一気に登る。


わずか数秒。

コモリの姿は、内裏の白壁の向こうへと消えた。





——真夜中。


内裏の周囲は、月明かりの中、静けさを保っていた。


内裏を囲む高い塀の上、肩ほどの壁で縁取られた三階の外回廊を、夜番の兵士たちがひたひたと巡回していた。その足音だけが、しんと張り詰めた静寂の中に存在した。


だが——巡回の兵士たちも、北東の隅にあるやぐらの中の隠し部屋のことは知らない。


宵乃ち日野介は二階と三階の間に設けられたその密室にいた。

宵乃は白装束をまとい、小さな祭壇の前で、目を閉じて正座をしている。


この部屋には三つの出入口がある。

一つは、さきほど日野介と共に登ってきた階段の扉。

残る二つ、南側と西側の扉はどちらも堅く鍵がかかっている。

その向こうには小部屋があり、従者が控えている——今朝、ヨリ様がそう教えてくれた。


扉の下には、それぞれ引き出しが設けられており、顔を見せずに物資や情報のやりとりができる仕組み。さらに、控え室の奥には隠し回廊が張り巡らされているという。


「緊急のとき以外、こちらからは連絡しない」——それが取り決めだった。


明日の朝が本番。

若き武将・千代田信勝が、帝との謁見のため内裏へ足を踏み入れる。


結界に何か起こるとすれば、そのときだ。

千代田の背後にいる”黒衣のもの”が動くのであれば――。

だが、最大級の警戒体制が敷かれた都で、そう簡単に何かが起こるはずはないのだ――。


(考えても仕方ない、私にできることをやろう)


宵乃はそっと息を整え、耳を澄ませる。

今夜はただ、この内裏の結界の“音”に慣れるだけ。明日までにこの結界の音に慣れておかないと、微細な異変に気づくことができない。


(……綺麗な音)


耳の奥に届くのは、幾重にも重なった琴の調べのような響き。

この結界は、これまでに宵乃が”聞いてきた”結界の中でも、もっとも柔らかく、繊細なものだ。



部屋の隅では、日野介が目を閉じ座っていた。今宵、日野介は連絡役であり、宵乃を守る護衛役だ。


日野介は結界の音を聞くことはできない。しかし、日野介の心の奥には張り詰めた糸が一本、ぴんと張っていた。気配の一つ、異音の一つがあれば、すぐに動けるように神経を研ぎ澄ませていた。


そのとき——


カタ、コト……


日野介が薄く目を開けた。

西の扉の下から、わずかな物音。引き出しに何かが入れられた。


音を立てぬよう、日野介は引き出しをそっと開けた。

お盆にのった、おむすびと梅干しとお茶の入った茶碗。


「……ヨリ様の手配の者だな」


小声でつぶやき、宵乃の集中を妨げぬよう手元に置くだけにとどめた。


ふたたび、部屋は静けさが満ちた。


だが、しばらくもしないうちに。

 

(……今の、何?)


宵乃の胸がきゅっと締めつけられ、思わず小さく息を呑んだ。


耳の奥をかすめる、淡いざわめき

——かすかに、結界の音の色が変わった気がする。


一瞬の感覚。

すぐに収まり、消えていった。


(錯覚?)


だが、聞き間違いで済ませてはいけない。


(綻びじゃない、でも……)



「……どうした?」


日野介が低く問う。


宵乃は答えずに、唇をかみしめ、深く息を吐いた。


(……伝えるべき? いや、まだ……)


今決断を誤れば、全てが崩れる。

もう一度、集中しないと。


宵乃はそっと深呼吸をし、耳に神経を集中させた。


耳を澄ませ。

心を研ぎ澄ませ。


 

(……やはり……)


耳の奥を伝う結界の音――束ねられた何十の音の糸のうち、そのうちの一本が、わずかに緩んだように思えた。


場所は、南西の角——


北東の自分たちの位置から対角、

結界の音に、わずかに混じる濁りの出どころ。



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