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第二十三話 前夜、都への潜入

その日の夕刻。


都の北の外れ、北の正門近く。


馬車の中、荷台に隠れている宵乃は、布の隙間からそっと外を覗いていた。


(……もう、都の前まで来てる)


馬車は京極きょうごく家のもの。千空せんくう照雅が用意してくれた兵糧輸送の便に、宵乃とコモリと日野介が隠れている。


茂吉が生き延び、敵に回った以上、宵乃たちの顔は黒衣の者たちに知られている可能性が高い。今回は隠密の作戦だ。だから、誰にもバレないように潜入しなくてはいけない。


都の出入り口である北の正門の前には、列ができていた。鎧兜の門番たちが、一人一人の手形と荷物を厳重に確認しているからだ。


平常時ならば、都の北にある三門は全て開き、人も馬車も自由に出入りできるらしい。だが、”明日、千代田信勝”が都へ入る――その報せが、都全体を戦の前夜の空気に変えていた。


馬車が列の先頭に滑り出る。門番の影が荷台のほろに落ち、布がつかのま揺れる。しかし、門番は掲げられた京極家の兵糧の札を確認するや、あっさりと通した。


(……入った)


宵乃の胸がどくん、と高鳴る。


門を通過するとき、宵乃は何重にも張られた都の結界の音を聞いた。

これらは、”妖”のものや”邪”のものが入らないようにするための結界。

聞いたことのないような結界の音もある――さざなみのような、琴の音のような。

年月をかけて育まれ、何人もの手で修繕されてきたような結界であった。



(……都だ)


宵乃の胸はドキドキしていた。


都のこと――母や祖母から話で聞いたことはある。けれど、こうして目の当たりにするのは初めてだ。


東西南北の大路が交わり、環濠に囲まれた都。都のほぼ中央に、白壁に囲まれた内裏がある。帝の住まう場所だ。


宵乃は再び米俵の隙間から外を見た。舗装された広い通り。行き交う人々のざわめき。二八蕎麦の屋台、天秤棒を担いだ行商人――塩売り、瓜売り、古着売り。


そして、軒先から漂う香ばしい焼き芋の匂い。


(……お腹すいてきた)


宵乃は、思わず小さく笑いそうになるが、ぐっと我慢する。

今は任務中だ。





馬車は北の大路を進み、やがて内裏北辺──京極家の詰所を擁する広い軍営に滑り込んだ。


宵乃はほろの陰から外をうかがった。京極家の旗指物が立ち並ぶ──赤色の地に黒の紋様。即座に、五感を圧する軍の気配が襲ってくる。鎧のさねがぶつかり合う硬い音、槍を束ねる兵の号令、馬が鉄蹄で土を蹴る鈍い響き。


馬車が止まる。車軸のきしみが耳に残るうちに、御者台の男が、くぐもった咳払いとともに二度、車板を叩いた。それが──約束の“降車合図”。


荷台には米俵のほか、乾燥肉や干し大根を詰めた木箱が積まれている。これが下ろされ始めれば、兵たちの注意が一斉に集まり、隠れる隙はなくなる。京極家の兵は多いが、全員が“味方”というわけではない。千空と通じる六家の同志は、ここではひそかな少数派にすぎない。


(今しかない……)

 

コモリは袖口をきゅっと握り、低く身をかがめて先に荷台から飛び降りた。宵乃と日野介もすぐに続き、米俵の影へ滑り込む。土が膝に食い込む感触。すぐそばで、兵士の怒鳴り声が聞こえてきた。


兵舎と厩舎の間の細い路地、その奥にひっそりと佇む小さな納屋──そこが目的の場所。コモリがわずかに指を動かし、低い手の合図を出した。


(いまだ──)


三人は影のように身を滑らせ、干し藁の匂いが濃密に立ち込める納屋へ身を潜めた。

積み上げられた馬の餌藁は、山のようにそびえ、薄暗い空間にかすかな埃が舞っていた。


(ここまで、作戦どおり……まだ、誰にも気づかれていない)


「私はここで別れる」


コモリは囁くように言い、宵乃の指先を一瞬だけ握った。指の温度と決意だけが伝わり、次の瞬間には戸の向こうへ姿が消えていた。


「絶対に、無事で……」


(コモリの任務は、内裏の中の女官に変装して紛れこむこと。大丈夫。コモリは優秀な忍び……絶対に任務を果たしてくれる)


宵乃は胸の奥でそう祈った。


宵乃は日野介と肩を寄せ合い、木の扉の割れ目から外をうかがった。


夕映えに染まる軍営の中、京極家の兵たちがせわしなく行き交う。

荷を担ぐ背中が揺れ、馬が短く鼻を鳴らし、あちこちで命令の声が飛ぶ。

そのざわめきが、壁越しにまでじわじわと伝わり、宵乃の胸に緊張を滲ませた。


二人がこれから向かうのは、内裏北東角にある古いやぐら。表向きはただの物見櫓だが、その内部には人知れず千影せんかげ神社の分社が隠されているらしい――それこそが、ヨリ様から託された密命の場所だった。


戸板をトン・トン・トン。

決めておいた三度の合図。


扉を細く開けると、鎧兜で武装した兵二名が駕籠かごを担いで立っていた。宵乃と日野介は頭巾を目深にかぶり、急いで乗り込む。駕籠は黙したまま、裏道へと滑り出した。


格子戸の隙間からのぞく夕空は、群青と朱が混ざり合っている──宵乃の胸が早鐘のように打つ。


「宵乃」


対面に座る日野介が、そっと肩に手を置いた。節くれだった指の温もりが、緊張で冷えた肌に沁みる。


「深く息を吸え。お前の力を信じろ」


宵乃は大きく息を吸い、吐く。心臓の鼓動が、ほんの少し落ち着いた。


「……ありがとう」


駕籠がやがて大路を外れ、低い土塀の影で止まった。担ぎ手たちは短く礼をすると、闇に溶けるように去っていく。


目の前に、急勾配の木階段が口を開けていた。上端は闇に沈み、櫓の内部へ続いている。軋む段を踏みしめて昇ると、板戸の向こうにほのかな灯り。


二人は櫓の中に入った。そこは外観からは想像もつかない密やかな社。小さな朱塗りの鳥居が室内に据えられ、さかきの葉が清め香をまとって揺れている。


中央の祭壇には掌ほどの丸鏡──月光を閉じ込めたように淡く光り、その前に敷かれた紫の座布団の上に、真新しい白装束が正しく畳まれていた。


日野介が室内を一通り確かめ、声を落とした。


「ここから先は――宵乃、お前の舞台だ」


明日、千代田信勝が帝に拝謁するため内裏へ入る。

何事も起こらず、結界が無傷のままならそれでいい。

だが、綻びが生まれた瞬間を聞き逃せば、都そのものが危うい。


(わたしが――必ず、守る)


宵乃は胸にそう刻み、そっと瞼を閉じた。

深呼吸一つ。鼓動がゆっくりと落ち着く。

耳を澄ますと、遠くの鼓の音、風に擦れる木の枝、そして結界を包むかすかな“響き”――薄い膜のように張り詰めた気配が――確かにある。


やがて、夜のとばりが都を覆い始めた。


蝋燭の芯が小さく弾け、宵乃の決意だけが静かに燃え続けていた。

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