第二十一話 迫る軍勢、そして黒衣のもの
茶室の中には、ピンと張り詰めた空気が漂っていた。
宵乃は緊張で冷たくなった手を膝の上に置き、指先をそっと重ねた。
白装束の老婆は、話を続ける。
「”黒衣のもの”については、各々聞き及んでおろう。彼らが千代田の軍勢の背後にいるのはもはや疑いない。そして、千代田の軍勢はこちらに向かっておる」
すると、奥の席の武士・千空照雅が口を開いた。
「ここからは私が話しましょう」
千空は、ゆっくりと宵乃たちの方へ向き、視線を全員に巡らせた。
宵乃はその強い眼差しに、思わず背筋を正した。
「嵩原家を滅ぼした千代田信勝の軍は、自領には戻らず、そのまま西進した。現在は都の東、天白山に陣を敷いている。従える兵は──六万」
ざわりと場に緊張が走った。
「帝の御座所の目と鼻の先、か」
穏やかだが鋭い声を発したのは、六輪山の僧侶・雪矢。
淡い微笑みを浮かべるような面立ちだが、目の奥に灯る光は冷たい。
宵乃はちらりと雪矢を見やった。
(千空が炎なら、雪矢は氷――)
「脅しをかけていやがる」
と不愉快そうに肩を揺らすのは、ざんばら髪の尼子鳴久。
この人は雷だ、と宵乃は思った。
鋭い目つき、乱れた髪、弾けるような気配。
「昨日、千代田は“帝への謁見を望む”と使者を寄越した。多額の献金を添えてな」
千空の言葉に、皆の眉が険しくなる。
「ふむ、考えたな。断れば敵対の意思、受け入れれば傀儡。どちらにしても悪手になる……」
雪矢が瞑目したまま言った。
「断れば、力づくってことか」
鳴久が吐き捨てた。
思わず、コモリが口を挟んだ。
「……“黒衣のもの”が千代田を操っているのは、確実なのですか?」
全員の視線が一斉にコモリへと集まった。
宵乃に向けられたものでないと分かっていても、思わず背筋に寒気が走る。
「……断言はできぬ」
千空の声がさらに低くなる。
「“黒衣のもの”が主導か、千代田信勝か、あるいは意思が一体化しているのか――それは分からん。ただ……」
千空はゆっくりと全員を見回した。
「三年前、千代田信勝は、突如として変わった。それまでは文人肌で、歌や管弦を好み、信仰深い男だったという噂だった。それが、急に兵を集め、自ら戦を仕掛けるようになった。そのころから、異教の者たちを居城に引き入れたと報告されておる」
「……つまり、“黒衣のもの”との接触が……始まった」
コモリが問いかけるように口を開いた。
「……なるほど、分かりやすいな」
雪矢が目を開けて冷たく笑う。
千空は淡々と続けた。
「”黒衣のもの”も……もともとは、ただのはみ出し者たちの集まりだった。山賊や盗賊などと同じような連中。誰も気に留めてはいない。だが、そこへ異国の者が入りこんだ。元は“宣教師”たち。己の信仰を布教するため、彼らを隠れ蓑に利用しはじめた。そして、千代田との関わりを持つようになる……」
「ただ、それだけなら、我々が関わる問題ではない」
白装束の老婆が、怒気をはらむような強い声で言った。
「問題は……千代田の軍勢が進むところに、結界の破壊があったことじゃ」
(結界の破壊……)
宵乃は息を呑む。
「戦の前に、敵地の結界を破壊し、”妖”や”邪”の封印を解く。その役割を果たしたのが”黒衣のもの”と言われている。混乱や災害を招いたところに、千代田信勝が侵攻する──そうして、六つの大名家が滅ぼされてきた」
千空が言葉を継いだ。
宵乃は勇気を出して、震える声でたずねる。
「最悪の想定では……“黒衣のもの”は”妖”だけでなく、今や千代田の軍勢すら操れるということですか?」
千空は黙って頷いた。
宵乃は無意識に唇を引き結んでいた。
すると、鳴久が無遠慮にたずねた。誰もが言葉を選んでいる中で、鳴久だけが空気を断ち切るように割り込む。
「で、そいつらの長は誰なんだ?」
場が冷えた。誰も即答しない。
「……分からねえ、ってことか」
鳴久は鼻を鳴らして、腕を組んだ。
しばしの沈黙──
「もう一つ聞きたいことがある」
鳴久の視線が、コモリに刺さる。
「茂吉の裏切りのことだ」
場がざわめいた。
「二日前、茂吉がお前たち二人を殺そうとした。それは間違いないんだな?」
コモリは震える瞳を伏せ、ゆっくりと頷いた。
「コモリ、悪く思わないでくれ、我々は情報が早い」
と老婆が言った。
「実の妹を……何て野郎だ」
鳴久は両手の拳を打ち鳴らした。
「嵩原家の情報を千代田に流していたのは、茂吉だった可能性が高い」
千空が断言する。
「それでは、茂吉が我々の情報を”黒衣のもの”に渡していることもあり得るのですね?」
と雪矢がたずねた。
「いや、それは断じてない」
老婆の声は、鋭く切り込むようだった。
「茂吉が里を離れたのは、すでに五年も前のことじゃ。
それに──猿翁、茂吉とコモリの父は、かねてより茂吉のことを勘繰っておった……」
言葉の奥に、わずかな苦味が滲んでいた。
宵乃は胸が痛むように、はっと顔を上げた。
コモリの震える手を、宵乃は迷わず包んだ。
(自分にできるのは、これだけだ──そんな思いが胸を締めつける)
「裏切りが生んだ疑心は、己らの心を侵す。しかし、この場にいる者のことは信じなければならぬ。我らが己らに疑いを持てば、結界は内側から崩れると心得よ」
老婆は厳しい表情で皆に伝えた。
六家──。
いま、この国を護るために集った者たち。
宵乃は、その場の張り詰めた空気とともに、胸の奥にじわじわと重みがのしかかるのを感じていた。




