第二話 血まみれの剣士
村は静まり返っていた。
人の姿、音も、灯りもない。家畜の気配もない。
戸はすべて開け放たれ、まるで村人全員が夜逃げしたかのようだった。
村の外れ、獣道の先。
倒れていたのは、血まみれの男だった。
手には鞘ごと握った刀。腰には、もう一振り。背丈は高く、着衣の下に浮かぶ筋肉の輪郭が、よく鍛えられた体を示していた。
若い──だが、場数を踏んだ者の気配もある。
(……侍?こんなところに……?)
城や戦場から離れたこの山奥に、侍がいるのは妙だった。宵乃は、内心でそう呟く。
顔は土に伏せ、体は深く蝕まれている。
足の先から黒い靄が絡みつき、膝、太腿、腰へと這い上がっている。
靄は、まるで意志を持った蛇のように──ゆっくりと、脈打っていた。
(……妖気。それも濃い)
通常、妖気は目に見えない。だが、人の血に入り込むと妖気は、黒く染まる。
宵乃はしゃがみこみ、男の顔をのぞく。
「おい、生きてる?」
返事はない。だが、かすかにまぶたが動いた。目はまだ開いていた。虚ろであるものの、かすかに焦点は合う。呼吸は浅く、顔は苦悶に歪んでいる。
「一つ、聞く。現世に、心残りは?」
風が、木の枝を揺らす。遠くで、鳥ではない何かの声が響いた。
「……」
男は微かに首を振った。
「嘘」
宵乃は、黙って男の胸に手を当てた。
もう片方の手で、腰の鈴を握る。
──チリン。
小さな音が鳴る。
その瞬間、男の足を這っていた黒い靄が、苦しげに身をよじった。
(侵食が深い)
手を置き直す。宵乃の唇がわずかに動いた。
「妖しき穢れよ、退き給え。還れ、元の形に」
淡い光が、宵乃の手のひらから染み出す。黒い靄が体から拡散し、それは意志を持った生き物のように山の方へと逃げていった。
男の体が震え、喉が低く鳴った。
痛みが走ったのだろう。それでも、声は上げない。
妖気の残滓は、光に追われ、山の奥へと消えていった。
「妖気は去った。だが、体の傷は深い。動いてはならぬぞ。」
男の唇が微かに動く。
「……山……へは……行くな」
宵乃はうなずきもせず、ただ立ち上がった。
宵乃の視線はすでに、妖気が逃げていった方角に向けられていた。男の忠告を一顧だにしなかった。
「山へ行く」
白い髭の老人が、音も立てずに後に続く。杖をつきながら。
⚫︎⚫︎⚫︎
山道の入口。鳥居が立っていたはずの場所には、今、無惨な残骸だけが残っている。
笠木と柱は割れ、しめ縄は裂かれ、紙垂は泥に塗れていた。鳥居の裏に貼られていただろう護符が散らばり、その多くが焼け焦げている。
(破られてる……結界も、全部)
宵乃は鳥居をくぐり、静かに地面に手を当てた。白髭の老人は、宵乃の背後で動かずに立っていた。
(元は……数百年はもつ強固な封印。けれど──)
結界の痕跡は、風のように消えていた。完全に──剥がされている。そのとき、ふと、白髭の老人がうっすらと笑ったように見えた。
そのとき──宵乃の耳に、低い声が届いた。
「……来たか。巫女の血……よくも……また……」
風がざわめき、山の奥から気配が立ちのぼる。宵乃は静かに、腰の鈴に触れた。声の主は強い妖気に覆われているが、その奥底にはかすかに神聖さが残っている。
「……白狼か。山の神だった獣……」
白狼──かつて、高山の神獣とされた霊性の高い存在。
本来ならば、人里に近づくはずのないもの。
(なぜ、こんな場所に……?)
宵乃は、ビリビリと肌を刺すような妖気を感じながら、山の道を静かに登っていった。
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次の話は、妖気に侵された白狼との戦いです。
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