第十八話 都のほとり、結界に護られた社
夜の水面を撫でる風が、宵乃の髪をやさしく揺らした。
しんと張り詰めた静けさのなか、小舟はゆっくりと川をさかのぼっていた。都の東を迂回するようにして流れるこの川は、音を飲み込んだように沈黙し、ただ櫂の水を切る音だけが、かすかに響いていた。
舟を操るのは、小柄で無精髭をたくわえた老船頭。最初は夜の出航を渋っていたが、宵乃が差し出した銀貨二十枚を見て、無言で櫂を取り、舟を出した。
「……不気味なくらい静かだな」
船首に座った日野介が、低くつぶやく。
「ええ。追手の気配も、今のところはありません」
コモリが頷いた。コモリの肩に止まったフクロウが、銀の瞳で夜の闇をじっと見据えている。すでに何度も上空を舞い、周囲の偵察を終えてはコモリの元に戻ってきていた。
船の中央には、意識を失ったままのカナギ──老人の姿。かすかな寝息を立て、その表情には穏やかな微笑さえ浮かんでいた。コモリが、吹き矢の傷に薬草を塗って処置を試みたが、目覚める気配はなかった。まるで深い眠りの奥に閉じ込められいるかのようだった。
宵乃は静かに水面を見つめていた。銀色の月が、さざなみに揺れて、まるで夢のように映っていた。
(……都)
瞼を閉じると、ついさきほど初めて目にした“都”の姿が浮かぶ。
闇の向こう、地平のかなたに浮かび上がる灯の列。巨大な門、その背後に天へと伸びる塔の相輪。
「南門の方が、もっと大きいわよ」とコモリが言っていた。
「……嘘だろ」とつぶやく日野介に、宵乃もまた、同じ気持ちだった。
宵乃が訪れたことのある古都も、それなりに賑わいのある町だったが、あの都は別格だった。規模、空気、ざわめき、そして結界の密度。そのすべてが桁違いだった。
何よりも宵乃の“耳”がとらえたのは──
幾重にも重ねられた、都を包む結界の“音”。
それはまるで、重く厚い織物が何枚も重なったような層を成しており、低く、強く、澄んだ音を放っていた。
(……こんな結界があるのに)
その結界を破ろうとしている者がいることが、にわかには信じがたかった。
◆
やがて、小舟は静かに桟橋へと滑り寄った。
都の北東、農村地帯に近い静かな入り江。街灯も人影もなく、ただ夜露の匂いと虫の声だけが辺りを包んでいた。
「姉さんら、気ぃつけなよ。都は今、どこも落ち着いちゃいねぇ」
老船頭が低く言った。
舟を降りるとき、宵乃はあらかじめ用意していた袋をそっと渡した。中にはさらに銀貨が数枚。
「これは、さっきのとは別。……どうか、今夜のことは誰にも」
彼は無言で頷き、舟を返した。静かに水を分けて、小舟は闇の川へと消えていった。
日野介はカナギを背負い直した。コモリがフクロウをひと撫ですると、フクロウはふわりと翼を広げ、夜空へ溶けていった。
◆
向かう先は、“千影神社”──猿翁が教えてくれた隠れた拠点だった。
森を抜ける細道は、ほとんど獣道に近く、草は伸び放題で、木々が視界を遮っていた。
「……なあ、本当にこの道で合ってるのか?」
日野介が低く問いかける。
宵乃は、草を踏みしめながら小さく頷いた。
「うん……この先に、音がする」
“音”とは、宵乃にしか聞こえない、結界の響きだった。
それは微かな弦の震えのような、糸を弾くような音。空気の奥から引かれるように、宵乃は進んだ。
──やがて、見えた。
高い木々の間、静かにたたずむ“小さな鳥居”。
まるで森そのものが守っているかのように、しっとりとした空気に包まれていた。奥には、木造の古い社。そして、それを包むように、淡い光の結界。
その結界は、お椀を伏せたような形で、穏やかに揺らいでいた。
宵乃は、足を止めた。
「……懐かしい音」
その音は、母や祖母が結んでいた結界の音と、よく似ていた。
清く、静かな音色。
「俺には……何も聞こえないが」
日野介がつぶやく。
鳥居の前には、さらにもうひとつの結界が重ねられていた。
”試しの結界”──宵乃の目に見えるそれは、妖をはじき、また穢れた心を持つ者を通さぬ障壁であった。
空からフクロウがコモリの肩へと戻ってきた。
コモリはフクロウの背中を軽く撫でて言う。
「あたりは異常なしです。中へ入りましょう」
──都との戦いは、ここから始まる。
その決意を胸に、宵乃は鳥居をくぐった。コモリとフクロウも中に入る。
日野介が、老人を背負ったまま鳥居をくぐろうとする──が、
「……ん?」
彼の足が、ぴたりと止まる。
「進まない……?」
目に見えない力に押し返されるように、彼の身体が弾かれた。
「結界が……拒んでる」
宵乃がつぶやいた。
「……封印されていても、カナギの中には“妖”の本質が残っているのでしょう」
とコモリが言った。
そのとき──
鳥居の奥から、すっと人影が現れた。
小さな影。年端もいかぬ少女だ。
白い着物に、風にたなびく黒髪。手には、笛のようなものを握っている。
その目が、すっと三人を射抜いた。
そして──
「動くな。動いたら、殺す」
その声は、幼さを残しながらも、ぞくりとするほど冷たかった。
宵乃の目には、少女の身体から、淡く光の粒が舞っているように見えた。鳥居の結界と同じ音が、少女からも聞こえる。
(……この子、結界の“音”を纏ってる?)
宵乃の胸に、ざわりとした感覚が広がった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回から”都編”突入です!!
宵乃の物語もいよいよ終盤へ近づいてきました。
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