第十七話 虹の向こうへ
日野介は、森の中で三人の忍びとにらみ合っていた。
忍びたちは日野介を囲み、吊り橋のたもとに行こうとするのを許そうとしない。一歩でも踏み出せば、手裏剣が飛び、鎖鎌の分銅が音もなく襲いかかってくる。
(──早く、茂吉を追わねえと!)
まるで檻の中に閉じ込められた獣のように、日野介は一瞬の隙を窺っていた。
そのときだった。
森がざわめき、葉が宙を舞った。 無数の葉が、矢のように鋭く、橋の方角へと飛んでいく。
(あれは……茂吉の術か?それともコモリのか?)
一瞬、忍びたちも上空に目を奪われた。
好機──!
日野介は、迷わず飛び込む。
鎖鎌を振るっていた忍びに、低く、鋭く切り込んだ。 避けきれなかった忍びの胸が裂け、鮮血がほとばしる。
日野介は、すかさず背後の気配に反応する。
(ありがたい、近づいてくれたな)
迫る刃を、ギリギリまで引きつけ──
一気に反転。日野介の刀がうなりを上げ、相手の胴を薙いだ。
二つに割れた体が、地面に崩れ落ちた。
残った一人は、煙玉を地面に叩きつけた。
瞬く間に濃い煙が森に広がる。
日野介が目を凝らすより早く、忍びの姿は霧散するように消えていた。
(追ってる暇はない……!)
日野介は刀を握り直し、橋の方へと駆け出した。
◆
橋の上では、黒く重い雨が降りしきっていた。
縄も板も、水を吸ってどんどん重くなっていく。 キシィキシィと軋む音は、もはや崩壊へのカウントダウンであった。
宵乃は、橋に施していた護りの結界を閉じた。 青白い光が、糸を巻き取るように宵乃の元へ戻ってくる。
(巫女は──祈るもの)
祖母も、母も、そう教えてくれた。 日照りには雨を、洪水には晴れを。 天に祈り、地を鎮める。それが巫女の本懐。
「自然にはただ謙虚に祈りなさい。ただし、自然を支配しようと思ってはならない」
──幼い頃、母が繰り返し教えてくれた言葉だ。
だが今、宵乃はその教えに背こうとしていた。
(……いま、私にできることは──これだけ)
宵乃は静かに膝をつき、震える両手をぎゅっと組み合わせる。
必死に、空に向かって願う。
「天の雲よ、雨よ、雷よ──我に味方せよ」
鈴が震え、青白い光が宵乃の身体から噴き上がった。
「何をしようと無駄だ!」
茂吉が叫び、吊り橋の縄を切ろうと刀を振りかぶった。コモリは手裏剣を投げたが、かすりもしない。
だが──
宵乃の祈りに応じるかのように、空が応えた。
宵乃の青白い光が、黒い雨を巻き込みながら、上空へと昇る。 そして、ぐるりと弧を描き──
天の龍が吼えるかのように、光と雨と風をまとい、茂吉へと襲いかかった!
「な──」
茂吉が顔をこわばらせる間もなく、青白い奔流が彼を呑み込む。
凄まじい勢いで茂吉を弾き飛ばした。
「宵乃様!今です!」
コモリが叫んだ。
宵乃とコモリは、ぐったりしたカナギを必死に支え合いながら、軋む橋の上をふたたび進む。
コモリの肩からは血が流れ、足もまともに踏ん張れない。それでも彼女は唇を噛みしめ、前へ進もうとする。
足元の板はぐらぐらと揺れ、手すり代わりの縄も今にも千切れそうに悲鳴を上げる。
一歩、一歩、進むたびに橋が沈んでいくようだ。
──あと、少し。
宵乃は、震える手でコモリとカナギを支えながら、必死に前を向く。
渡り切るしかない。この橋が落ちるより先に──!
──だが、しかし──
「させるか!!」
地に伏していた茂吉が、ふらりと立ち上がった。
手には小刀──それをまさに宵乃めがけて投げ放とうとする。
(避けられない──!)
宵乃は目を閉じた。
時間が、凍りつく。
その刹那──
疾風のように、影が飛び込んだ!
カンッ!
鋭い金属音とともに、日野介の刀が茂吉の手から小刀を弾き飛ばした。
小刀は宙を舞い、地面に刺さった。
「少しでも動けば──斬るぞ」
低く冷たい声。
日野介は、茂吉の喉元へと容赦なく刃を突きつけた。
「ぐっ……」
茂吉は声にならない声をあげる。
宵乃とコモリは、カナギを支えながら、どうにか這うように岸へと転がり込んだ。
その直後──バキバキと裂ける音。
ギギギギ……ギシィ──!
凄まじい悲鳴を上げて、吊り橋が崩れ始めた。
縄が音を立てて弾け、板が軋み、砕け、
まるで生き物が断末魔を叫ぶように、橋は谷底へと引きずり込まれていった。
「──何とか、間に合ったな」
日野介は息をついた。刀を握る手を緩めないまま。
◆
コモリが震える指で、カナギの脈を確かめる。
「大丈夫……まだ、生きてます」
宵乃は胸をなで下ろした。
宵乃とコモリは、言葉もなく、互いの顔を見つめ合った。
無事だったことへの安堵が、ほんの一瞬、二人の胸を満たす。
だが──コモリの瞳には、拭いきれない痛みも浮かんでいた。
実の兄が敵だったという現実。それでも、彼女は顔をそらすことはなかった。
日野介は、刀を茂吉の喉に当てながら茂吉を跪かせた。
茂吉は、観念したかのようにがっくりとうなだれている。
「さあ、洗いざらい話してもらおうか」と日野介は言う。
「茂吉……あなた、黒衣のものなの?」
宵乃が問う。
しばしの沈黙。
茂吉が頭を少し起こし低く呟いた。
「分かった……。すべて話そう」
茂吉は大きく息を吐いた。
しかし、次の刹那、茂吉は自ら喉元に刀を押し付けるように体重をかけた。
日野介は反射的に力を抜いた。咄嗟に、相手の急所を貫くことを避けてしまったのだ。
茂吉は刀の圧力を利用して身体をねじり、反動で懐から煙玉を抜き取った。
次の瞬間には、白煙が日野介の視界を覆い尽くしていた。
モクモクと濃い煙が巻き起こる。
「逃げ──!」
日野介が叫ぶ。日野介は、茂吉の足音の後を追う。
が、ときはすでに遅い。
茂吉の吊り橋があったところから、崖を飛び降りた。
日野介が急いで崖の縁に駆け寄ったとき──
湖の方へ、茂吉がふわりと宙を滑空しているのが見えた。
「──ムササビの術!」
コモリが悔しげに叫ぶ。
茂吉は黒い布を広げ、風を受けて湖へと飛んでいく。
「くそっ!」
日野介が、悔しげに奥歯を噛み締めた。
「刀を緩めたのは──俺の甘さだ」
宵乃は、日野介の肩にそっと手を置く。
「仕方ないよ。昨日までみんな茂吉のことを仲間と思ってたんだ」
宵乃はそっとコモリを見る。
コモリは何とも言えない表情で飛んでいく茂吉を見ている。
「──みんな、生き延びた。それだけで、十分だよ」
「そうだな」
そう言って、日野介は深く息を吐いた。
◆
雨が上がった空には、淡く虹が架かっていた。
風は冷たく、世界は静かだった。
虹の彼方に待つのは、きっと茨の道──それでも、歩くしかない。
宵乃はそっと拳を握りしめた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
今回で、長かった吊り橋での戦いが、ついに決着しました。
いやぁ……正直、私も書きながら手に汗握っていました。。。
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さて、次回からはいよいよ【都編】突入!
舞台は大きく変わり、物語も中終盤へと加速していきます。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!