第十四話 揺れる吊り橋、まさかの敵
風が谷をヒュウと走り、吊り橋の板をなぞるような音を立てた。
眼前にあるのは、朧ノ橋──両岸を結ぶ、縄と木の板だけで編まれた、細い吊橋だ。
縄はくすんだ灰色。板は朽ちかけ、人ひとりがやっと通れる幅しかない。
その足元には、目も眩むほどの深い谷。底では、川が轟音をあげて唸っている。
──落ちたら命はない。
宵乃たちは橋の手前で立ち止まった。それぞれが、静かに策を巡らせる。
宵乃は腰の鈴を見下ろす。妖の気配は感知していない。だが──胸の奥がざわついている。同じように、日野介もコモリも”胸騒ぎ”を感じているのであろう。二人とも険しい表情で、橋を見ていた。
日野介が顎に手をやり、向こう岸を見るように目を細める。橋の向こう岸には、また森が続いている。
「ここからでは何も見えないけどな」と日野介がつぶやいた。
宵乃の覚悟は決まっている。戻ることはできない。──進むしかない。
◆
「ここで間違えれば……四人まとめて谷底です」
コモリが吊り橋の縄にそっと触れ、強度を確かめながら言った。声は低く、空気に緊張が走る。
「全員で一気に渡るのは、避けたほうがいいな」
日野介の声も硬い。
「もし、何者かに途中で橋を落とされたら……全滅だ。考えたくないけどな」
「橋の上で動きを封じられても、袋のネズミですね」
コモリの表情は普段以上に引き締まっていた。
一瞬の沈黙のあと、
「二人ずつ渡りましょう」
宵乃が静かに提案する。その一言で、空気が決まった。
「そうだな、それが最善かもな」
日野介が頷き、顎で対岸を示した。
「俺とカナギが先に行く。俺は遠距離の攻撃ができない。なら、前に出る方が良いだろう。何か異変があれば合図する――それでいいな?」
一瞬の無言の間があった後、宵乃とコモリは頷く。
コモリは日野介の耳元で短く何かを告げ、日野介は眉をひそめつつ同意した。
宵乃の喉がごくりと鳴った。
「なあ、宵乃」
日野介は、少し場を和ませるように声をかけた。
「あの爺さん、また妖狐になって襲ってきたり……ってこと、ないよな?」
「それはないよ。封印がある限り……」
少しだけ、間が空いた。
「……今の彼は、“魂の抜けた器”のようなもの。この姿では、戦うことはできないけどね」
宵乃が日野介の目を見る。
「分かっている。俺が何とかする」
日野介は長く息を吐いた。
橋のきしむ音が、風に紛れて響いていた。
◆
先頭に日野介、続いて老人。一歩ごとに、橋は軋みを上げ、板の隙間から冷たい川風が足元をなぶるように吹き抜けた。
(思ったより揺れるな)
日野介は手すり代わりの縄を握り直す。背後の老人は、揺れにも意に介さず歩いていた。
橋の半ばを過ぎた。対岸が近づく。何も起こらない。振り返ると、遠くで宵乃が何かを叫び手を振っている。何かを言っているようにも思えるが、声は風に攫われていて聞こえない。
(よし、あと十歩くらい)
日野介は、対岸が間近になったことで、ほっと息を吐いた。
そのとき、ヒュッ――。
耳をかすめた風切り音。直後、日野介の後ろで、何かが突き刺さるような音がした。
日野介が振り向くと、老人の身体が痙攣し、板の上へ崩れ落ちる。
「カナギ!?」
日野介は体を支えようと、半歩踏み出す――が、耳にコモリの忠告がよみがえった。
──何があっても、戻らないでください。
──何があっても、先に渡りきってください。
日野介は歯噛みして、指笛を吹いた。
何かあったときの合図だ。
残り数歩を駆け抜ける。
対岸の土を踏んだ瞬間に、日野介は刀を抜いて構えた。
(やはり、何かいる……!)
後ろを振り向く余裕はない。
木の影で何かが動いた。日野介はそれを追って、暗い木々の中に分け入った。
日野介は警戒を保ちながら見回すが、くそ、何もいない。だが――
「……日野介」
森の奥から、低く、聞き慣れた声。
音もなく、口元を布で覆った黒装束の影が現れる。その声とその眼差し――
――茂吉……!!
「どうしてここに……!」
日野介の頭が混乱する。茂吉は一足早く、岩村城に戻っているはず。日野介の思考が追いつかない。
「裏切ったのかって、顔をしているな。違うさ」
茂吉は鼻で笑う。
「最初から、仲間ではない。ずっと敵だったんだよ」
茂吉は日野介を嘲るように言った。
「何だと!」
「結界を修復するあの子が邪魔だったんだ。私たちにとってね。だから、”山の神”にお前らをまとめて始末させる手筈だったんだが――妖狐は計算外でね」
(何だと?茂吉は初めから敵?確かに、あのとき茂吉は何度も木に登って前方を確認していたのに、俺たちは簡単に待ち伏せにあった……。全てが茂吉が仕組んだ罠だったということか……。)
「でもさっき、妖狐に毒の吹き矢を当てた。さすがに人間の姿だと効いているようだね。これでこちらの憂いは消えた」
「むむ……」
日野介は唇を噛む。
「この橋を通ると思っていたよ、ククク」
日野介は、まだ目の前の茂吉が敵であるとは信じきれなかった。
「あの傷も嘘だったのか?」
「その通り。大した傷ではなかった。お前の背中はあったかかったな。刺すには、もったいないぐらいにさ。ククク」
信じていた相手の声が、どんどん冷たくなっていくように感じる。
しかし、刀を握る手はじっとりと汗ばんでいる。
信じたくない。でも、目の前の現実に対処するしかない。
(宵乃とコモリはどうしている……?ここからでは見えない。まずいな)
日野介が振り向こうとすると、足元に何かを感じた。視線を落とすと、地面に撒菱がまかれていた。
「おっと、そう焦るなよ」
茂吉が手を払うと、五人の忍びが木陰から滑り出た。
(あのときの荒賀の忍び……。
ささっと、五人が茂吉を取り囲んだ。
「そろそろ宵乃たちが渡る頃だ。まとめて谷底だ。ふふふ。俺は、橋を焼き払いに行く。あとは任せた」
茂吉は、そう言い残し、日野介に背を向けた。
「待てっ!」
日野介は茂吉の背中を追いかけようとした。
しかし、ザザッ――
二人の忍びが日野介の行手を阻んだ。手には鎖鎌と小刀を持つ。
左右に二人。背後に一人。
「上等だ」
日野介は、覚悟を決めた。
風が止んだ。あまりの静けさに、日野介は呼吸を忘れかけた──その直後、影が動いた。