第十二話 結界に込められた想い
室内は薄暗く、燭台の火がゆらゆらと揺れている。
猿翁は椅子に深く身を沈めたまま、黙ってコモリの報告に耳を傾けていた。報告は、嵩原の戦について──そして、千代田信勝の動きについてだった。
「このわずか二年で五つの国を平らげた、猛き若武者。そして、奴の進軍の跡には、必ず結界の綻びが残る……」
(千代田信勝……。私も耳にしたことがある。名将という噂だったが……)
宵乃はじっと話の続きを聞く。
「宵乃殿、ここから先は私の推測となるが……」
猿翁は、ゆっくりと宵乃の方へ顔を向けた。
「千代田信勝の背後に、黒衣のものがおる。黒衣のものが、千代田を操っているとも考えられる。そして、奴らの真の狙いは、国護りの三柱。この国にある“大いなる3つの結界”──君の一族ならば、この名を知らぬものはいるまい」
その低く掠れた声には、言葉を選びながらも確信があった。
「……都と、六輪の火守堂、そして不二の山」
祖母、そして母から何度も聞かされてきた話だ。
猿翁は深く頷いた。
「その通り。霊峰・不二。神龍が眠る、我が国の霊脈の中枢……。もっとも強固な結界が張られている。近年は小規模な噴火が続いておる。人の力では近づくこともままならん……」
「それを、黒衣のものは……」
宵乃は、唇を噛んだ。
「いや……さすがに奴らとて、不二には近づけまい。あそこは、まだ“時が満ちていない”。六輪の火守堂もまた、険しい山中にあり、今なお僧侶たちが結界を守っている。だが──都は違う」
猿翁は声に力を込めた。
「今回の戦で、都に通じていた嵩原家が潰された。それが意味するもの……分かるな?」
宵乃は、息をのむ。
「……帝を。奴らの狙いは……!」
「そう。帝の血脈は、この国に流れる霊力そのもの。奴らの次の標的は……、帝だ。本気で壊そうとしておる、我が国を」
猿翁の言葉は重く、そして静かだった。
「……宵乃殿、都へ向かってくれ」
「本来なら、この老骨も共に行きたいところだが……この有様ではな」
視線を落とした先、猿翁の足は膨れ、動かぬままだ。
「代わりに、コモリを連れて行ってくれ。コモリは、飛賀の若き継ぎ手。気性は荒いが、信頼はできる。都には、味方もいれば敵もおる。信じられる者ばかりとは限らぬ」
部屋に、しばし沈黙が流れた。
「……君の故郷が襲われたのも、偶然ではなかろう。君の一族には、結界を張り、繕う力がある。その力が恐れられ、狙われたのだ」
宵乃は俯き、拳を握った。
「……私のせいで、多くの命が……。遠山様も……」
「違う。君がいたからこそ、命は繋がり、真実がここへ届いた。君は光だ、宵乃殿。闇を裂く、希望そのものだ」
その声に、宵乃ははっと息をのむ。
──母が言っていた。「あなたの手は、人を繋ぎ、守る手になる」と。
その言葉を思い出しながら、宵乃は静かに、深く息を吸い込んだ。
「……都までは、北西に五日。明日の早朝に発てるよう準備をします」とコモリ。
「うむ。宵乃殿、行ってくれるな」
その言葉には、老忍の信頼がこもっていた。
宵乃は「……はい。全力を尽くします」と答えた。
「宵乃様……改めて、お仕え申す」とコモリは膝をついて宵乃に礼をした。
宵乃は胸に手を当て、深く頭を下げた。
燭台の炎が、宵乃とコモリの影を一つに重ね、そして揺らしていた。
◆
「宵乃様……」
猿翁の家を後にした直後、コモリがそっと声をかけてきた。
「ひとつ、お願いがございます。この里の奥之院にある結界──どうか、見ていただけませんか?」
「ええ、もちろん」
宵乃は頷いた。旅立ちの前に、自分にできることがあるのなら、それを果たしてから行きたかった。
森の奥へと向かう。月明かりの差す中、二人は“奥之院”と呼ばれる静かな一角へと歩を進める。
そこには──仄かな灯火の下に、数えきれぬほどの石仏が並んでいた。
すべて、猿の姿をした仏たち。巻物を抱える者、印を結ぶ者、笑う者、泣く者──
「ここには、この里の者たちの魂が祀られています」
コモリの声には、珍しく慎ましさがにじんでいた。
「その魂を護る結界が……最近、弱ってきているのです」
宵乃はゆっくりと進み、仏像の並ぶ中央──苔むした石畳の上にしゃがみ込む。
手をかざすと、確かに結界の一部に綻びがあった。そこには微かな振動があり、まるで“待っていた”かのように、宵乃の術を受け入れようとしていた。
「これは……風化ね。二十年に一度は手入れが必要な術式……」
(……でも、この感触……)
宵乃の指先が、ぴたりと止まる。
──そこには、確かな“修復の痕跡”があった。
符の配置、練り方、結びの癖。どれも、宵乃の記憶にある“誰か”の手の動きだった。
(まさか……)
気を流す順番、静める方法、すべてが整っている。そして──次に訪れる誰かのために、工夫が施されている。
(……お母さん?)
宵乃は小さく息を呑む。
癖のある結界の流れ。その手順は、幼いころ母から何度も教わったものと、まるで同じだった。
(あの人のやり方……間違いない)
そこには名も印も残されていない。けれど、術そのものが語っていた。
同じ術を学んだ者なら、きっと“感じる”ように──
(私がここに来ること、知っていたんだ……)
宵乃の胸の奥に、確かな熱が灯る。
「……お母さん……」
声が、震えた。
宵乃は目を閉じ、両手をそっと結界に添える。
胸の奥に、じんわりとあたたかなものが灯った。
言葉では語られなかった教えが、ここに確かに生きていた。
宵乃は、ゆっくりと結界に力を注ぐ。
母の手順そのままに、ひび割れをなぞるように印を結び、癒しの気を流していく。ひとつ、またひとつと光が走るたび、仏たちの輪郭がほのかに光を帯びた。
──受け継がれた力。
──託された想い。
それらすべてが、結界の中に、今も息づいていた。
「……ありがとう。守ってくれて」
宵乃は最後の印を結び、ひときわ強く祈りを込めた。
まるで、誰かが微笑んでくれたような気がした。
「……もう行くね」
宵乃は、ぽつりと笑って言った。
「私にはまだやるべきことがある」
後ろでコモリは、何も言わず、ただ立っていた。
「結界……ありがとうございました」
「ううん、私のするべきお仕事だったよ」
「……そうですか」
「じゃあ、行こうか」
「はい。準備はできています。日野介殿もお待ちです。カナギ殿も……」
ふたりは並んで、ゆっくりと歩き出す。
宵乃の背後から風が吹いた。結界の鈴が、かすかに鳴った。
その音は、誰かの祈りのように、ふたりの背を押していた。