第十話 フクロウの導き
宵乃は、老人に肩を貸して歩いていた。足元はおぼつかず、身体は鉛のように重たい。けれど、それでも歩くしかなかった。
肩越しにちらりと仲間の様子をうかがう。
日野介は、傷を負った茂吉を背負ったまま、黙々と歩いている。額には汗が滲み、顔には強い疲労の色があった。茂吉は、熱にうかされたように顔をしかめ、汗をかいている。
木々の影が長く地を這い、あたりはすっかり夜の色に染まり始めていた。
(……どこか、休める場所を見つけないと)
宵乃は唇を噛み、辺りを見回した。
──そのときだった。
風を裂く音。頭上から、何かがすっと舞い降りた。
フクロウ──眼は金色に輝く。
宵乃はとっさに身構える。しかし、背中越しに日野介の声が聞こえた。
「大丈夫だ。こいつは茂吉のフクロウだ」
そのフクロウは宙を舞い、一行の前に出て、ふたたび振り返る。まるで『ついてこい』と命じるように。
「……案内、してくれるの?」
フクロウは、低く羽ばたいて山の斜面へと向かう。半信半疑のまま、宵乃たちはそれに従った。そしてたどり着いたのは、木々に半ば飲まれた、古びた寺だった。
瓦の落ちた屋根、苔むした石段、崩れかけた本堂。かろうじて──屋根と壁が残っている。雨風はしのげそうだった。
「なるほど……ここで休め、ってことかしら?」
フクロウは、どこからか麻袋をくわえていた。宵乃が手を伸ばすと、それを素直に渡す。開いてみれば、中には乾いた薬草が詰まっていた。
「……お利口さんね、あなた」
日野介は、本堂の床に落ち葉を敷き、茂吉の体をうつ伏せにした。宵乃は薬草をすり潰して、茂吉の背の傷口に塗る。「うっ……」茂吉がうめく。薬草の効き目だろうか、熱がうっすらとひいていくようだ。
火を起こして、ようやく一息つけた。
日野介は宵乃のそばに腰を下ろすと、「長い一日だったな」と宵乃をいたわるように言った。日野介の視線が、本堂の端にぽつりと座っている老人へと向かう。
──カナギ。
いつものように物言わぬ、皺深き老人の姿に戻っている。
「本当に、同じ存在だとは……」と日野介がつぶやく。
「そうよね。あんな力があったなんて。私もまだ信じられない」
焚き火の光が、ちらちらと二人の横顔を照らしている。二人は何も語らないまま、ただ静かに炎を見つめていた。
──宵乃はいつしか、眠りに落ちていた。
◆
──夢を見ていた。
古都の外れにある地下牢。 半年前、宵乃が初めて“カナギ”と対峙した場所。
湿った石の匂い。遠くで水が滴る音。冷たく閉ざされたその空間に、鎖の軋む音だけが響いていた。
目の前にいたのは──
「……これが、“人喰いの狐”……」
宵乃は呟いた。
銀の毛並み。九本の尾を絡めるように寝かせたまま、妖狐は封陣の中に身を伏せていた。
痩せ細った肢体。皮膚の下から骨が浮き出ている。食も与えられていないのだろう。それでも──その瞳だけは、赤く、深く、決して力を失っていなかった。
「……百人以上を喰らった」
その噂を聞き、宵乃はこの地まで足を運んだ。
(もしかしたら──この妖が、私の家族を……)
喉元がひやりとする。だが、一歩踏み込んだ瞬間にわかった。
(違う……この妖気ではない。私の故郷で結界を破り、家族を喰らったもの。それはもっと禍々しく、暗い)
目の前の妖狐から感じたのは、たしかに強大な力ではあった。だがそれ以上に胸を打ったのは──沈みきった、果てしない“悲しみ”だった。怒りでも憎しみでもない。ましてや快楽でもない。
(……何が悲しいのか……)
そのとき──
「……誰だ、お前は!」
低く、かすれた声が響いた。それでもなお威圧を帯びた声だった。
宵乃は一瞬たじろいだ。けれど、逃げはしなかった。
(この妖は、まだ……役目が終わっていない)
宵乃は、少しだけ息を整えて答えた。
「あなたを……助けに来た」
赤い眼が、じろりと宵乃を舐めるように見た。少女の姿を、声を、眼差しを、測るように。
「小娘ごときが……?」
「命を助ける代わりに──私と契約を結んでほしい」
「契約、だと?」
「私が生きている間、あなたの力も言葉も封じる。あなたの姿も、人間の──老人の姿になる」
言いながら、自分でも胸が締めつけられる。こんなことを言える立場ではない。自分が誰かに罪を償わせられるほど、何者だというのか。
だが──それでも。
「……何のつもりだ。お前が、俺を裁くのか?」
「いいえ、償いの時間を。私が、与えるだけ」
しばしの沈黙。宵乃は、視線を逸らさなかった。
妖狐は、笑った。
喉の奥でくぐもったように、しかしどこか乾いた、楽しげな声。
「おもしろい……人に従うなど、妖にとっては最大の屈辱ぞ」
「……嫌なら、私はいくわ」
宵乃の言葉には、確かな覚悟が宿っていた。
「……よかろう」
妖狐は目を閉じ、静かに首を垂れた。
その姿には、奇妙なほどの落ち着きと──どこか、誇りすら漂っていた。
「我が長き命において、お前が死ぬまでの数十年など、瞬きにも満たぬ。……お前の契約、受けてやろう」
宵乃は、そっと霊符を取り出す。
指先で祈りの印を結ぶと、空気が静かに波打った。
白く淡い光が指先に集い、やがて霊符の面に宿っていく。
そして──震える手で、その符を、妖狐の額へと、そっと押し当てた。
その瞬間──
九つの尾がふっと消え、銀の毛並みが風にほどけるように散っていく。
骨が縮み、筋が落ち、皮膚がたわんでいく。
やがて現れたのは、一本の杖にもたれるような、老いた男の姿。
白髪に白髭、そして深く刻まれた皺。
どこか微笑んでいるようにも見える。だが、ただ一点。目だけは変わらないまま、宵乃を見据えていた。
◆
宵乃が目を覚ましたとき、空の端がほのかに白み始めていた。
冷たい朝の気配が肌を撫でる。焚き火はすでに火を落としていた。
その向こうで、かすかな気配が動いた。
「……茂吉?」
声をかけながら身を起こすと、本堂の隅で、茂吉が背を丸めて荷をまとめていた。
「体は……大丈夫なの?」
宵乃がそっと近づくと、茂吉はゆっくりと顔を上げた。その顔はまだ青ざめていたが、目には光が宿っている。
「……世話をかけたな、宵乃殿。日野介殿にも……」
静かな言葉に、宵乃は胸の底から安堵の息を吐いた。
「よかった……本当に」
その声に応じるように、背後から日野介の声。
「薬草が効いたんだな。フクロウのおかげだな」
寺の柱にもたれていた彼は、ぎこちなく背を伸ばす。どうやら、一晩中見張りを続けていたらしい。
「寝てないの?」
宵乃の問いに、日野介は小さく肩をすくめた。
少しの間をおいて、茂吉が口を開く。
「昨日の襲撃──潜伏を見抜けなかった、私の責任だ。罠だった……。我々を、あの山の神にぶつけるための」
「あの封印は、自然に壊れるものじゃない。……誰かが仕組んだもの。それも力のあるものの仕業」
宵乃が答えると、日野介が低く呟いた。
「黒衣の者……」
誰もそれを否定しない。静かに、冷たい風が通り抜けた。
「……飛賀の里まで、あと半日」
茂吉は膝に手を置きながら、立ち上がった。
「敵が追ってくるかもしれない。夜明け前には出よう」
東の空が、ゆっくりと藍から朱へと、色を変えていく。
その一行の背を──一本の木の枝から、金の眼のフクロウがじっと見つめていた。