第一話 ほころびのある村
(焼きいも……たべたいな)
寒風吹きすさぶ街道で、霜の気配をはらんだ風が、袖の下から吹き抜ける。少女はそっと口を尖らせた。
腰には小さな楽器、背には布袋、布袋の中には「旅芸人」であることを示す関所手形。──だが、そのどれもが本物ではない。
本業は、結界修復師。
名は宵乃。十五歳。
ただし、「十二くらいにしか見えない」と言われることが多く、十五に見られたことはまずない。
灰がかった琥珀色の瞳。くすんだ舞装束。風に揺れる黒髪に、赤い宝石をあしらった簪を挿している。
その隣には、白い髭の老人が一人。腰を曲げてゆっくりと歩いている。
微笑んでいるようにも見えるが、表情の変化はほとんどない。まるで能面のような顔だった。
宵乃は、巫女の血を引く。
神職の家に生まれ、祓いと鎮めの作法を授かって育った。本来の役目は、神前に立ち、祈りを捧げること。結界の修復は、その本分ではない。
だが宵乃には、生まれつきそれができた。結界の“音”を聞き取り、乱れを繕うことが。
「結界の修復」しか、生きる術が残されていなかった──
故郷を失い、居場所をなくした宵乃には。
食べていくために──結界修復師になったのである。
結界の綻びは災いをもたらす。古くから知られている理だ。優れた為政者は、結界の大切さを心得ている。結界を維持するためには、それ相応の対価を支払うべきであるとも。
宵乃と老人は川にでた。風が吹き荒び、寒さが増して感じられる。老人がふいに橋の向こうを指差した。
村の方角から、白い煙が立ち上っている。
「依頼のあった山は、もう少し先だけど……遅かったかも」
宵乃はぼそりとつぶやく。
老人は答えない。話さないのか、話せないのか。
もちろん、焼きいものような甘い香りなど漂ってはこない。鼻をつくのは、もっと別の、重く湿った気配だった。ふたりは、その煙のにおいに含まれた“何か”に、すでに気づいていた。
宵乃の仕事は、各地を回って破れた結界を見つけ、修復していくことだ。小さな祠の結界もあれば、一つの神社全域を覆う大きな結界もある。
誰かの依頼があっても。頼まれなくても──結界の綻びに、手を伸ばす。
旅芸人のような装いをしているのは、怪しまれないためだ。戦乱の続くこの時代、若い娘がひとりで旅をすれば目立つし、危険も多い。だが旅芸人であれば珍しくはないし、金を持っていないように見えるぶん、盗賊に狙われる可能性も減る。
それでも、危険が消えるわけではない。
⚫︎⚫︎⚫︎
──結界とは、何か。
大きく分けて、二つある。
一つは、悪しきものの侵入を防ぐ“見えない網”としての結界。
もう一つは、すでに封じられた災厄を外に漏らさないための封印。
どちらであっても、つまりは霊的な境界のことである。
かつては陰陽師や神職、僧たちがそれを日々張り直し、維持していた。
だが、戦乱の世になり、神社仏閣は焼かれ、修法も途絶えていった。
封印が破れたまま、忘れ去られた土地も多い。そして──忘れられたころに、「何か」はまた、動き出す。
結界が破れるのは、外からの衝撃だけではない。人の悪意、呪い、死者の悔い。
あるいは、強すぎる妖力や、封じられたものの力。
それらが少しずつ蓄積され、滲み出し、やがて封じはひび割れていく。
そして、その隙間から──妖異が顔をのぞかせる。
結界の綻びを、調べて、整えて、封じ直す。
それが、宵乃の仕事だ。
……だが、それだけではない。
数年前、彼女の故郷は、結界の崩壊とともに消えた。
家族は、母も祖母も、兄も、何かに喰われた。
その原因を突き止めるまでは、決して死ねない。生きて、この世界の“綻び”を塞がなければならない。
「……あの村、やっぱり様子が変。急ぎましょう」
夕陽が沈みかけた空の下、小さな山間の村が見えてきた。
朽ちかけた門。静まりかえった家々。
そして、普通の人には見えない空気の歪みが、宵乃にははっきりと見えていた。
「……綻びどころじゃない。結界が……完全に、消えてる」
このような山里には、侵入を防ぐための薄い結界が張られているのが普通だ。この村にも、かつては確かにあった──だが、今はもう、消えていた。
(これは……)
宵乃は、腰につけた青い鈴にそっと手を添えた。
それは、母の形見であり、結界修復師の仕事道具でもある。
音色で結界の残響を読み取る、繊細な「感覚の器」。
鈴は──静かに、震えていた。
それは、この村に染みついた“何か”が、彼女に気づいた証だった。
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5話までが序盤、6-14話が中盤、15話から20話が終盤の予定ですが、きちんと書き切れるか今は不安です。
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