束の間の別れ
気恥ずかしくも満ち足りた日々が過ぎていった、そんなある日、屋敷に来客があった。それは王都からの使い。
以前の憤激する姿を知っているカタリナからしたら大丈夫だろうかとハラハラしながら居間を見守っていたが、今回は憂慮するようなことは何も起こらなかった。
話しは何の問題もなく終わったようで、「失礼いたします」と使者はレオンへの敬意を忘れることなく、最後まで礼儀正しく振るまい、去って行った。
「アスターシャ。来てくれ」
使者の見送りから戻ってきたレオンは顎をしゃくり、居間へ入って行く。すぐにカタリナもそれに続く。
ソファーセットにレオンが座ると、カタリナはその横に腰かけた。
「先程の使者の方はなんと?」
「……どうやらグレスデン帝国で新しい技術が開発され、その施術を受けることで失明を治せるかもしれない、と言われた」
「本当ですか!?」
「ああ」
「では、どうしてそんな浮かない顔を? 可能性があるだけでもいいではありませんか。すぐに向かうべきです。お金のことを心配なさっているのですか? レオンご存じのはずですが、領地経営は万事滞りなくうまくいっております。どれほど高額であっても、可能性が少しでもあるのなら……」
そんなことを心配しているんじゃない、とレオンは言う。
「帝国はここからどれだけ離れていると思っている? 往復するだけでおよそ半年。施術も適合試験などを受ける必要があるらしいから、一年近くはここに戻ってこられなくなる」
「あ……」
レオンの手が探るように動く。
カタリナはその手に自分の手を重ねる。
彼はそうするのが当然であるように、カタリナの手を優しく包み込むと、指同士を絡め合わせる。
たったそれだけの他愛ない触れあいにもかかわらず、カタリナの鼓動は跳ねてしまう。
きっとそれが彼には伝わったのだろう。かすかにその口元がほころぶ。
「一緒に行くという選択肢もあるが……長旅は危険でもある。もどかしい……」
「私を想ってくれて嬉しいです。でも私もレオン様に負けないくらい、あなたのことを思っているんです。私は、あなたに光を取り戻して欲しいです。たった一年です。別に行って戻ったら、よぼよぼのおばあさんになるくらい離ればなれという訳ではないのですから」
「……領地は?」
「管理人の方と協力します。これまで領地の問題を解決していくレオン様のお姿を身近で見続けたんですから」
「確かに。お前になら、後を託しても問題ない、か」
カタリナはレオンの手をぎゅっと握る。
「レオン様。屋敷のことも領地のことも全て私に任せてください」
かすかな間を挟み、レオンは頷く。
「分かった。お前の顔を見たいからな。それに、未来の子どもの顔も」
「まだ気が早いです。できているかも分からないんですから」
「出立前にしっかり仕込んでおいたほうがいいな。一年は長い」
レオンは冗談めかして言う。
「レオン様ったら……その言い方は下品です」
「そうだな。すまなかった。目が治ったら、王都で結婚式を挙げよう」
「気を遣わないでください。私は今の生活を送れるだけで身に余りすぎるほどの幸福なんですから」
レオンは苦笑する。
「お前は欲がないんだな。俺の知っている令嬢たちとは全く違う。お前のような女性がいるなんて知らなかった」
「変、でしょうか」
「そんなことはない。だがもっとわがままになってくれてもいいんだぞ。公爵家は、お前がどんなわがままを言っても揺らがないくらい豊かなんだから」
「ありがとうございます。でも、本当にレオン様がそばにいてくださることだけが、私の望みなんです。この平和がいつまでも続くことが」
「お前がそういうのなら……。でも式は挙げさせてくれ。お前のウェディングドレス姿を見たい。俺のわがままを聞いてくれ」
レオンが、カタリナの髪を一房すくいあげ、優しく口づけをする。
「……分かりました。でも王都ではなくて、ここがいいです。本当に近しい人だけを呼んで……たくさんの人に注目されるのは恥ずかしいので」
「王族をはじめとした人々に、俺の妻の美しさを誇りたいんだが」
「レオン様ったら。私は美しくなんかありません。もし目が見えるようになって私の顔を見たら、きっと幻滅してしまいますよ」
「やめろ」
レオンは少し怖い顔をした。いきなりのことに、カタリナはびくっとしてしまう。
「そんなことを言うな。お前は美しい。俺には分かる」
「……失礼しました」
「俺のほうこそ、いきなり声を荒げて悪かった。とにかく、できるかぎりお前の希望に沿う形で考える」
「ありがとうございます」
「本当に、お前の顔を見るのが楽しみだ」
※
いよいよ出発の日を迎えた。
今日という日を控え、デボラと共にしっかり準備を整えたお陰で、一切滞りなく、荷物を馬車へ積んでいく。
「……やはり、心配だ。俺がいない間、実家へ戻らなくて本当にいいのか?」
「それに関しては何度も話し合ったではありませんか」
デボラがいるとはいえ、女性だけで屋敷に残すのは心配のようだった。
それに関して、カタリナは全力で拒否をした。
自分はもう公爵家の人間であり、この山荘を守るのも立派な仕事の一つ、と。
何があっても絶対に伯爵家に戻りたくなんてなかったし、向こうもカタリナが戻ってくることなど望んでもいないだろう。
「……戻って来る頃には、家族が増えていますからね」
「ああ、そうだったな。くそ。もっと早く分かっていれば、延期できたものを」
妊娠が発覚したのはつい数日前のこと。
ここ数日、気分が優れなかったので医師に診てもらったところ、妊娠が判明したのだ。
「いけません。そんなことを言っていたら、次に施術を受けられるのがいつになるか分からないんですよね?」
今回の手術に関しては、王国からの要請ということもあり、特別に与えられた機会だ。
事前に中止にすれば国家間の問題に発展しかねない。
「公爵様。奥様のことはこのデボラにお任せくださいませ!」
「そうだな。お前がいてくれれば、安心か」
カタリナは大きく咳払いをする。
「レオン様。私は子どもではないんですよ」
「そうむくれるな。お前を子ども扱いしてるんじゃない。ただ、心配なだけだ。とにかく、一年何事もなく過ぎて欲しいからな」
頭を撫でられると、自然と頬が緩む。
レオンにとって離れがたいように、カタリナにとっても別れは辛い。
カタリナはレオンの胸に飛び込み、抱きつく。
子どもじゃないと言った舌の根も乾かぬうちにこのざま。
これでは心配させてしまうだけだと自覚しながらも、そうせずにはいられなかった。
レオンが、優しく抱きしめてくれる。
この腕の力強さ、温もり、匂いとも、しばしのお別れだ。
「まったく」
「……すみません。呆れてしまいましたよね。でももう少しだけ」
「そうじゃない。そんなことをされたら、本当に手放せたくなるだろうが」
低くうめくように、レオンは言った。
「それはいけませんね。さ、そろそろ行かなくては」
「……ああ」
「落ち着いたら手紙を下さい」
「当然だ」
ふふ、とカタリナは微笑んだ。
「お待ちしています」
レオンを乗せた馬車がゆっくり遠ざかっていく。レオンは馬車の窓を開け、何度も振り返った。
「お帰りをお待ちしていますっ!」
カタリナはそう力いっぱいに叫ぶと、レオンは大きく手を振って応えてくれた。
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