はじめての口づけ
例年に比べて短い雨季が過ぎ、夏がやってくる。
前にレオンが言っていた通り、日射しの強さや暑さは王都と変わらないが、吹き付けてくる風が軽いせいか、それほど苦には感じなかった。
「奥様。公爵様がお呼びですよ」
デボラの声に、下玄関広間に置かれていた壺を磨いていたカタリナは顔を上げた。
「分かったわ」
何かしら、とカタリナは、レオンの部屋の扉をノックする。
「アスターシャです」
「入ってくれ」
「失礼します」
入ると、レオンはソファーに座っている。テーブルに書類が積み上げられていた。
「悪いが、書類を読み上げてくれるか?」
「私がやっても構わないのですか」
「頼む。侯爵家の領地は、お前の領地でもあるんだから」
その言葉に、胸が弾む。それほどに彼が信頼してくれていると同時に、叔父たちに全てを奪われた自分にようやく大切な居場所ができたことを実感する。たとえそれが身代わりの妻として得たものであったとしても。
「喜んでお手伝いさせて頂きます」
カタリナの仕事は文章の読み上げと、それに対するレオンの言葉を紙に書き記すこと。
領地からは様々な問題の対処を依頼されるのだな、と思う。
野盗の追捕や河川の氾濫、作物や家畜の生育状況に果ては村同士の境界争い等々、多岐にわたる。
それに対して、レオンは次々と解決策を出していく。
その手並みはとても鮮やかに見えた。
「すごいですっ」
思わず勢い込んで言えば、レオンはぎょっとする。
「いきなり何だ」
「あ、すみません。ただ、どんどん決定を下されている姿が格好いいな、と思いまして」
「別に褒められるようなことでもない。領主としては当然のことだ」
しかしそれが決して当然ではないことを、叔父の姿を見ていたカタリナは分かっている。
何かあれば、それくらいいちいち聞いて来ないで自分で考えて対処しろ、と領地管理人に怒鳴り散らす姿を何度も目撃している。そのくせ、いざ問題が大きくなれば、何をやっていたんだ、すぐに報告しろ、とさらに怒鳴り散らすのだ。
レオンの代わりに、領地管理人に宛てた手紙をしたため、それから読み上げて、問題がないかを確認する。
「それでいい。手紙はデボラへ渡してくれ」
「かしこまりました。それにしても……かなりたくさんの問題を処理したのに、まだまだ書類はたくさんあるのですね」
「領地が広いのも考え物だ。広い領地があるからこそ豊かな生活を享受できるが、その分、対処する問題は多いし、一つ片付けたと思っても、またすぐに別の問題が起こってくるのだからな。頭が痛い」
相槌を打ちながら、カタリナは別の書類に目を通す。
残りの未決済の書類に関しては明日以降に処理する予定だが、一応、確認しておこうと思ったのだ。
と、品目と数字が書かれてた表に目を通す。
王国内の様々な産品の細心の取引価格が羅列されている。
それを眺めている時に、とあることに気付く。
「例年に比べると小麦の値段が上がり、貴石の価格がかなり値下がりしていますね」
「ん? そうなのか?」
カタリナは小麦と貴石の価格を読み上げる。
「確かにな。たまたま、にしてはどちらもかなり幅が大きいな。だが、それがそんなに気になるのか?」
「少し引っかかって」
と、頭に思い浮かぶことがあって、「ちょっと失礼します」とカタリナは部屋を出ると、書庫に走った。そして歴史の棚から一冊の本を取り出すと、すぐにレオンの元へ取って返す。
「十五年前の、ポルゾ王国と、シーバフ大公国の戦争直前と同じようなことが起こっているんですっ」
「確かか!」
ポルゾ王国とシーバフ大公国は、王国の西部にある国だ。両国は国力も同程度で国境線の多くが面しているせいか、たびたび紛争が発生している。
「おそらく、これは王国の中枢にいる貴族が戦争に備えて備蓄するために宝石を売り、小麦を購入しているせいだと思います」
「だが、なぜ戦争相手が大公国だと分かる? 他の国とも王国は国境を接している」
「その通りです。しかし大公国は地下資源が乏しく、貴石の取引価格は王国よりもずっと高いんです。にもかかわらず、わざわざ大公国に比べると二割ほど価格が安い我が国で売るのは、大公国には売れない、売りたくない事情が存在するからだと思うんです」
「……なるほど」
「今ならまだ間に合うかもしれません。国王陛下にお知らせすることはできないのでしょうか? 戦争になれば死者はもちろんですが、多くの難民が発生する可能性がございます。きっと難民は王国に殺到するでしょう。それは我が国にとっても由々しき事態です」
「分かった。すぐに国王に宛てて書状出す。口述筆記を頼む」
「はいっ」
それから半月後、カタリナはレオンに呼ばれた。
「お前のおかげで、一つの戦争を無事に回避することができた」
レオンからの手紙を受けた国王はすぐに王国と大公国の代表者を招き、腹を割って話すことで戦争を回避することに成功したらしい。
戦争準備を極秘裏に進めてきたにもかかわらず、それが王国に筒抜けになっていたことに、最初はとぼけていたはずの両国の代表者は驚きを隠せなかったようだ。
「だが、本当に良かったのか? お前の名前を出さなくて。陛下から褒美が出るぞ。これは勲章ものの功績だ」
「たまたま気づけただけですから。褒美なんて何もいりませんから」
アスターシャの身代わりでいる以上、カタリナは目立つべきじゃないと思ったのだ。
それに、レオンのことを、王国が邪険にできないようにしたかった。
戦争回避という大きな功績を挙げれば、国王もレオンのことを無視できないだろう。
たとえ軍人としては難しくとも、別のことで道が開けるかもしれない。
「お前は欲がないな。もっと貪欲になってもいいと思うが」
「私は、こうしてレオン様のおそばにいられるだけで幸せなんです」
「……そんな風に言われるのは初めてだな」
「では、これまでレオン様の周りにいた方々は皆さん、見る目がないのかもしれませんね」
フ、とレオンは口元をかすかに綻ばせる。
カタリナは決済の書類をまとめた。
すっかり夜も更けている。
「では、私はこのあたりで部屋に戻りますね」
「待て」
不意に手を掴まれ、そのままびっくりするくらいの強い力で抱き寄せられた。
彼の腕の中に飛び込むような形で抱きしめられる。
「す、すみません。私ったら」
間近に迫るレオンの美しく整った精悍な顔立ちと、息遣いを感じるほど近くに迫ったこともあり、どきまぎしてしまう。
カタリナは慌てて態勢を立て直そうとするが、彼は逃がしてはくれなかった。
「レオン様、う、腕を……」
「このまま離したくない」
カタリナは耳を疑った。
「え……?」
「言葉通りだ。アスターシャ」
唇を奪われた。
結婚式も挙げていない二人にとって、それは初めての口づけだった。
「……れ、レオン様」
薄い唇ごしに感じた彼の湿った息遣いと、柔らかな唇の感触に、鼓動が早くなり、全身が熱くなった。
「お前が、欲しい」
心臓がびっくりするほど高鳴り、緊張のあまり、うまく言葉が出ない。
レオンは、しっかりカタリナを抱きしめながら、待ってくれている。
カタリナは身代わりに過ぎない。
それなのに、レオンの愛を受けてもいいのか。
「……嫌、か? 無理強いはしたくない」
耳元で、かすかに掠れた彼の切なげな声を聞く。
そんな聞き方はずるい。
そんな風に言われて、拒絶なんてできるはずがない。
だって、カタリナはもうとっくの昔に、レオンを愛していたのだから。
彼の愛情深さと広い心。毎日のように言葉を交わし、彼の柔らかな笑顔を見れば、恋に落ちるなというのが無理な話だ。
これが、カタリナにとって人生初の恋。
「嫌なはずが、ありません……んんっ」
再び唇を奪われる。今度はさっきよりも、執拗で、そして頭がぼうっとなってしまいそうなほど深い口づけだった。
同時に抱き上げられる。
突然のことで体勢を崩しそうになったところを、彼の太い首に抱きつくことで、間一髪のところで耐えた。
「可愛い声だな」
「お、お戯れはおやめください」
「本気だ」
レオンはカタリナを抱き上げたまま、執務室に隣接している仮眠室へ入っていく。
仮眠室と言っても、そこにある寝台は十分、立派な作りをしている。
横たえられると、繰り返し口づけをされた。
「こんなにも女性に、心を奪われるのは初めてだ」
かすかに息を上擦らせつつ、レオンが言った。
「お上手ですね」
「本当のことだ。愛している」
「……私も、です」
レオンは口元を笑みの形にすると、包み込むように覆い被さってきた。
抱きしめられるその腕には、カタリナを怖がらせまいとするような優しさが滲む。
カタリナは抱き寄せられるがまま、彼に身を任せた。
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