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あなたのための子守歌

 カタリナは眠い目を擦りながら、起床する。

 大きく伸びをして、体をほぐす。


「レオン、様……」


 ぽつりと呟くと、頬が燃えるように熱を持つ。

 こうして異性の名前を呼ぶのは初めてのことだった。

 夫婦なのだから別におかしいことではないのは分かっているのだが。

 しかし同時に、カタリナは、アスターシャと彼から呼ばれるたび、胸にずん、と重たいものが乗せられるような気分になった。

 当然ながら、レオンはカタリナをアスターシャだと思い、接しているのだ。

 だから彼が向けてくれる感情はどれもこれも本来は、アスターシャへ向けられるべきもの。

 カタリナは気分が沈みそうになる自分を叱咤し、弱気を追い出すように小さく首を横に振った。


(落ち込むなんて。アスターシャの代わりだっていいじゃない。あの家から出られただけで幸せなことなんだから。それ以上を望むなんて罰が当たる……)


 気持ちを切り替えるためにも朝の清澄な空気をいっぱいに吸いこみたい、とカタリナは窓を開けた。


 と、ビュン、ビュン、と何かが空を切るような不思議な音が、うっすらとだが聞こえた。


(何?)


 動物の声かなと考えたが、そういうものじゃなさそうだ。

 窓のカーテンを開ける。

 音は庭から聞こえてくるようだが、カタリナの部屋からは死角になっている。

 こうしている間にも、風を切る音は聞こえ続けていた。

 季節は春の盛りを迎えているが、山の中の早朝ともなれば冷える。

 部屋を出た時に、ちらっとレオンの部屋を伺うが、すぐに正面をむき直す。

 正体も分からないのに、わざわざレオンを起こしては迷惑になってしまう。

 デボラが来るまではまだまだ時間がある。

 今動けるのはカタリナだけ。カタリナは出来る限り足音を殺しながら階段をくだると、台所で麺棒を引っ掴むと庭に出た。


「えっ……」


 間の抜けた声が出てしまう。

 そこでは、上半身裸のレオンが剣を振るっていた。

 ビュンビュンという風切り音は、どうやら剣が空を切る音だったらしい。

 まだ東の空がうっすらと白み始めた頃だ。

 差し込んだ日射しに、玉の汗がキラキラと輝いて見えると同時に、体から湯気が立ち上っている。

 カタリナは、その美しい姿に、つい見とれてしまう。

 鍛え上げられた体は贅肉がなく、厚い胸板も割れた腹筋も、盛り上がった腹斜筋も、まるで名工の手による古代の戦士の彫像のよう。


「誰だ」


 レオンが身構える。


「あ、すみません……っ」

「……アスターシャ? どうしたんだ。こんな早くに」

「音が」

「音?」

「ビュンビュンと音がして、何事かと思って様子を見にきたんです」

「そうだったのか。悪い。起こしてしまったんだな」

「いいんです。それよりも剣の稽古、ですか?」


 レオンは顎を伝う玉の汗を、右の手の甲で拭いながら頷く。


「ああ。鈍っていた体に渇を入れていたところだ」

「では、お風呂の準備をいたしますね」

「いや、それはデボラが来てからで構わない」

「いけません。今は大丈夫でしょうが、体が冷えたら風邪を引いてしまうかもしれませんから」


 カタリナは汚れてもいい上着を持参すると、レオンに手渡す。


「お風呂が沸くまでそれを着ていてください」

「すまない」


 テキパキと風呂の支度を行う。

 彼がお風呂に入っている間に朝食を作り、風呂上がりに一緒に食堂で取る。

 食事を終えた頃に、カタリナは気になっていたことを聞いてみることにした。


「レオン様、お聞きしたいことが。西にある大きな扉の開かずの間なのですが、放っておいて大丈夫なのでしょうか」

「開かずの……? ああ、あそこか。あれは開かずの間じゃない」

「ですが、鍵を差しても開かないんです。他の鍵はそもそも鍵穴に入らないので、鍵そのものが間違っていないと思うのですけど」

「鍵はそれで合ってるんだ。でもこの屋敷は祖父の代からあるせいで、ところどころにガタがきてるから、開けるにはちょっとしたこつがいるんだ」


 レオンは立ち上がると、壁に手を添えて歩く。

 カタリナはその後をゆっくりと追いかける。


(とても広い背中だわ)


 それから今朝見た、あのたくましい体をつい思い出してしまい、一人赤面してしまう。

 やがてくだんの部屋の前まで来る。

 他の部屋の出入り口と違い、そこは両開きで頑丈な扉だ。

 レオンはカタリナから鍵を受け取ると、鍵穴へ差す。それからノブを握り、ぐっと持ち上げるようにすると同時に鍵を回す。

 ガチン、と小気味の良い音がした。


「これでいい」


 レオンは両開きの扉を開けた。

 ギィ、と蝶番が軋みながら扉が開けば、鼻をくすぐるのは紙の香り。


「あっ」


 目に飛び込んできた空間に、カタリナの声は無意識のうちに弾んだ。

 カタリナの目に飛び込んできたのは、たくさんの本。いくつも置かれた本棚いっぱいに収められているものばかりでなく、床にいくつもの本の山ができている。

 どうやらここは書庫らしい。


「本が好きなんだな」

「え、どうして……?」

「今、お前の声が踏んでいたからな。人間は自分で思っている以上に声に感情が滲む生き物なんだ」

「……本は、手の平に収まるくらいの大きさにもかかわらず、色々な世界を垣間見られるようで、とても好きなんです。部屋の中にいながら世界を旅したり、妖精や聖霊、神様、はたまた英雄に出会えたり……」

「可愛いことを言うんだな」


 カタリナは恥ずかしさに口ごもる。


「……ち、ちなみに、ここにはどれくらいの本があるんですか?」

「詳しくは分からないが、数千冊はあるだろうな。好きにしていいぞ」

「ほ、本当にですか? 中には貴重な本もあるのですよね? それを私が好きに……」

「何を遠慮する必要がある。アスターシャも立派な公爵家の一員なのだから、遠慮することなどない。それに本は読まれてこそ活きる。貴重な本だからと埃を被っているだけではもったいない。それに無断で売ったりはしないだろ?」

「もちろんです! 売るだなんて滅相もありません!」

「落ち着け。ただの冗談だ」

「あ、……失礼しました。私ったら」


 真に受けてしまったことを恥じ、カタリナは頭を下げる。


「それじゃあ、楽しんでくれ」

「ありがとうございますっ」


 レオンは自分の部屋へ戻っていく。

 部屋に入り、本棚の間を縫うように進んでいく。

 本は物語から歴史や植物、軍事、自然史など多くの分野にわたっていた。

 おそらく古代の文字で書かれていたであろう、カタリナには読めないような文字の本まであった。

 ここにある本はどれもこれも読んだことがないものばかり。

 カタリナにはまさに宝の山のように思えた。ここにある本全てを自由に読んでいいなんて、大金を積まれたも同じ、いや、それ以上かもしれない。

 きっとカタリナの残った人生の全てを費やしても読み切れないだろう。

 カタリナはまず大陸の童話集というものを棚から抜くと、自分の部屋へ持ち帰った。



 つい夢中で読みふけってしまった。

 壁掛け時計を見ると、もう日付が変わりそうだった。

 明日も早く起きなければいけないのだから、さすがにそろそろ寝ないとまずい。

 カタリナは物語の世界に浸っていたい誘惑をどうにかこうにか振り切り、書庫へ本を戻そうと思ったその時、レオンの部屋から小さな呻き声が聞こえた。

 扉をノックし、「レオン様」呼びかけるが、応えてはくれない。


「失礼しますっ」


 不安に駆られたカタリナは部屋に飛び込むと、寝椅子に横になったままのレオンが顔を歪ませ、何かを呻くように呟く。汗がひどい。


「レオン様、レオン様っ」


 はっとして起きたレオンが「……アスターシャ?」と小さく呻くように声を漏らすと、体を起こした。


「ひどくうなされていましたので、声をかけました」

「……迷惑をかけたな。時々、戦場で目を奪われた時のことを夢に見るんだ。まるで今この瞬間に視界を奪われたと思うくらい、生々しい……」

「少しお待ち下さい。タオルをお持ちいたします」


 立ち上がりかけたが、カタリナは右手を掴まれた。


「待て。少しここにいてくれ」


 レオンの声はまるで縋るような、寂しげな響きを帯びる。


「はい」


 レオンが寝椅子に横たわると、カタリナはその手を両手で包み込むように握る。

 レオンの体が小さくぴくっと震えた。

 彼の手はとても大きくて、カタリナの両手でもとても覆いきれない。

 手の平はまるで石のように固く、節くれ立った指は長かった。指には潰れたマメの痕がいくつもある。

 そして手の平や指先、手の甲には無数の傷が刻まれていた。

 どれもこれも治った傷だったが、騎士団長として彼がどれだけ戦い続けたのかが分かった。


「私が悪夢でうなされていると、母がこうして手を握ってくれたんです」

「確かに。いくらか気分がましになった。しばらくこのままでいてくれるか?」

「はい」

「ありがとう」


 しん、と静まり返った夜。風で枝が揺れ、歯の擦れる音がひっそりと聞こえた。


 “夜の帳にきらめく星々よ。

 あなたを包むは、静けさよ。

 夢へと誘うは月の影”


 カタリナは小さく囁くように歌う。

 少しでも、レオンの苦悩が鎮まればいいと願うように。


「……その歌は?」

「私が夜、悪夢にうなされたりすると、歌をうたってくれたんです。この旋律が好きで。大きくなってからも、よく眠れない時はわがままを言って歌ってもらっていました」

 母が話してくれる七色にきらめく夜空が思い浮かぶような、柔らかく、それでいて澄んだ響きが好きだった。

「確かにな。もっと歌ってくれるか?」

「喜んで」

「お前の歌声は不思議だ。まるで陽だまりのように心に染みる」

「大袈裟です」

「いや、お前の歌を聞くと不思議と力が湧いてくる」


 レオンは優しく微笑んだ。

作品の続きに興味・関心を持って頂けましたら、ブクマ、★をクリックして頂けますと非常に嬉しいです。

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