昔のように
その日から屋敷での生活が始まった。
最低限のことはデボラがやってくれるとはいえ、何もしないでいるのは何となく落ち着かず、彼女と一緒に屋敷のことを行った。
「本当に珍しいですねえ。貴族の方が使用人と一緒にお掃除をしたり、洗濯をしたりするなんて。それも料理と同じく手際がいい!」
洗濯板で洗い物をしていると、デボラから感心されてしまう。
デボラはとりあえず笑って誤魔化す。
「ところでデボラさん、二階の西側の部屋なんですが、鍵を差し込んでも開かないんですけど、あれは何の部屋なんですか?」
「そんな部屋があるんですか。私は公爵様にやれと言われたこと以外はやってないので」
「……あぁ、そうなんですね」
確かに余計なことをして何かあっても困る。
ほどほどにしよう、と思いつつ、洗ったシーツを物干し竿にかけて干した。
木漏れ日が心地いい。そして野鳥の声にも癒やされる。
こんなにのどかで、のんびりした空気を楽しめるなんて、叔父一家の屋敷では考えもしなかった。
(こういう日には、よく庭で歌をうたっていたわね)
両親が生きていた時のことだ。
両親は、カタリナの歌を聴くのが好きで、二人の前で歌ったりした。
「ふふーん~♪ ふふぅ~ん♪」
「あら、素敵な鼻歌ですね、奥様」
デボラがくすくすと微笑む。
無意識のうちに出てしまったらしくカタリナは赤面してしまう。
「あら、おやめになってしまうのですか? とても素敵でしたのに」
「か、からかわないでください」
「いいえ、からかってなんて。本気ですよ」
両親以外に歌を褒められたのは初めてだった。
初めて叔父夫婦に引き取られた時、少しでも好かれたくて、両親に褒めてもらった歌を披露した。
『うるさいもんを聞かせないでよ!』
歌の途中で、アスターシャは怒りだし、長い爪でカタリナの頬を引っ掻いた。
叔父夫婦から『自業自得だ!』『気持ち悪い声!』と口々に罵倒されてしまった。それからは決して他人の前で歌うことはなかったし、一時は自分のひどい歌を褒めた両親を恨めしく思った。
もしかしたらもっと違うことをしていれば、使用人よりもひどい扱いをされずに済んだかもしれないと寝床で震えながら、何度思ったか知れない。
「……素敵?」
「ええ!」
「お世辞はやめてください」
「お世辞じゃありませんよ。そりゃ私は教養なんてものはありませんけど、でも、美しいものを美しいと感じるくらいの感性は持ち合わせてますからっ」
胸が締め付けられると同時に、喜びが込み上げた。
(そうよ。全ての人に素晴らしいって褒めて欲しい訳じゃない。素敵だと感じてくれる人たちの前でだけ披露すればいいだけだわ)
「ありがとうございます」
目尻に滲んだ涙を指先で拭いながら、カタリナは控え目に微笑んだ。
デボラは、カタリナの笑顔を前に、「ようやく笑ってくださいましたね」と朗らかな声で言った。
「え?」
「仕方がないとはいえ、お屋敷に来てから、奥様はずっとお辛そうでしたから。さあ、洗濯物をやってしまいましょう!」
「そうね」
カタリナはこっそり自分のほっぺたをマッサージするように揉んだ。
叔父に引き取られてからカタリナは嘆き悲しむことはあっても、笑うことを久しく忘れてしまっていた。
嬉しさや喜びという感情が欠落していたことが身に染みついてしまっているのだろう。
(昔のように戻れるかな)
両親が好きだったと言ってくれた笑顔を取り戻したい。
※
またとある日、デボラは一抱えほどの大きなバスケットにたくさんの果物を載せて運んできた。
「たくさんの果物ね、どうしたの」
「これ、奥様に食べて欲しくって」
「こんなにたくさん!?」
「ええ。奥様は食が細いようですので、果物なら食べやすいかなと。あ、果物はお嫌いでしたか?」
「いいえ、大好きよ。ありがとう」
「しっかり召し上がって下さいね。お若い方はご自分の美容やスタイルに気を遣うあまり、健康を疎かにして、棒きれみたいに細いので心配になってしまうんです。もちろん私のように無駄に恰幅が良ったら、公爵様に呆れられてしまうでしょうが、もう少し肉付きが良いほうが健康的にもいいですしねっ」
「ありがとう」
「いいんですよ。あ、もし良かったら、後でアップルパイのレシピをお教えしますよ。レオン様は甘い物が大好きなので、作って差し上げたらきっとお喜びになるかと」
(それで少しでも、公爵様との距離が近くなれればいいな)
「ありがとう、デボラ」
「それと、これももしよろしかったらどうぞ」
次に差し出してきたのは、何着かの衣類だ。
「これは?」
「娘のものなんです。奥様が物を大事にされる方だというのはよーく分かっているのですけど、さすがにその……」
デボラはチラチラと、カタリナの服装を見ながら言い淀む。
カタリナは自分のドレスを見る。
そのドレスは、昔着ていたよそ行きドレス。
カタリナが持っている服の中で一番上等なものだったのだが、さすがに擦り切れていたり、布地が傷んでしまって、お世辞にも綺麗とは言い難かった。
「貴族の方が平民の服なんてと思われるかもしれませんが、もしよろしければ……」
「ありがとう、デボラ。本当になんてお礼を言ったらいいか」
「でしたら、また歌ってください。私、すっかり奥様の歌が好きになったんです!」
「そんなものでいいの?」
「ええ。是非っ」
「分かったわ」
「ありがとうございます。それじゃあ、早速……」
そこに、ガン、ガンと重たいノッカーの音が屋敷中に響きわたった。
カタリナとデボラは顔を見合わせた。
「今日、来客の予定は?」
「ないはずですが」
デボラは言いつつ、玄関に走っていく。カタリナもその後を追いかける。
「どちらさまでしょうか」
しばらくのやりとりの後、デボラが扉を開ける。
入ってきたのは、上等な仕立てと分かる服をまとった男だ。
綺麗に整えられた口ひげを触っている。
「客間でお待ち下さい。すぐに公爵様をお呼びいたしますので」
「頼む」
男は妙に偉ぶったしゃべり方をする。
と、男と目が合ったカタリナは、頭を下げた。
きっと今の格好で使用人と思ったのだろう男は一瞥して小さく鼻を鳴らすと、さっさと客間へ入っていく。
カタリナはすぐに台所へ足を運び、来客のために紅茶を淹れる準備にとりかかる。
(一体どなたかしら。貴族のような出で立ちだったけれど)
レオンの友人だろうか。
(でも、それにしては年が離れすぎているかしら)
来客は五十代くらいに見えた。もちろん友人になるのに年齢は関係ないだろうが。
茶葉を蒸らしていると、「ふざけるな!」とまるで屋敷が震えるような、レオンの怒声が響きわたった。
(公爵様!?)
カタリナは驚き、台所から飛び出した。
すると、ほとんど時を同じくして客間からさっきの男が転げるように、飛び出す。
「こ、公爵、ら、乱心したか! 私は陛下の使者であるぞ!」
「だったら、陛下に伝えろ! 俺の後任に、戦下手な太鼓持ち野郎をつけるなんて、国を滅ぼしたいのか、とっ! 騎士団を任せられるのは、俺の片腕のゾーイだけだ!」
レオンは手に火掻き棒を握り、男の後を追いかけようとするが、つまずき、膝を突く。
その間に、男は逃げるように玄関を飛び出して行った。
「おい、どこだ……くそ!」
「公爵様っ」
カタリナは、レオンのそばに駆け寄り、手を貸そうとするが、手を弾かれてしまう。
「触るな!」
鋭い声が飛ぶ。
カタリナは叩かれて痛む右手の甲を押さえ、「も、申し訳ありません……っ」と頭を深々と下げた。
声を荒げたレオンははっとした顔をしたかと思えば、気まずげにそばにあった壁に手をかけて、立ち上がった。
「……助けが必要な時には、頼む。それ以外は何もしなくていい」
「出過ぎた真似を……」
「そうじゃない。今のは俺が悪い。それより、平気か」
「あ、はい」
「もし痛むようならデボラに言え」
「大丈夫です」
レオンは火掻き棒を乱暴にその場に投げ捨てると、壁に手をつきながら二階へ上がっていく。
その後ろ姿を見つめる。
(レオン様……)
妻として何もできないことが情けなかった。
※
カタリナは目覚めると、窓を開け放つ。
カーテンが膨らむほどの涼やかな風が部屋に入ってくる。
「今日もよく晴れそう」
こうして日射しを浴びるという他愛ないことでさえ、カタリナには喜ばしいことだ。
のんびりとした時間を楽しみ、今日の天気や、屋敷の掃除などをやり終えた余暇に何をしようか考えるだけでも奇跡のようなことのように思える。
カタリナはデボラの娘さんのお古の服のブラウスとスカート(どれもとても丁寧に保存されたお陰で状態がすごく良かった)を着ると、階下へ。
屋敷の裏手にある井戸水で顔を洗う。
それからデボラが持ってきてくれたりんごを切って朝食代わりに食べ、デボラが来るまでに玄関周りの掃き掃除をしてしまう。
早朝の空気は本当に気持ちがいい。
そしてカタリナと同じくらい早起きの、黒い体に黄色いくちばしのクロウタドリの姿に頬を緩める。
クロウタドリの美しい歌声に、カタリナは触発される。
カタリナは小さく咳払いをした。
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