マリアンヌ
公爵との商談の数日後、マリアはエイリークの部屋へ呼ばれた。
「失礼します」
「座ってください。お茶でもいかがですか?」
「頂きます。それで、どうかされたのですか」
「実は公爵様から内々に頼まれごとがありまして」
「商品のご注文ですか?」
「いいえ、商談とは別件です。公爵様は、その……あなたに、ご令嬢の世話をお願いしたいと」
「私が、ですか? どうして」
「詳しいことは……。ただもし可能なら、と。ああ、そんな深刻な顔をしないでください。これを断っても何も問題はない、ただ聞いてみてくれないかと頼まれただけなんです。無理強いをするつもりはない、と」
「……もし、エイリークさんのお許しが頂けるなら、やってみたいです」
「記憶のことがあるから、ですか?」
「はい。あんな感覚、記憶を無くしてから初めてなんです。一体何に反応したかは分かりません。でももしこれがきっかけで記憶を思い出すきっかけになったら、と……」
エイリークをはじめ、マリアの周りにいる人たちはみんな優しい。
このままの生活がこの先ずっと続いたとしても構わないと思えるくらいに。
それでも自分の身に何があったのかを知りたいという気持ちは、常に心の一部を占有し続けていた。
もし失われた記憶が、公爵と何かしらの関連があるのだとしたら……。
少しでも可能性があるのなら、確かめたい。
「分かりました。では、公爵様にはそのようにお伝えします」
「ありがとうございます。本当に」
マリアは深々と頭を下げた。
※
翌日、マリアは公爵家を訪ねた。
すでに話は通っているらしく居間に通されてしばらく待っていると、レオンが姿を見せた。
マリアは立ち上がり、頭を下げた。
レオンは柔らかな物腰で座るよう言った。
「体調はあれからどうだ?」
「お陰様で。――お嬢様……マリアンヌ様のお世話、ということですが。私は公爵様とこの間お会いしたばかりです。それなのに、どうして娘さんをお任せ頂けるまでに信頼されているのでしょうか」
「確かに俺たちはまだ互いを知らない。だが、君のことはラヴェンナ侯爵夫人から聞いているから。あの方の人物を見る目は、俺よりもずっと確かだ。夫人が信頼できる人間は信頼できる。あともう一つ」
「もう一つ?」
「あの子が、俺以外の誰かになつくのを初めて見たんだ。マリアンヌは極度の人見知りする子で、なかなか他人になついてくれないんだ」
「とても大人しい、いい子だと思ったのですが」
「親の欲目もあるが、俺もそう思う。わがままを言ったり、聞き分けの悪いところも同年代の子とも比べると少ないと思うんだが」
「私がお世話をすることを、奥様はご承知なのでしょうか」
「妻はいない」
「あ、失礼しました」
「いや、気にしないでくれ。すぐに娘を――」
その時、居間の扉が大きく開け放たれると、マリアンヌが飛び込んできた。
「パパぁ!」
円らな瞳を潤ませ、レオンの足にしがみつく。
「どうしたんだ?」
レオンはマリアンヌを抱き上げると、胸に顔を埋める。
少し遅れて、「お嬢様」とメイドが部屋に入ってくると、マリアに気付き、「し、失礼いたしました……」とマリアンヌを引き受けようとするが、「や! ぱぱがいぃ!」とむずがって全然言うことを聞かなかった。
この間のマリアと接していた時とは大違いだ。
レオンは目顔でメイドを下がらせると、「マリアンヌ、今日はお客さんが来てくれているんだ」とマリアのほうを振り向かせた。
「マリア!」
マリアンヌはつい数秒前まで泣いていたのが嘘のように表情を明るくさせると、腕を伸ばしてくる。
マリアは許可を求めるようにレオンを見る。
レオンが頷くのを確認し、マリアンヌを抱く。
「マリアンヌ様、お久しぶりです」
「お……っ……ぶりぃ」
マリアの言葉を真似するが、舌がうまく回らないみたいだ。
そんなところも愛らしい。
「ふふ」
「やっぱりすごいな」
レオンは感心したように呟いた。
作品の続きに興味・関心を持って頂けましたら、ブクマ、★をクリックして頂けますと非常に嬉しいです。




