失われた記憶
“夜の帳にきらめく星々よ。
あなたを包むは、静けさよ。
夢へと誘うは月の影。”
※
柔らかな温もりに満ちて、涼やかな歌声が聞こえる。
その声はとても懐かしく、胸がじんわりと温かくなるように染みた。
『――夜空にはね、七色の光が生まれるのよ』
その声は歌声の主と同じ。
『……と一緒に、見せてあげたい。ユプレイアはとても素敵な場所なの。美しい鳥がたくさん見られるわ』
膝枕をしてくれるその人は微笑み、そして額に口づけてくれる。
女性の姿がまるで風に吹き散らされる砂のように形を崩し、そして完全に目の前から消える。
キラキラ輝く砂粒はしかしまた別の人間の姿を象っていく。
今度は男性だ。その人は優しく、壊れ物でも扱うかのように触れてくる。
『愛している』
男の声が聞こえる。
声は若いが、威厳に満ちている。
その眼差しは優しく、口元は笑みに縁取られる。
安心をくれる、慈愛をたたえた声。
同時に朧気な輪郭が浮き上がる。
その人は目に大きい傷があった。
目が見えないのだ、とすぐに分かる。
しかしそのことが男の人の魅力を一切損なってはいなかった。
男の人が髪を優しく一房すくいとり、口づけてくれる。
(あなたは一体誰? どうしてそんなに私に優しくしてくれるの?)
誰なのかは分からない。
でも彼に触れてもらうと甘えたい気分になった。その手に頬ずりをしてしまう。
キスをして欲しい――。
そう自然と思った。
※
カタリナは目覚めると、見知らぬ天井があった。
ベッドに横たえていた体を起こす。かすかに頭が痛む。
レースのカーテンが締められた窓ごし、日射しが差し込み、部屋の床に小さな陽だまりを作っている。
カーテンを開けて外を窺えば、街中のようだった。
(ここはどこ……?)
ベッドから下りて立ち上がろうとして立ち眩みに襲われて、ベッドに座り込んだ。
体がひどく重く、まるで自分の体ではないようだった。
サイドテーブルには水差しとグラスが置かれていた。
水をグラスに注ぐと呷った。
水を飲むと、どれほど体が乾いていたのかは分かった。立て続けに二杯、あっという間に飲むと、ようやく人心地がつく。
扉がゆっくりと開く。
顔を出したのは、ピンク髪の少女。
目を大きく瞠るなり、「オーナー!」とやかましく叫びながら飛び出して行く。
一体何なのだろうと、ぽかんとしてしまう。
しばらくして再び扉が開くと、つい今し方、部屋に入ろうとしたピンク髪の女性と一緒に、仕立てのいい服に身を包んだ、人の良さそうな青年が入ってきた。
青年は、コマドリのように鮮やかな橙色の髪に、柔らかな光をたたえた黒い瞳をしている。
「目が覚めたんですね、良かったです」
青年は片膝をついて目線の高さを合わせると、優しく笑いかけてくれる。
「……あなたは?」
「僕はエイリーク・ブランワーズ。こっちは助手のライム。あなたの名前は?」
「私は――」
口を開きかけるが、それに続く言葉が出なかった。
エイリークが不思議そうに見てくる。
「わ、私は……」
もう一度口を開こうとする。しかしそこから続かない。
分からない。自分の名前なのに。
「……ごめんなさい。わ、分かりません」
「そうですか。無理に想い出す必要はありません」
エイリークはライムに、「先生を呼んできて」と言った。
エイリークはそれ以上、質問をすることもなく、窓を開けて清々しい風を室内へ呼び寄せる。
「今日はとてもいい天気です。今年の夏は例年に比べて暑くなるそうですよ」
そうのんびりと世間話をする。
しばらくしてライムが、白髪に立派な口ひげのおじいさんを連れてくる。
おじいさんに質問されたことをいくつか答える。それを何度か繰り返すと、「どうやら記憶を失っているようですね」と言った。
「記憶はご自分の名前を含めて思い出せない状況のようですから。ただ基本的な社会常識に関しては覚えていらっしゃるようですし、傷も軽いものですから、日常生活を送ることは問題ないでしょう」
そう説明してくれた。
「記憶はどうしたら戻るものなのですか?」
エイリークが聞く。
「その時がくれば」
「つまり、運次第、と?」
「そうですね。特効薬がない以上は……。明日、唐突に戻るかもしれませんし、ずっと戻らないかもしれない。無理をさせれば、混乱するだけですから、とにかく日常生活を送りながら様子を見るしかありません」
「分かりました。ありがとうございます」
エイリークは礼を言うと、ライムにおじいさんの見送りをさせた。
「……ということだそうです。あー……名前がないと呼びにくいですね」
思い返そうとしても、頭は霧に包まれたように判然としない。
「……マリ……ヌ……」
「え?」
「今、ふと思い浮かんだ言葉、です」
「マリ、ヌー……? あなたの名前ですか?」
「分かりません」
「そうですか。でも記憶がないなか中で浮かんだ言葉です。きっとあなたにはとても大切なものなんでしょうね」
「……どうなんでしょうか」
「では、あなたのことを仮にマリアと呼びましょう。構いませんか?」
「はい」
マリア、と呟いてみるが、よく分からない。
「では、マリアさん。まだ目覚めたばかりで本調子ではないでしょうから、しっかり休んでください。ここは私の家ですからいつまでもいてくださって大丈夫ですから」
すると、戻ってきたライムがエイリークに耳打ちすると、「分かりました。すぐ行きます」と頷く。
「ではマリアさん、また後で様子を見にきますね」
「あ、はい。色々とありがとうございます」
「困った時はお互い様ですから」
エイリークを見送ったマリアは、窓の向こうの景色を眺めながら、疲労感を覚えた体をベッドへ横たえた。
目を閉じると、あっという間に眠りに落ちた。
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