鹿編2
四階、一年五組。三年間で唯一クラスメイトだった教室までやってきて、どこの席だったとか授業中こんなだったとか。取りとめのない、でも凄く心地の良い雑談をした。
「十年も前のことなんてもう思い出せないと思っていたけど、少しのきっかけで思い出すもんだよね」
あの日のことを懐かしみながら呟くと、今が話を切り出すタイミングだと思った。彼女ともだいぶ打ち解けた。今ならきっと笑い合える。数少ない、彼女と僕の共通の話題だ。
「笹井さん」
彼女の名を呼びながら振り返る。彼女は僕を見てにっこり笑ったけど、僕が教室の一番後ろの席まで移動し「一年の冬に、俺がこの席だったのおぼえてる?」と聞くと、急に目線をさ迷わせた。
少しの間の後「おぼえてるよ」と答えたから、僕は安心して続きを話す。
「ある朝登校したら、俺の机にでっかく馬って書いてあってさ」
「うん」
「誰がやったか不明の未解決事件だったけど」
「うん」
「犯人は笹井さんでしょ?」
「へ?」
彼女は瞬きもせず、驚いた顔で僕を見ている。犯人、なんて大それた単語を使ってしまったせいで、予想以上に彼女を動揺させてしまったようだ。その様子さえ可愛く思えてしまう僕は、意地が悪いのだろうか。
動揺しながらも彼女は、こくりと頷く。それこそ、自供した犯人のように。
「いや、あの、その節は、大変申し訳ございませんでした……」
心からの謝罪だったけれど、僕は顔がにやけてしまって、それを隠しながら隣の席をぽんぽんたたいた。彼女は素直にその席に移動してくる。
「いいよ、消すの大変だったけど」
「本当に申し訳ございません、つい出来心で……」
まるで自供した犯人そのものだ。
落ち込む彼女を見つめ、撫でまわしてやりたい気持ちを必死で隠しながら、僕はあの日々のことを話し始めた。
一学年八クラスある中の真ん中、一年五組。
高校最初の一年を過ごした教室での思い出を振り返ると、何より先に「馬」の字が浮かぶ。
一年生も終わりに近付いた二月のはじめ、登校すると僕の机に大きく「馬」と書いてあった。
達筆で、しかもとても濃くて大きいそれを見て唖然とし、友人たちにからかわれながら、長い時間をかけてそれを消した。酷使した消しゴムは、小さく、真っ黒になった。
てっきり友人たちの誰かがふざけてやったのだと思ったけれど、みんなきっぱりと否定した。
「こんな時間がかかる悪戯しねぇよ」
「俺の字はこんなに上手くない」
「祥太、誰かに恨まれてるんじゃねぇの?」
恨まれるようなことはしていない、と思いたい。無意識に誰かを傷付けてしまっていたのなら謝りたいが、相手が分からない。そしてなぜ「馬」なのだ。わざわざこの字を選び、時間をかけて書くからには、それ相応の理由があるはずだけれど……。
一人で考えても何も思い浮かばず、部活――将棋部の部員たちに、馬という字で連想する言葉を訊ねてみた。
唐突な質問だったけれど、みんな不思議がることもなく、詰め将棋やクイズや心理テストでもしているかのように答えてくれた。「馬面」「馬主」「馬蹄」「馬刺し」「馬跳び」「馬術」「馬車」「馬の耳に念仏」「馬耳東風」「馬鹿」――……。
その中で一番ピンときたのが「馬鹿」だった。近頃僕自身が、そう思っているからだ。
自宅から自転車で一時間ほどかかる高校を選んだのは、県内でも強豪である硬式テニス部に入るためだ。
でも毎日朝練昼練と、放課後の部活をがっつりこなし、起伏の激しい道を合計二時間近く自転車で行くのは大変だった。そればかりか、高台のてっぺんにある高校へ辿り着くためには長い長い坂を行かねばならず……。
毎日疲れ果て、勉強や趣味の読書をしている暇などなくなった。それでもこの生活に慣れ、もっと体力がつけば、楽にこなせるようになると信じ、日々を過ごしていた、が。
中間考査の結果が、目も当てられないほど悲惨なものとなり、茫然とした。放課後の補習に強制参加させられ、再試験を受けたが、その結果も思わしくなく、夏休み中も補習を受けることになり、部のやつらには挨拶より先にからかわれ、心が折れた。
強豪校でテニス漬けの生活を送れたらどんなに楽しいだろうと思っていたのに、楽しむためには強さが要り、強くなるためには時間が要り、でも学生の本分である勉強もしなくてはならず、勉強ができなければ部活動に参加することもできない。両立するため趣味の時間も睡眠時間も削り、ただでさえ時間がないのに、毎日二時間自転車を漕ぐ。
笑ってしまうほどの悪循環に、僕は、部活を辞めることにした。
すぐに成績は上がり、ゆっくり読書をする時間もでき、何よりテニスを嫌いにならずに済んだ。
そうして自由時間が増えた僕は、恋をして、初めての彼女ができた。
相手は同じクラスの岡崎さんで、補習で一緒になり、仲良くなった。
とにかく可愛くて、友人たちとの会話の中でも度々話題に上る子だったし、明るい笑顔と声は、毎日憂鬱だった僕を大いに癒した。
季節が冬に変わる頃にダメ元で告白したら、オーケーをもらえたのだ。
それからの日々は、まるで熱に浮かされているようだった。
平日も休日も一緒に過ごし、買い物をして、買い食いをして、お喋りをして、家まで送って。家は逆方向だったけれど、少しでも長く一緒にいるためだ。遠回りくらい気にならない。帰ってから寝るまでも、メールや電話でやり取りを続けた。
僕は日ごと岡崎さんを好きになって、朝から晩まで、可愛い自慢の彼女のことばかりを考えていた。
異変に気付いたのは、一月中旬のことだった。
冬休み明けに行われた実力テストの結果が最悪で、身体はくたくた。この感覚には覚えがあった。夏に部活を辞めたときとそっくりだ。
そうして最近の行動を振り返る。この二ヶ月、時間があれば可愛い彼女と過ごし、勉強なんてほとんどしていない。冬先に買った小説は、楽しみにしていたはずなのに、冒頭を読んだきり開いてもいない。
加えて財布はからっぽで、昼食を買うことすらできなかった。そりゃあそうだ。毎日のように岡崎さんと出かけ、買い食いをするたび奢っていたら、こうなる。
勉強も読書も手につかなくなって部活を辞めたはずだ。けれどそれからたった数ヶ月で、また同じ状況に陥っている。
ここしばらくずっと身体を支配していた熱が、一気に引いていくような気がした。高校生になってから身長は十センチ近く伸びた。けれど中身は何も成長していない。不器用で要領が悪い馬鹿だ。
ぼくの机に「馬」と書かれたのは、そんな矢先のことだった。
将棋部の部室を出て、今日はもう帰ろうと、鞄の中の自転車の鍵を探す、と。英語のノートと週末課題のプリントがないことに気付いた。
今週末は家で大人しく勉強したほうがいいだろう。間近に迫った学年末考査でまたとんでもない結果を出してしまったら……。
補習や課題漬けになる未来を想像し、ぶるっと背筋を震わせながら、すっかり人けのなくなった廊下を行く。
ほとんどの教室は灯りも落とされ、吹奏楽部の合奏の音が遠くから漏れ聞こえてくるだけだったけれど。ひとつだけ灯りがついた教室があり、そこから女の子たちの楽しげな笑い声が聞こえた。
姿を確認しなくても、教室に誰がいるか分かった。ここ二ヶ月、ずっとそばで聞いていた声だ。でもそれと同時に、知らない声でもあった。いつもの明るくてよく通る高い声ではない。やけに棘のある低い声だ。
そしてその声の主は、数人の女子たちと一緒に、次々と侮辱の言葉を口にする。その度に、楽しげではあるが下品な笑い声が響く。話題は声の主の彼氏についてだった。
「クラスの中ではましな顔と頭」をしているらしい彼氏と「暇つぶし」に付き合い「勉強を教えさせる」つもりだったけれど「出会いが補習じゃあ大した頭じゃない」らしい。彼氏は先日の実力テストで散々な結果を出し、彼女たちをたいそう笑わせたが「もういい」らしい。「童貞でももらって」「最後にもうひと笑い」したら「別れる」し、「キスが下手すぎる」彼氏が「初体験でどんな可笑しな態度をとるか」を「期待している」という話を、僕は暗い廊下に立ち尽くしたまま聞いた。
机に「馬」の字を書いた誰かの言う通りだ。僕は熱に浮かされていたとんでもない馬鹿だったらしい。
初めてできた彼女とは、その翌日、盗み聞きしていたということを隠したまま、別れを告げた。「そう、残念」と言って去って行ったあの子は、どういう意味で「残念」の言葉を使ったのだろうか。