鹿編1
高校時代の友人から「母校へ行かないか」と連絡があった。なんでも高校野球の全国大会に初出場が決まり、卒業生や現地に行けない在校生のためにパブリックビューイングが行われるらしいのだ。
お盆休みと重なるとはいえ、その後輩たちは顔も名前も知らない。僕たちが在学中にいた先生たちもほとんど残っていないだろう。渋っていると「こんなことでもないとなかなか集まれないからさ」と説得され、結局行くことにした。
電話を切ってベッドに倒れ込むと、ふと一人の同級生のことを思い出した。一年生のときに同じクラスになっただけで、ほとんど話したことがない同級生だ。
卒業して八年。共通の友人がいないせいで、大学時代も就職してからも一度も会っていないし、話題にも上らない。けれどいつかまた会える日が来たら、聞かせたい笑い話がある。ずっと温めていた話だ。きっと彼女は笑ってくれる。
試合当日、目が覚めるともう昼過ぎだった。
試合開始は十三時だと言っていたから、すでに遅刻確定。支度をして出る頃には大遅刻になってしまうだろう。もう母校に行かずのんびり休日を満喫しようかとも思ったけれど、もしかしたら彼女は来ているかもしれない。
昨日の段階で、集まるメンバーの中に彼女の名前はなかった。そりゃあ共通の友人なんていないし、僕の友人が今回の発起人なのだとしたら、声すらかかっていないだろう。だからと言って僕が今日行かずに、後になって友人から彼女も来ていたと聞かされるのは嫌だ。慌ててベッドから抜け出した。
車で来ても、学校の駐車場には限りがあるため、各自で近隣の駐車場に停めるようにと言われていた。けれどどこも学校からは少し歩く。ただでさえ遅刻しているのに、駐車場から歩いて辿り着く頃には、試合は随分進んでしまうのではないだろうか。
試しに一番近くにある総合運動公園の第三駐車場に行ったら、満車だった。時間も時間だし、ここはもう学校の駐車場の隅に停めさせてもらおうかと引き返すと、学校から目と鼻の先にある市民体育館の門に「高校野球観戦・臨時駐車場」の貼り紙を見つけた。どうやら事前に用意されていた駐車場がいっぱいになったため、急遽市民体育館の駐車場を開放したらしい。
車から降り、一瞬で額に滲んだ汗を拭いながら、ゆるやかだけど長い坂を上っていく。
学校の敷地を囲む芝生の斜面やフェンス、体育館や校舎を見上げるのは初めてのことだった。学生時代は自転車通学だったから、立ち漕ぎの最中にわざわざ見上げるわけもない。こんなことでもなきゃ、きっと一生見ることがなかった風景だろう。
それにしても暑い。深く息を吐いて、拭っても拭っても滲んでくる額の汗に苦笑する。
営業職で、車移動も多いとはいえ歩く機会はそれなりにある。だからまだまだ体力には自信があったけれど、八年ぶりのこの坂は正直足にくる。
どうして坂の頂上にある高校を選んでしまったのか、後悔したことは一度や二度ではない。夏は炎天下、冬は雪の中、雨の日は合羽を着て自転車を漕ぐのは地獄だったが、今じゃこれも良い思い出かもしれない。
ふと見ると、校門の前に女性が立っていた。あの人も野球観戦に来たのだろうけど、この時間じゃもう大遅刻だ。遅刻ついでに思い出を振り返っているのだろうか。僕と同じように初めて母校を見上げているのかもしれない。親近感に思わずにやける頬を撫でながら横断歩道を渡る、と。
僕の足音に気付いた女性が振り返り、そして呟くように「こ、ばやしくん……」と僕の名前を呼んだのだった。
驚いて改めて女性の顔を見る。涼やかで大人しそうな、でも可愛らしい顔をした人だった。黒髪を後ろで緩くまとめている。そしてその涼やかな顔に、尋常じゃないくらいの汗をかいていた。年は僕と同じくらいだろうが、誰だろう。
数秒間を置くと、頭の中に一人の女の子の姿が浮かんだ。それは今日会いたかった人の姿だった。
「どちらさまですか?」
予想が外れたら申し訳ないからそう答えてみると、女性は肩を落として気まずそうな顔をした。ほんの少し顔をそむけ、伏せた目と俯いた顔の感じは見覚えがある。当時親しくもないただのクラスメイトだった僕が、離れた場所からよく見ていた角度だった。この人は、今日僕が会いたかった人だと確信した。
「うそうそ、おぼえてるよ、笹井さん」
ふっと笑ってそう言っても、彼女は気まずそうな顔のまま。でも僕をしっかりと見上げてくれた。僕は嬉しさを隠すように彼女の隣に立って腕時計に目をやる。
「試合?」
「うん、そう、甲子園」
「もうとっくに始まってるよ」
「小林くんこそ」
「寝坊して」
「わたしもだよ」
「笹井さんが遅刻するイメージないけど」
「ゆうべ遅くて」
「デート?」
「まさか。仕事」
まさか。学生の頃ほとんど話したことがない笹井さんと、こんなに普通に会話ができるなんて。まあ僕も彼女も二十代半ば。まだ十代だったあの頃とは違う。それだけ大人になったということだろう。
それにしても彼女の汗が凄い。聞けば駅の裏にある駐車場に停めろと連絡があり、そこから歩いて来たらしい。結構な距離だ。高校近くの駐車場をいくつか教えられていた僕とは、連絡系統が違ったらしい。
不運にも結構な距離がある駅の駐車場を指定され、素直にそれに従ってこの酷暑に、汗だくで坂を上ってきた彼女が、無性に可愛く思えて。どうしても労いたくなって。ずっと会いたかった気持ちも相まって、くつくつ笑いながら、手の甲で彼女の額の汗を拭ってやった。
彼女が驚いた顔をしたことで、自分の行為があまりにも馴れ馴れしかったと気付いた。僕は自分で思うよりもずっと興奮していることを知り、それを隠すよう、行こうかと促したのだった。
並んで校門をくぐり、昇降口まで続くゆるやかな坂を上っていく。
歩幅が狭く、しかも汗だくで疲れているであろう彼女のためにゆっくり歩きながら、こっそり隣を盗み見た。
あの頃より少し髪が伸びたせいか、化粧をしているせいか。それとも初めて私服を見たせいか。あの頃とはまるで別人のようだ。背もこんなに低かったっけ。声もこんなに柔らかかったっけ。会話をするたび蘇る記憶を懐かしみながら、今得た情報を記憶していく。
彼女と一緒に第一体育館や駐輪場を見て、昔あった数々の出来事を思い出していく。自転車逆さま事件やくまさん事件……。
事件と呼ぶにはあまりにも些細なことだったけれど、高校生の日常で少し変わったことが起これば、それはもう大事件。しかも全て誰の仕業か分からず仕舞いだった。彼女と僕には共通の思い出はほとんどないから、学生時代の話をしようとすると自然とこういう内容になってしまうのだ。
職員玄関に辿り着き、彼女が事務室のガラス戸をたたく。出て来た用務員さんは僕たちが在学中お世話になったひとだった。見慣れぬ白髪頭に時の流れを感じる。最初は来客用の事務的な対応をしていた用務員さんだったけれど、僕たちが用紙に書いた名前を見ると、嬉しそうに「思い出した、文芸部の笹井さんと、遅刻魔の小林くんか!」と言って笑った。
できればそれは思い出してほしくなかった。苦笑したけれど、彼女が柔らかい笑顔で僕を見上げたから、僕もつられて笑ってしまった。
ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら野球観戦が行われている三階の合同講義室に向かった。声援は外まで聞こえていて、充分盛り上がっているということは分かっていたが、近くで見ると凄い迫力だ。卒業生や在校生が数十人、うちわやメガホンを持って大型テレビの中の球児たちに声援を送っている。
見知らぬ人たちが一体となっている光景は感動的だけど、とても入って行ける雰囲気ではなかった。この人たちのボルテージは最高潮。一方遅刻してきた僕たちはゼロからのスタート。ここに何食わぬ顔で紛れ込み、わーきゃー騒ぐというのは想像できなかった。
僕の前に立って教室を覗き込んでいた彼女も、同じことを考えていたようだった。困ったような顔で僕を見上げるから「少し、話さない?」と誘った。彼女は静かに頷いた。
これはチャンスだと思った。むしろチャンスでしかなかった。
もし今日会えたのなら八年温めていた笑い話をしようと思っていたけれど、まさか本当に会えるとは。僕と同じように遅刻をし、せっかく野球の応援に来たのに中に入れず、ふたりで話すことになろうとは。こんな機会はもう二度とないかもしれない。笑い話をするなら今日しかないのだ。