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うましか  作者: 真崎優
うましか
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馬編5


 二月の凍りついた空の下、一頻り嘆息したあと、踵を返して走り出した。


 冬の夕暮れは短い。校舎に生徒はほとんど残っておらず、吹奏楽部の合奏の音と、その隙間を縫うわたしの慌ただしい足音が、やけに大きく響いていた。


 わたしは誰にも会わないまま四階にある一年五組の教室に辿り着き、鞄からペンケースを取り出しながら、一番後ろの彼の席の前に立つ。


 約一年、彼が勉強し、お弁当を食べ、クラスメイトと雑談し、たまにうたた寝した机だ。何度か席替えがあったのに、結局一度も近くに来ることがなかった机。横に六列、縦に七列もあったのに、ずっと後ろの三列を行ったり来たりし続けた机だ。


 その机の天板を指でそっとなぞったあと、床に膝を付き、4Bの鉛筆で、そこに大きな字を書いた。「馬」と。


 それは、心も身体も幼いわたしがこのときにできた、精一杯の感情表現だった。


 お願い、気付いて。あなたが傷つく前に、どうか。女の子はみんな、本心を巧みに隠しているということを。わたしはこれ以上、あの子の口からあなたへの侮辱の言葉は聞きたくない。

 人は恋をすると馬鹿になってしまうらしいの。どんなに頭の良い人でも、恋をしたら冷静な判断ができなくなってしまうんだって。恋は盲目なの。だからお願い、どうか、どうか、目を開けて……。


 わたしも馬鹿になってしまっていたことに気付いたのは、四階奥のトイレに駆け込んでからだった。

 個室に籠り、手にしたままの4Bの鉛筆をぎゅうっと握る。


 あの子の口から彼への侮辱の言葉は聞きたくない、なんて。偽善だ。わたしはただ悔しかったのだ。わたしが彼と五回話しただけで有頂天になっている間、彼はあの子と交流し、恋人同士になって、手を繋ぎ、抱き合い、キスをして、愛の言葉をかけているのだ。わたしがいつも通りの時間を過ごしている間に。


 あの子が陰で侮辱しているとも知らず、変わらずあの子を好きでいる彼は馬鹿だ。でも、わたしはそれ以上の大馬鹿だ。

 一年近い時間があっても彼と仲良くなれなかったのは、わたしに意気地がないせいなのに。ふたりが付き合い始めたのは、ふたりの勝手なのに。


 平気な顔で平穏な日常を過ごすふりをして、嫉妬で心を焦がし続けていた。


 だから彼へのメッセージを「馬」にしたのだろう。わたしたち、趣味も好みも合っていたのに。きっともっと親しくなれたのに。わたしを選ばないなんて馬鹿だ、と……。


 でもよく知り合って、趣味と好みが合ったとしても、彼がわたしを選んでくれる保証はないし、わたしも自分に自信を持っているわけではない。


 ぱっちりした目と小さな鼻、明るくて、よく通る声をしたスタイルの良いお洒落なあの子と、特筆すべきことがないわたし。ぱっと見た第一印象は、あの子のほうがずっと良いだろう。

 それでも……特筆すべきことがないわたしでも、恋をしていた。彼が好きだった。大人になってから思い出したら、笑ってしまうくらい幼稚な恋だったかもしれないけれど、精一杯恋をしていたのだ。


 そして今日、その恋を終わらせた。俯いて、手にしていたままの4Bの鉛筆を見つめていたら、その横を、透明の液体が通り過ぎていくのに気付いた。液体はぱたぱたと足下に落ちていたが、次第に視界が霞んで見えなくなった。


 鼻の奥がツンとして、喉から「う、う」と声が漏れだした頃になって、ようやく分かった。平気な顔で平穏な日常を過ごしながら、わたしはずっと、泣きたかったのだ。始まらないまま終わってしまった恋を嘆いて、泣いてしまいたかったのだ。


 その証拠に、頬が濡れていくにつれ、肩がすうっと軽くなっていき、外がすっかり暗くなる頃には、背筋をしゃんと伸ばして立つことができた。



 翌日、彼が一生懸命「馬」の字を消しているのをからかう、男子たちの賑やかな声が聞こえた。わたしは前を向いたまま心の中で「ごめんね」と呟きながら、静かに本を開く。



 そのあと、バレンタインデーに彼とあの子がキスより先へ進んだのかは、知らない。休み時間も放課後も、できるだけ教室にいないよう、雑談が耳に入らないよう、努力したからだ。

 幸いにも、休み時間や放課後に一緒に過ごせる友人たちはどのクラスにもいた。あんな幼稚な恋しかできなかったわたしは、その分友だちに恵まれたのだ。


 そうやって、高校一年生が終わっていった。


 これが、この教室で起きた、全てのことだ。




「十年も前のことなんてもう思い出せないと思っていたけど、少しのきっかけで思い出すもんだよね」


 呟くような声。小林くんはこちらに背を向けたまま窓枠に手を置いて、そんなことを言った。そうだね、と同調しながらその背中を見つめる。そういえばあの頃は背中ばかり見ていた。隣にも正面にも立てないから背中。密かな片想いの証だ。盗み見をしていたという証でもある。


 十年前と違うのは広く大きくなった背中と、振り返って「笹井さん」と呼んでくれるということ。


 振り返った彼は、わたしと目が合うとにっこり笑って、真っ直ぐに、ある席に向かう。わたしも言葉の続きを待ちつつ、彼の姿を目で追った。彼が立ち止まったのは、一番後ろの、彼が一年生の終わりまで座っていた席だ。そして懐かしそうに机を撫でてこう言った。


「一年の冬に、俺がこの席だったのおぼえてる?」


 どう返答するべきか迷った。その席はあの日わたしが恋を終わらせた席だ。もしかしたら彼は、あの落書きのことを思い出したのかもしれない。それなら、あの時のあの幼稚な恋を笑い話にするチャンスだと思った。


 少しずつ速くなっていく鼓動を感じながら、わたしは静かに頷いた。

「おぼえてるよ」

 小林くんが落書きの話題を持ってきたら白状しよう。十年前の情けない想いを、笑いながら。そう決心した、のに。


「ある朝登校したら、俺の机にでっかく馬って書いてあってさ」

「うん」

「誰がやったか不明の未解決事件だったけど」

「うん」

「犯人は笹井さんでしょ?」

「へ?」


 予想外の展開だった。あの日のことなんて彼は詳しくおぼえていないだろうし、思い出したとしても誰がやったかなんて気付いていないだろうと思っていたのに。全て、ばれていたのか。

 しらを切っても仕方がない。素直に頷くと、彼は「やっぱりね」と穏やかに笑った。


 さあ、どこから話そうか。今まさに青空の下で熱戦を繰り広げている、名前も知らない十歳近く年下の後輩たちには申し訳ないけれど。彼らと同じ高校生だった頃の、幼稚で情けない恋に、決着をつけるときだ。

 十年越しの告白は、さぞ面白い笑い話になるだろう。




(馬編・了)

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