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うましか  作者: 真崎優
うましか
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馬編4


 それから彼とは、ごくたまに、少しだけ話すようになった。と言っても、放課後の教室で偶然ふたりきりになったとき、という、条件を満たすには少々難しい場合のみで、普段は何も変わらない。今まで通り、最低限の会話しかしないクラスメイトだ。


 一度目は初めて私的な会話をしてから半月後で「将棋部に入った」と「本を読む時間ができた」という報告だった。「良かったね」と返すと、彼は穏やかに笑って「うん」と頷いた。


 二度目はそれから一ヶ月後。わたしが読んでいた本を通りがかりに二度見した彼は「その本俺も読んでる」と少し興奮気味に話しかけてきた。偶然にも、ちょうど昨日から読み始めたらしい。

 好きな相手と、好きな作家が同じだったという偶然は、この上なく嬉しかったけれど、「続きが気になって授業に集中できなかった」という彼を引き留めるわけにもいかず「安全運転でね」と言って見送った。


 三度目はその一週間後。わたしたちは初めて隣り合って座って、件の小説について感想を言い合った。普段口数が少ない彼はとても饒舌に、三度読み返したという小説の、良かった場面を語ってくれた。


 四度目は二週間ほど経った頃で、図書室から本を借りてきたらしい彼に「この本読んだ?」と声をかけられた。それは先日大きな賞をとった作家の初期の作品で、何年か前に読んだことがあった。「面白かったよ」と伝え、さらにおすすめの作品名を教えると、彼は嬉しそうに笑って帰って行った。


 五度目はその十日後。早速、紹介した作品を読んだらしい彼は、その感想を丁寧に語り、定期考査が始まるので読書ができなくなることを嘆いた。

 そんな彼に「中間終わったら読んで」とおすすめの小説を教えると「読みたくなるから今教えないで!」と抗議しながらも、しっかりメモを取るのが可愛いと思った。


 ああ、好きだ。黒縁眼鏡の向こう側にある奥二重の目も、穏やかな声も、口調も。時折見せる優しい笑顔も、本の話になると饒舌になるところも。

 今、ただのクラスメイトとして知り得ることだけでも、こんなに好きだ。


 高校生活は始まったばかり。まだまだ時間はある。少しずつ、少しずつ距離を縮めていけたら、卒業の頃にはなんとか……。


 そう思っていた、のに。六度目の会話の機会は、二度と訪れなかった。


 翌週、定期考査前の部活動停止期間が始まり、放課後になるとそれぞれ勉強がしやすい場所に散っていく。早々に帰宅する人もいたし、教室に残って机をくっつけるグループも。学校の図書室や、市民図書館に向かう人もいた。


 わたしはというと、同じクラスの鈴村桐と一緒に、交流センターで勉強することにした。

 学校前の坂を下り切ったところにある交流センターには、いつでも誰でも予約なしで利用できる多目的室があり、ここを勉強場所に選ぶ人も多かった。


 ただし図書室のような静けさはない。誰でも利用できる部屋だから、時にはバスを待つお年寄りや、絵本を音読する親子がいたりもする。うちの生徒が向かい合って座って一生懸命勉強を教え教わっていることも、ディベートが始まっていることもあった。


 それでいて、教室ほどの騒がしさもない。わたしは前期の中間考査前から利用しているけれど、ここの程よい賑やかさが気に入っていた。



 交流センターの一階。清潔感のある白い廊下を進んだ、西奥の部屋。教室より少しだけ狭い部屋には長机が三列、等間隔に並んでおり、すでにうちの生徒たちが教科書を開いていた。


 窓際のソファー席には、冬の貴重な日差しを浴びながら編み物をするおばあさんが。同じく窓際の席にはノートパソコンを開くスーツ姿の男性もいた。相変わらずここは、程よく賑やかだ。


 わたしとスズは入り口近くの壁際の席を選んで、コートを脱ぎながらパイプ椅子に着席し「お願い友喜、英語教えて」「わたしは数A教えてほしい」「無理、数Aは捨ててる」と何気ない会話をしながら教科書を取り出す。

 そして何気なく顔を上げ、真ん中の列にいる人物を視界に入れ、硬直した。


 それはうちの高校の男子生徒と女子生徒だった。ふたりは肩が触れ合うほどパイプ椅子を近付けて座って、一冊の教科書を間に置いて勉強していた。

 男子生徒は穏やかな声で丁寧に、公式の当てはめ方と解き方を教え、女子生徒は悩ましい声を出しながら問題を解いている。

 少しすると、ふたりは寄せた顔を見合わせ、笑い合う。どこからどう見ても、幸せそうな恋人同士。


 どこからどう見ても、小林くんと、同じクラスの岡崎さんだった。


 いつから付き合っていたのだろう。同じ教室の中で毎日生活していたのに、全く気付かなかった。告白はどちらからだったのだろう。彼は岡崎さんのどこを、岡崎さんは彼のどこを好きになったのだろう。


 ただひとつはっきりと分かっているのは、出会ってから八ヶ月、わたしがぐずぐずして、たった五回の会話で満足している間に、彼らはちゃんと友情や愛情を育んでいたということだ。


 身体中の血が冷え、全ての細胞が活動を止めてしまったのかと錯覚するくらい寒くって、脱いだばかりのコートを着直した。指先が震え、うまくペンを握れず、何度も取り落とした。スズに心配され、予定よりずっと早くに勉強を切り上げ、真冬の屋外に出ると、ようやく体温が戻ってきた。


 暖房のきいた室内で震え、真冬の屋外で暖を取るほどの動揺。こんな風になったことは今までなかった。小学生の頃の初恋も、ある日突然訪れたファーストキスも、部活の先輩への片想いも、中学三年生で初めてできた彼氏との日々も、その日々が高校受験を機に終わってしまったときも、こうはならなかった。


 まだまだ知らないことばかりでも、彼のことが好きだった。それこそ、身体がエラーを起こしてしまうくらい。

 でも終わりだ。彼はもう恋人がいる。終わりなのだ。


 幸いにも、この八ヶ月で彼とちゃんと話したのは五回だけである。同じ教室で一日を過ごしても、同じ班で毎日同じ場所の掃除に行っても、仲良くなれなかった。

 話ができた五回は、わたしが放課後の教室に残っていたときだけ。それなら教室を出てしまえば、六度目の会話の機会は失われるのだ。


 そうやって逃げるように、寒い部室や小講義室で放課後の時間を過ごすようになって、気がついた。こんなことをしなくても、彼は岡崎さんととっくに下校しているのではないだろうか。


 そう思ったら、自分がやっていることがひどく滑稽に感じて、暖かい教室に戻ることにした。でも万が一に備え自分のクラスではなく他のクラスで、そのクラスに残っていたみんなと過ごすよう徹底した。


 幸いにも、六度目の会話が起きないようにするのは簡単だった。元々彼の生活の中にわたしはいなかったから、避けることが不自然になることはないのだ。

 そうやって、高校一年生の残りの日々が過ぎていく。わたしの日常は、平穏そのものだった。


 友だちもたくさんできた。部活も楽しい。年度末に発行する文芸部誌の準備は、目が回るくらい忙しかった。わたしは毎日、笑って過ごした。


 それでもたまに、一瞬だけ、胸に鋭い痛みが走る。まるで心臓の奥に氷の破片でも突き刺さっているかのように。そしてたまに、胸の奥に、なんとも形容し難い違和感があるのに気付く。心の中の柔らかい部分を、とても大きな分銅でゆっくりと押しつぶしているような。そんな違和感だった。


 どうしてそんなことになっているのか。原因ははっきりと分かっている。彼と岡崎さんだ。ふたりが楽しげに話す様子を見たとき。いつの間にか名前で呼び合っていることに気付いたとき。放課後の教室で岡崎さんが彼とのキスについて話しているのを聞いてしまったとき。バレンタインデーにもっと先まで進む計画があることを知ったとき。


 いくら「動け」と身体に命じても、あまりの痛みと違和感に、わたしは硬直してしまう。


 彼と話したい。彼に話さなければ。伝えなければ。教えなければ。岡崎さんと付き合うのは間違っているよ、と。


 あの子は可愛い。目はぱっちりとしていて鼻は小さく、緩いウェーブのかかったふわふわの髪がよく似合っている。明るくて、高めの声はよく通り、スタイルもいい。でもそれは表の顔だ。


 ねえ、聞いて、小林くん。あの子は男子の目がないところでは驚くほど口が悪くて、色々な人の悪口を言っては馬鹿にしているの。あなたと付き合い始めたのも「クラスの中ではましな方で、頭も良いから課題をやってもらう」ためだと、話しているのを聞いた。

 あなたのキスが下手過ぎて笑ってしまったことも、誘っても手を出してこないヘタレだったということも、女子トークのネタにされてしまっているの。バレンタインに童貞をあげてしまったら、それもネタにされてしまうよ。

 女子たちはあの子の本性を知っているけれど、学校生活で波風を立てたくないから、黙っているだけだよ。


 だからどうか、傷つく前に……なんて。伝える勇気は、わたしにはない。好きな人の好きな人を悪く言うことなんて、できるわけがない。岡崎さんのことが好きな小林くんが、彼女を悪く言うわたしをどう思うかなんて、簡単に想像がつく。わたしはどうしても、好きな人に嫌われたくないのだ。


 だから痛む。だから苦しい。だから情けない。


 彼にとってわたしは、何でもないただのクラスメイトで、彼の物語の画角にすら入れないモブキャラだ。そのくらい、わたしは無力だ。



 身動きが取れず、わたしは落胆する。これだから……これだから恋というやつは……。



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