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うましか  作者: 真崎優
うましか
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馬編3


 四階、一年五組の教室。小林くんとわたしが、三年間で唯一同じクラスだった場所に来た。夏休み前に廊下にワックスをかけたのか、ツンと鼻につくにおいが充満している。


 教室に並ぶ机や窓際に設置してあるヒーターの上には、教科書や辞書が置きっぱなしになっていたり、黒板に無意味な落書きがあったり。


「昔も今も、あんまり変わらないね」

「そうだね」

 わたしたちの時もこんな感じだった。何でもかんでも学校に置いていった。長期休暇だからといって全部持って帰ったりはしない。週末課題で使うからと、たまに辞書を持ち帰ったりすると、必ず家に忘れて来てしまって、別のクラスの友だちに何度も借りる羽目になった。


「どこの席だったかおぼえてる?」

「入学当時に座っていた席なら。一番前。すっごく嫌だった。毎日先生に指されるし」


 廊下から数えて二列目の一番前。座ってみると、小林くんは教壇に上ってわたしを見下ろした。


「先生との距離、こんなに近かったんだね。そりゃあよく指されるわ」

「真ん中の二人より指されてたよね」

「この席のせいだと思ったのに、席替えの後ここに座ったみんなはそうでもないし」

「笹井さんちゃんと顔上げて授業受けてたから、指しやすかったんじゃない?」

「そうなの? その時教えてくれたら俯いたのに」


 まあ、気軽に話すような仲ではなかったから、助言をもらえないのは当然なのだけれど。


「俺は後ろから、ちゃんと先生の話聞いてて偉いなって思ってたよ」

「わたしすぐ肩こっちゃうから、ずっと下向いてるのがしんどくて。顔上げながら板書してたの」

「あれ、じゃあ先生の話を聞いてたっていうより、肩を労わってたんだ」

「そうそう」

「すごく良い印象だったのに」

「え、もしかして好感度下げた?」

「ちょっとね」

「じゃあ今のなし!」


 小林くんは切れ長の目を細めて笑うと、教壇から下りて窓を開ける。窓からはむわっとした風が流れ込んできて、髪がさらさらと揺れた。


 十五歳、高校一年生。わたしは、……わたしたちは一年間、この教室で共に過ごした。「こばやし」と「ささい」で出席番号が近く、同じ班でもあった。


 班での活動は、授業のあとの掃除と、たまに総合学習の時間にグループでの調べものや発表があるときだけで、そこまで接点があるわけではなかった。


 それでもわたしは、彼に恋をした。


 四月の末の、体育館掃除のときだったと思う。出入り口の階段で足を引っ掻けて転んで、膝を擦りむいたとき。他の男子たちと前方を歩いていた彼が振り向き、すぐにポケットから絆創膏を出して「大丈夫?」と声をかけてくれた。


 ただ、それだけ。たったそれだけのことだったけれど、わたしはこの、些細なことをごく自然にできる優しい彼に、恋をした。



 それからはこっそり彼を盗み見て、話すタイミングを計った。けれど情けないことに、話題が見つからない。


 盗み見ていて分かったけれど、彼はあまり口数が多いタイプではないらしく、男子たちの輪にいても、ただ笑ったり頷いたりするだけのようだった。

 つまり盗み見も盗み聞きも、あまり役に立たなかったということだ。情報がなくてもクラスメイトなのだから「昨日のドラマ見た?」とか「あの歌手の新曲聞いた?」とか、気軽に話しかけても問題ないはずなのに。


 恋とはなんて厄介なのだろう。会話が弾まず悪い印象を与えてしまったら、と臆病になり、気軽に接することができないのだ。


 情けないわたしにできたことといえば盗み見と盗み聞きと、そして放課後に中庭のテニスコートで部活に励む彼の姿を眺めることくらいだった。


 テニスコートが中庭にあったのはありがたい。わたしは間違いなく部活中の彼を意図的に見ているのだけれど、それを知らない人からすれば、放課後の暇つぶしにぼんやり運動部を眺めているだけに見えるだろう。そして中庭は、どの階のどの場所からでも見ることができるのだ。


 運がいいことに、わたしが所属していた文芸部の、週に二回の活動場所も、中庭に面した小講義室だったから、わたしは気兼ねなく、彼がラケットを振る姿を見ることができた。


 でも情けないわたしは情けないまま、高校生活の大イベントである体育祭も夏休みも、文化祭ですらも。何もできないまま、過ぎ去ってしまった。


 彼以外の異性なら、同級生でも先輩でも先生でも、気軽に話すことができるのに、と落胆していた、九月半ばのことだった。


 月曜日で、文芸部の活動はなく、放課後の教室で、友だちの委員会の集まりが終わるのを、本を読みながら待っていたとき。「あ」という声が聞こえ、弾けるように顔を上げると、彼がいた。


 テニス部は今も中庭で活動中のはずなのに、なぜか彼は制服姿で、教室に残っていたわたしを不思議そうに見ながら「どうも」と挨拶をした。


 情けないわたしでも挨拶くらいはできる。彼に倣って「どうも」と返すべきところだったけれど、放課後の教室で遭遇するとは思っていなかったせいで、挨拶より先に「部活は?」と気軽に尋ねてしまった。


 すると彼は一瞬「あー」と言い淀んだあとで「辞めた」と答えたのだった。


 失敗したと思った。特に親しくもないただのクラスメイトが気軽に聞くべき内容ではなかった。だから謝ることも、励ますこともできない。わたしも退部経験者だよ、と昔話をすることもできない。でも質問して返答されたからには、返事をしなくてはいけない。


 考えた末「そっか、お疲れさま」と、できるだけ普通の声色を心がけて返した。


 そうしたら奇跡が起きた。


「うん、疲れたからね、チャリ通しんどい」と。彼が会話を続けてくれたのだ。あの口数の少ない彼が、だ。


「……テニス部、練習量凄そうだもんね。部活中とか、よく目に入った。活動場所、小講義室だから」


 意図的に見ていたことがバレないよう、慌てて「部活中」を強調するように付け足したけれど、言い訳じみていたかもしれない。もっと冷静にならなければ。まったく。これだから恋というやつは……。



 でも彼は特に気にする様子もなく、一番後ろの自分の席に向かって、持っていたプリントを鞄に突っ込むと「何部?」と会話を続けてくれた。


「文芸部」

 わたしも彼の姿を追って、一番前の自分の席から振り向きながら答える。


「……ごめん、何する部?」

「読書したり、文章書いたり、かな」

「へえ、いいね」

「うん」

「読書は俺も好きだけど、練習とチャリ通がきつくて、この半年で一冊も読めなくて、それで……」


 呟くように言いながら、彼は突然はっとして言葉を切り、鞄を肩にかけた。


「じゃあ、帰る」


 それは、特に親しくもないただのクラスメイトに退部のきっかけを話すなんて何やってんだ、と自分の言動に呆れているような態度だった。


 わたしもそれに気付いたから「うん、じゃあね」とだけ返して笑顔を作り、彼の大きな背中を見送る。


 今はこれで充分だ。むしろ充分すぎる。同じクラスになって半年。クラスメイトとしての最低限の会話しかしていなかった彼と、初めて私的な会話ができたのだから。



 廊下を歩く足音が遠ざかって、やがて吹奏楽部の合奏の音しか聞こえなくなった頃。見送ったときの笑顔のままだったわたしは、静かに本を閉じ、スペースの空いた机に顔を埋めた。ずっと同じ表情をしていたせいで頬が凝り固まって痛い。机に付けた額に、やけに速い鼓動が響いてうるさい。まったく。これだから、恋というやつは……。



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