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うましか  作者: 真崎優
うましか
10/17

鹿編5


 話し終えると、彼女は眉根を寄せて「んうぅぅん……」と悩ましい声をだしていた。


「げた箱に、鹿……?」

 どうやら僕が入れた紙のことなんて、記憶にないらしい。


「何時間もかけて書いたのに、意味なかったか……」

「わ、ごめん、違うの、卒業式の日はとにかく荷物が多くて」

「卒業前に持ち帰らなかったの?」

「ちゃんと計画的に持って帰ったよ……でも友だちや後輩たちからプレゼントをもらって。花とか色紙とかおもちゃとかお菓子とか。部活で書いた作品をわざわざ本にまとめてくれたり。それを全部袋に入れて、それでも何袋も、……」


 説明の途中、彼女は突然言葉を切り、切った口のまま僕を見つめた。

「……思い出した。文芸部誌の間に紙が挟まってた。鹿って。意味不明な落書きとかメッセージとかもたくさんあったから、それも後輩たちの仕業だって思ってたけど、まさかそれが……」

「ん、俺だね」

「言ってくれれば良かったのに……」

「笹井さんこそ。言ってくれれば良かったのに」

「だって、声かけるほど仲良くなかったし」

「青くて若くて、馬鹿だったね」

「そうだね、ほんと、馬鹿だった」


 ようやく彼女が笑う。僕も安心して笑って息を吐いた。八年温めたこの話ができて良かった。卒業からすでに八年も経って、再会できる兆しなんて全くなかったから、話せないまま年ばかりとっていくのだろうと、半ば諦めていたのに。

 彼女に話したことで、身体がすっと軽くなった。そのお陰でこの八年、どれだけ身体が重かったのか気付くことができた。



「じゃあ今度はわたしの番ね」

 安心しきった僕に、彼女が言う。

「なに?」

「わたしがどうしてあんな落書きをしたか」

「うん」

「小林くんの予想通り、馬鹿の馬だったんだけど。あれは、わたしを選ばずに岡崎さんを選ぶなんて馬鹿だなぁって意味」

「え?」

「わたしたち趣味も合ったし、きっと仲良くなれたのに。小林くんの物語の中でわたしはモブでしかなかったから、選ばれなかった。選択肢の中に入れてすらもらえなかった」

「……そうかもね、あのときは……」

「だから、あの子のことを知らせるため、なんて言うと、偽善になってしまう。わたしはただ嫉妬で心を焦がして、どうしようもなくて、むしゃくしゃしてやった。それだけ」

 やっぱり自供した犯人のようなことを言って、彼女は目を細めた。


「一年生の時、小林くんのことが好きだった。好きだけど、会話なんてほとんどできないただのクラスメイトで。でも長い時間をかけて五回だけ、本の話をすることができたから、これからだって。この調子でゆっくり親しくなっていこうって思った矢先に、ふたりが付き合っていることを知ったの」


 突然のカミングアウトだった。まさか八年温めた笑い話に続きが、いやこんな始まりがあったなんて。


「ふたりが仲良く寄り添っているのを見ただけで、もうだめだった。それこそ、身体がエラーを起こしてしまうほどにね。それでもう小林くんを視界に入れないように、話す機会が訪れないように、努力した」


 そして彼女は「おかしいよね」と言って笑う。


「一年生のときは、どうにか小林くんの視界に入ろうとタイミングを計ったり、こっそり盗み見たりしてたのに。数ヶ月後には真逆のことをしてた」


 本当におかしな話だ。彼女が僕を盗み見てタイミングを計っていた間、僕は彼女を見ていなかった。その後彼女が僕を徹底的に避けていた間、僕は彼女を盗み見てタイミングを計っていたなんて。

 よく分かった。彼女は誰とでも仲が良く、誰とでも楽しそうに話していた。部活も委員会も友だち付き合いも忙しそうで、不甲斐ない僕は話しかけることができなかったというのに。そもそも僕を避けるために始めたことなのだから、タイミングが見つからないわけだ。


 本当に、青くて若くて、馬鹿だった。



「そっか、笹井さん、俺のこと好きだったのか」

「そうだね、今思い出しても笑えるくらい、幼稚な恋だったけど」

「ちなみにきっかけは?」

「入学してすぐ、転んで膝を擦りむいたら、小林くんが絆創膏をくれた」

「それだけ?」

「きっかけはね」

「俺そんなことした?」

「ん、体育館掃除のときかな。同じ班だったでしょ」

「優しかったんだなあ、俺。そんな恰好いいことして」

「そうだね」

「ちょっと。つっこんでくれないと自画自賛する男で終わるんだけど」

「そうだね」


 なんてことない雑談が、楽しくて仕方ない。昔の僕たちじゃあ、こうはならなかっただろう。きっとこれが、大人になったという証。


 あの頃の話もした。少しだけ仲良くもなれた。もうすぐ試合も終わるだろう。今はもう大人として、それぞれの道を歩んでいる。この些細な時間の共有は、今日だけのもの。そう思うと、急に寂しくなった。


「今日小林くんに会えて、本当に良かった」


 彼女のやけにすっきりした声が、寂しさに拍車をかける。やっとあの頃の話が出来て、僕もすっきりしたけれど、それだけじゃない。再会してから、僕は彼女が可愛くて、撫でたくて、何度でも額の汗を拭ってやりたくて仕方がないというのに。

 勝手にすっきりして、勝手に再会を終わらせようとしないでほしい。



「俺もだよ。俺も、笹井さんが好きだった」

「……小林くん、話噛み合ってないよ」

「うん、でも好きだったよ」


 黒板の方を向いたままそう言って、静かに右手を差し出すと、彼女は「話聞いてる?」と呆れたような声を出し、それでも左手で僕の手を握ってくれた。


 小さい手だと思った。温かい手だとも思った。できればずっとこうしていたいと思った。今日だけのことではなく、願わくは明日も明後日も。


 それなら口に出せばいい。共有できる思い出はほとんどないけれど、これから共有できる思い出を作ればいい。それをなかなか言い出せない僕は、やはり馬鹿なのだろう。年はとっても、あの頃からあまり成長していない。



 そのとき、彼女と僕のスマートフォンが同時になって、繋いだ手が離れてしまった。ディスプレイには今日僕を誘った友人の名前。彼女の方も同じだろう。彼女は慌てて廊下に出て、電話に応じる。それを確認してから、僕もスマートフォンを耳に宛てた。


「もしもし祥太、おまえ今どこにいるんだよ、試合終わっちゃったぞ」

「悪い。今笹井さんと教室にいる」

「笹井って、ああ、ささゆーか。ささゆーも来てんだな。こっちは康と千葉と相澤と鈴村がいるんだけどさ、これからみんなでメシ行こうって。祥太も来るだろ?」


 ああ、この時間の共有もついに終わりか。電話を切って、つい数分前まで彼女に触れていた右手を見つめる。汗でびしょびしょ。こんな手を握らせていたなんて申し訳ないが、もっと手汗をかいたとしても、ここでちゃんと言わなければ。あの頃とは違うのだと、自分自身に言い聞かせなければ。


 好きだ。彼女が好きだ。友人の口から「ささゆー」なんて、俺よりもずっと親しげな彼女の呼び名が出て、はらわたが煮えくり返るくらいには、彼女が好きだ。



 机に両手をついて立ち上がると、ちょうど彼女が電話を終えて戻ってきた。


「スズからだった。おぼえてる? 鈴村桐。一年生のとき、小林くんも同じクラスで」

「笹井さん」

 彼女の言葉を遮り、名前を呼ぶ。彼女はきょとんとして首を傾げた。


「二十六歳、もうなった?」

「ううん、まだ。十一月生まれ。小林くんと一日違いだよ」

「なんで知ってるの?」

「入学してすぐの総合学習で、自己紹介がてら自分年表を発表する授業があった」

「おぼえてないな」

「そりゃあそうでしょう」

「十年前の今日は、俺たちはまだ何の会話もしていなかった」

「そうだね。まだだね」

「でも十年経って、大人になった。昔の話もして、僅かしかない思い出も共有したから」

「うん?」

「今度は、今現在の話をしませんか?」


 言った。情けないくらい鼓動を速めながら、ついに言った。あの頃いくら集めても足りないくらい枯渇していた勇気は、この十年で、いつの間にか溜まっていたらしい。


 彼女はすぐにその意味を理解したようで、右手に持ったスマートフォンをぎゅうっと握り締め、ゆっくりと頷いた。そして真っ直ぐに僕を見つめて「今度、ごはん食べに行こうか」と言ってくれたのだった。



 馬と言われて十年、鹿と言って八年。長い年月を経て、僕たちはようやく、連絡先を交換した。改めて握った彼女の手もびっしょりと濡れていて、勿論僕の手もびしょ濡れで、顔を見合わせて笑った。





(鹿編・了)

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