馬編1
ぜえはあと息を切らしながら、母校へ続く、ゆるやかだけれど長い坂を上りながら、あの日のことを思い出した。情けない恋が終わった日のことだ。
十年前、身体の芯まで凍りつくような冬のある日。わたしは放課後の教室で、4Bの鉛筆を握って立ち尽くしていた。まさか告白もしないまま恋が終わってしまうなんて思わなかったから、この感情をどうすればいいのか分からなかった。
わたしを選ばないなんて馬鹿だ。と言っても、彼とはそんなに接点があったわけではない。同じクラスで、総合学習の時間や掃除のときにしか活動しない班が一緒だった。五回ほど趣味の読書について話す機会があった。たったそれだけ。
告白したらオーケーしてもらえただろうなんて思わない。だからゆっくり時間をかけて親しくなろうと思っていた、のに。その結果がこれだ。
彼に、恋人ができた。可愛くて明るくて、わたしなんかじゃ到底敵わないような子、というのは、表の姿だ。実際の姿はそうではないことを、知っている。裏では彼についての侮辱の言葉を並べていることを、知っている。よりによって彼女を選ぶなんて。本当に馬鹿だ。
それでも十六歳のわたしには、どうすることもできなかった。十六歳のわたしにできたことは、4Bの鉛筆を握ることしかできなかった。
彼の机を指で撫でたあと、行き場のないその気持ちをぶつけるよう、持っていた鉛筆でそこにでかでかと文字を書いた。馬、と。消すのはさぞかし大変だっただろう。
あれから十年。時の流れはわたしの中からその記憶をどこかへ運んで行ってくれたけれど、今こうして思い出すということは、心の奥底ではまだ彼を想っているのかもしれない。
八年ぶりにこの坂を上るのにはちゃんと理由がある。母校の野球部が夏の高校野球全国大会へ初出場を決め、今日は初陣。卒業生や現地に応援に行けなかった在校生が集まり、パブリックビューイングが行われるのだ。
世の中はお盆休みだけど、雑貨屋で働くわたしにそんなものはないし、後輩たちには悪いけれど行くつもりはなかった。十歳近く年下の彼らの活躍は夜のニュース番組で見て、高校時代の友人たちとメッセージのやり取りをするくらいで済まそうと。
だけど、こんなことでもないとなかなか集まれないし、お祭りみたいなものだし、と友人たちが代わる代わる連絡を寄越して、結局行くことに決めた。雨で試合が順延になったというのも大きい。ちょうど休みと重なったのだ。
ただし昨日は六連勤の最終日で、しかもどうしても検品を終わらせたくて遅くまで残業をしていたから、疲れ果ててアラームにも気付かず寝こけていたのだけれど。試合開始予定時刻は十三時だから、すでに一時間の遅刻だ。
ゆっくりと景色が流れ視界に入ってきたのは、学校の敷地を囲む急斜面の芝生。その上に見えるフェンスには「祝・甲子園出場」の横断幕。懐かしさと真新しさが同時にやってきて、不思議な気分になった。
ようやく校門まで辿り着いて、学校名が刻まれた銘板をぼんやりと見つめる。懐かしい。芝生も校門も、見上げた校舎も体育館も、あの頃と何も変わっていない。変わっていないとしても、確かに八年という月日は流れ、もう戻れはしない。そう思ったら急に寂しくなった。
なんだかんだ言って、学生時代が一番楽しかったな、と。少し感傷的になっていたら、背後からざっざっと足音が聞こえた。無意識に顔を向けると、そこにいたのは思いもしなかった人物だった。
息が、止まるかと思った。
横断歩道を渡って来た男性が、見知った人だったからだ。見知った、と言っても、わたしが知る容姿とは少し違っている。表情が昔よりずっと大人っぽくなった。
「こ、ばやしくん……」
名前を呼ぶと男性は顔を上げ、わたしを見、そして首を傾げる。
「……どちらさまですか?」
まあそうだろうなと予想はついていた。彼の記憶に残るほどの接点はなかったから、忘れられてもなんら不思議ではない。でも実際はっきり言われるとショックだったりする。
坂を上ってきた疲労も相まって言葉が見つからない。頬を伝う汗もそのままに硬直していると、小林くんはその切れ長の目を細めてふっと笑った。
「うそうそ。おぼえてるよ、笹井さん」
そう言われても、やはり言葉が見つからなかった。嬉しい。おぼえていてくれた。数えるほどしか会話をしたことがないわたしを、ちゃんと。
小林くんはわたしの隣に立って、腕時計に目をやる。背が高い。百八十センチ近くあるだろうか。あの頃からこんなに背が高かっただろうか、と思い出そうとしたけれど、わたしは彼の隣に並んで立ったことなどないことを思い出した。
「試合?」
「うん、そう、甲子園」
「もうとっくに始まってるよ」
「小林くんこそ」
「寝坊して」
「わたしもだよ」
「笹井さんが遅刻するイメージないけど」
「ゆうべ遅くて」
「デート?」
「まさか。仕事」
まさか。学生時代大した会話もしたことがない小林くんと、こんなに自然に会話ができるなんて。それが何より驚いた。それだけ大人になったということだろうか。
「汗すごいよ、大丈夫?」
「ん、駅から歩いて来たから」
「電車で来たの?」
「車。駅の裏の駐車場に停めろって連絡があって」
「そうなの? すぐそこの市民体育館に臨時駐車場って貼り紙があったから、そこに停めちゃったけど」
「え、そうなの?」
なんてことだ。じゃあ炎天下、ぜえはあ言いながら坂を上った時間は無駄だったということか。大きなため息をつくと、彼は肩を揺らしてくつくつ笑い、手の甲でわたしの額の汗を拭ってくれた。その流れるような行為に驚いて顔を上げる。こんなこと、余程親しい関係でなければできないだろうに。彼は何事もなかったかのような表情で「行こうか」と促した。
なんてことだ。八年ぶりに再会した同級生が、随分と経験豊富な大人になってしまったようだ。