ふね
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
透明な水流に吸い込まれては離れていく櫂の音に合わせ、額田王の和歌を年長さんは唄う。年長さんの声は湖を滑るように響いていく。白い衣に赤いちりめんの袴という格好は、皆変わらないけれども、一つ結びをしてまっすぐに背筋を伸ばす年長さんに、桃子は見惚れていた。
「桃子、サボっちゃいけませんよ」
隣にいた子が肩でつついて注意する。
「あ、ごめんなさい」
桃子は我に返って、櫂を急いで動かす。空回りした櫂は前の櫂にカツンとあたり、手に衝撃がほと走る。
「ああ……」
ごめんなさい、と何度も繰り返す。足を引っ張っているのはいつも私だ。足を引っ張るのではなくて、年長さんみたいに前を引っ張る側になれたらなあ。早く大人になりたいと、桃子は心の底から思った。
皆、一旦動きを止めると、水紋が穏やかに尾を引いていく。黒髪を二つ結びにした女の子たちが、小さな舟にぎゅうぎゅう詰めになって座っている。左右2列で六人乗りの舟が三艘連なって、清らかな水面を進んでいく。
——エッサ。
かけ声と共に、櫂が一斉に弧を描く。
「エッサ」
桃子も言った。せめて声だけでも付け加えることができたら、と思った。
さざ波が引いては返す岸辺に、小舟が乗り上げる。桃子たちは降りて、小舟を乾いた砂利へと曳いていった。それから、舟底に積んであった重たい壺と、空っぽの袋を持って、二人一組になった。
桃子は年長さんと一緒になった。わあい、と草に踏み入れると、二つ結びの髪が揺れた。バッタが飛んでいった。野草が足首をくすぐった。桃子が持ったのは空の袋だったから、身も蝶のように軽かった。微笑む年長さんが、ゆっくりとしか歩かないのにじれったくなって、
「お唄を聞かせて」
とねだった。年長さんは桃子の求めるままに唄ってくれた。桃子はその響きを胸に吸い込むように、いつまでも聞き入った。遠くで牛が鳴いている。お日様が輝き、草木は煌めき、どこまでも、のどかだった。
小道に沿って歩いていくと、ぽつぽつと家があった。桃子達は一軒一軒、取りこぼしのないように回っていった。黒ずんで苔むした家屋にも、人は住んでいた。
「おじさん、今日もいりませんか」
桃子が元気よく声をかけると、
「じゃあ頂こうかな」
ぼそぼそと返事が聞こえた。おじさんは奥へ入って行き、酒瓶を手に戻ってきた。年長さんが細い手で差し出された瓶を受け取ると、壺の蓋を取り、柄杓で移していく。光沢のある滑らかな液体は、果汁酒の一種だった。
その間に、おじさんは瓜を四つ、桃子にくれた。桃子は大事に、袋にしまい込んだ。ひえや粟一升分の時もある。運の良い時には、果物をもらえる。袋が少しずつ重たくなっていくと、桃子のお腹も、想像のご馳走で一杯になった。
「おじさん、またくるね」
桃子は笑顔を咲かせて、はしゃぎ声を立てた。でも、返事は来なかった。聞こえていないのかなと思って、
「またくるね?」
桃子はもう一度言った。おじさんは、まじまじと桃子を見ていた。不思議がる桃子の視線と交わると、弾かれたように、
「あ……ああ、おいで」
と答えた。瓶を持つ手が硬かった。
道端の石ころを蹴る。転がる小石を追いかけながら、桃子はおじさんのことを思った。
「どうしたんだろうね」
桃子は後ろを振り返る。家屋はつまめそうなくらい小さくなっていた。親指と人差し指で輪っかを作ると、その中におさまった。蝉みたいに、小さな家。
年長さんは答えない。桃子はそっと、顔を覗き込ませる。年長さんの後ろには太陽が輝いて、柔らかい姿を照らし出す。キラキラと光る草木、川、雲——。桃子は眩しくて目を細める。髪の間や衣の裾からほんのりと光の漏れる姿は、とても神秘的に感じられた。
「合掌するのよ」
突然、年長さんは叱りつけるみたいに言った。桃子は首を傾げた。
「なんで?」
「仏様の目をしていたでしょ」
そう言った年長さんは、泣き出しそうな顔をしていた。桃子はよくわからなかったけれど、イヤダと言えば、年長さんの大切なものが崩れてしまうように感じられた。
桃子は手を合わせる。黙祷がとても長くて、ちらりと年長さんを見る。年長さんは目を瞑っていた。桃子は青い空を見た。空はテッペンが一番蒼くて、端っこに行くほど白くなっている。紫の蝶がひらひらと舞うのを見つけて、目で追った。それからもう一度年長さんを見ると、今度は、目が合った。
「……行きましょうか」
年長さんは告げた。二人はまた歩き出した。
何軒か訪ねると、小川につき当たった。せせらぎは模様を重ねて流れていく。川底に小さな魚が泳いでいた。魚は川の流れに逆らって、泳ごうとしていた。
桃子は袴の裾を持ち上げて、慎重に足を入れる。ゴツゴツとした小石の感覚、足首をくすぐる冷たい感触。渡り終えると柔らかい草を踏んで、水気を取った。
振り向くと、年長さんは立ち止まったままだった。
「どうしたの?」
桃子は訊く。
「まだ行くところ、あるでしょ?」
「……」
「行かないの?」
「いいわ」
「晩御飯減っちゃうよ」
「構わないわ」
年長さんは繊細な表情をしていた。桃子を見る黒い瞳が、おじさんの時と同じものを写していた。不意に口元が緩んだ。
「長く生きすぎてしまったのよ」
「……?」
年長さんは、さらに何かを言おうとしたけれども、喉の奥へ飲み込んだようだった。
「帰りましょ」
と言ったきり、年長さんは黙った。桃子は、本当は帰りたくなかった。けれども寂しそうな年長さんを一人にしておけない、とも思った。寂しさがどんなものなのか、桃子は知っている。いくら泣いても、欲しいと思っても、もう戻ってこない。今という環境にすがることしか、生きるということを知らなかった。儚い命の火を、今日という日を燃やし続けるだけで精一杯だった。
太陽が白かった。
小舟に戻ると、またぎゅうぎゅう詰めに座って櫂を漕ぐ。
——エッサ。
掛け声が水面に溶けていく。
「エッサ」
桃子のお腹がキュルルと鳴った。お腹すいちゃった、でも今日はご馳走だと思うと、残り半分の音も鳴った。
祈りおく 心の……
年長さんが唄う。桃子が聞いたことのない和歌だった。
年長さんは続きを言いかけて、口をつぐんだ。代わりに別の歌を詠んだ。
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして
ほのかに霧がかかってくる。三日月は山影に沈んでいく。
小さな舟は、華やかな灯りの向こうへと溶けていく。
白い夜が、降りてくる。
小説作成の経緯。
ある日の夢で見た世界を、どうにか言葉にできないかと思って、小説にしてみました。彼女たちは一体何者なんでしょう……。
夢の中で私は、「この子達に親はいないのかな?」と不思議に思いました。また、ふと「かむろ」という単語が頭に出てきました。起きてから調べると、禿は江戸時代に、主に東北地方で身売りされた子供達らしいです(衝撃)。
ということは、彼女たちは遊廓にでも帰るのかな、経営が苦しくて、昼間は子供達にお酒でも売らせているのかな。遊廓だから、あんなに服が綺麗なのかな、といろいろ考えてしまう私でした。そしてそれを物語の中に入れると、美しさが損なわれてしまうような気がしたので、仄めかす程度にしました。