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doll ~プラモデルの少年と少女の欠片~

作者: 島津 光樹
掲載日:2022/09/16

     プロローグ


何だか。

生きていくのが辛くって…。


僕がそう言ったら、君はそっと微笑んで、近くの小高い丘にある古いお屋敷を指さして言ったよね。


「あそこの赤い実の木の下にね、死体が埋まっているから。寂しくなったら会いに来て。」


それは誰の?いつの?

君の瞳は元からそんな色だった?

君の服装、初めて会った時からそれだった?


気になり始めたら、全てが気になって、気になって…。


僕は君の名前を知らない。

僕は君の帰る家を知らない。

君は一体どこから来て、どこへ帰るの?

思えば、僕は君のこと、何一つ知らなかったよ。


奇妙な三日間に出会った君。

ねぇ、君のこと、もっと教えて…?


     Ⅰ


 それは風が通り過ぎていく草原の湖の畔。

避暑地の外れにある小さな水溜まりみたいなこの湖に、人は殆ど来ない。

だって、来るまでが大変なんだ。鬱蒼とする茂みを抜けないと来られないから、身綺麗な格好の避暑に来た人達には無縁の場所さ。僕のお気に入りの場所なんだ。今日も緑のリュックから、作りかけのプラモデルを取り出す。もう少しで完成しそう。風があんまり強いと困っちゃうけど、今日はそんなに強くないから、いい日だね。鼻歌交じりに箱を開けたら、君の声がしたんだ。

「ねぇ、何してるの?」

視界の端に、白いワンピースのレースが映ってはっとする。そんな綺麗な格好でここに来られる君は誰?驚く僕に構わず、君は僕の隣に腰を下ろす。

「いい場所よね、ここ。私も大好き。」

にっこり笑う君の瞳は綺麗なブルー。ビー玉みたいに透き通っていて、人形みたいだ。年の頃は十四、五か?僕とそんなに離れてなさそうだけど、きっと年下の女の子。

「で、何してるの?」

「え…あ…。プラモデル、作ろうと思って…。」

「へぇ、プラモデルって言うの?見ててもいい?」

こんな綺麗な子に見られるなんて、緊張しちゃうけど…。

「いいよ。今日はね、この胴体に腕と頭を付けるんだ。それで、別のパーツの翼をつけたら完成。そしたら、色を塗るんだ。最初からの色でもいいんだけどさ、リペイントして自分の色にするのが好きなんだ。世界に一つ、って感じがするから。」

 好きな物について語る時特有の早口になっちゃった。ヤバい、ヤバい…。ひかれちゃったかな?内心焦って、彼女を見たら、ふふっと可愛く微笑んでた。良かった、オタクキモっ、って思われてなくて…。

 見られてる、と思うといつもは簡単にくっつけられるパーツを持つ手が、緊張で震えて上手く出来ない。落ち着け、ここはあの家とは違うんだ。僕がプラモデルを作っていても邪魔しに来る奴はいないんだ、大丈夫。僕はゆっくり深呼吸する。吸い込んだ緑の風が僕の体をゆっくり駆け巡る。呼吸が少し、楽になる。それと同時に肩の力が抜ける。大丈夫、いつも通り。僕は僕のペースでやっていけば、それでいいんだ。

しばらくして、プラモデルが完成した。誰もが知ってるロボットアニメの一体だ。翼のある姿が格好良い。

「ほら、完成。」

僕がそう言って見せたら、彼女はパチパチと拍手してくれた。

「すごいのね。バラバラの部品の時はどうなるかと思っていたけれど、組み合わさるとそうなるのね。」

にっこりする彼女が可愛くて、もっと話したくなった僕は慌ててリュックを探る。

「そ、そうだ。グミ食べない?叔父さんがね、お中元にもらったいいやつをくれたんだ。色んな味があるから、好きなの選んでいいよ。」

そう言って、色とりどりのグミの入った缶を取り出す。彼女はじっと見つめた後に「これがグミって言うの?」と言って、赤いのを一つとった。

「こっちのブドウも美味しいよ。」

そう言う僕に

「私の知ってるグミは赤いから、これでいいの。」

そう言って、小さな唇を開けてぱくりと口に含んだ。

「…甘い…。」

小さく呟く姿がリスみたいで可愛かった。

「す、好きなだけ、食べていいよ!僕、まだ家にあるから!」

「ありがとう。でも、大丈夫。私、そんなに食べられないから、一つで充分よ。それより、貴方の事を教えて。」

そう言って、にこりと微笑んだ。陶器のようなその素肌。


          ********************


 「貴方の事を教えて」って、先月同じ事をカウンセラーに聞かれた。その時は、ものすごく嫌な気分だった。何も喋らず、だんまりを決め込んだ僕を見て、諦めた両親は僕を叔父さんに託したんだ。僕の為、って言うより自分達の世間体の為だ。教師の父は今度、母の地元に転居して議員に立候補する。バリキャリの母と医大に行った優秀な兄はいいとして、引き篭もってプラモデルばかり作っている僕はあの家族に相応しくないからエラーパーツとして弾かれた。父と一回り歳の離れた叔父さんも僕の両親からしたら、エラーパーツ。自由業、って言えば聞こえはいいけど、今にも傾きそうな古い家に住んでる植物好きの変わり者だ。季節の草木の写真を撮っているみたいだけれど、稼ぎは悪いらしい。どの分野にも第一人者、という人がいるそうで、それになれなかった者は日々の凌ぎが精いっぱいだと苦笑する。でも、好きだからいいんだよ。何とか食えてるうちは、俺はこの商売を続けるんだ、と食べられる野草を摘みながら叔父さんは僕に言う。そんな叔父さんといると、僕も少し楽になる。駄目な弟という同志だからか、叔父さんは僕を否定しない。色んな生き方があるんだよ、って教えてくれる。僕の両親は…、いい学校に行っていい職業に就かない限り、僕を「人」として扱わない。


「お前の為を思って…」そう言われて、先月、僕が試験の為に学校に行っている間、自室に飾っていたプラモデル関係を全部処分された。信じられない…!その中の一体は、雑誌に写真を投稿した際、僕が敬愛するモデラー、紅蓮の魔術師の異名を持つロンさんに「リペイントの群青の色合いがとてもいいね!」って褒められた最高傑作だったのに!

僕は暴れた。怒りが後から後から込み上げて来て、自室の壁に穴を開け、窓ガラスを叩き割り、家中の食器も割ってやった。母が大事に飾ってるコペンハーゲンのイヤープレートをはじめ、父が大事にしてたバカラのグラスも割ってやった。阿鼻叫喚だった。ざまぁみろ。少しは僕の気持ちが分かったか!

両親は、僕の気がふれた、と病院に連れて行った。そこのカウンセラーに言われたのが、「貴方の事を教えて」だった。分厚いレンズのはまった眼鏡の向こうにあるしょぼくれた目は、僕が何を言っても、きっとお決まりの科白しか吐きはしないんだろう。だって、彼は僕を「人」として見ていない。優秀な両親に連れて来られた「気がふれた可哀そうな子供」としか見ていないのだから…。だから、僕は答える事を放棄した。黙秘権ってやつ?


入院させるのもアレだ、と僕は父の弟である叔父さんに「療養」という名目で預けられた。面倒事を押し付けられて…。断ればいいのに、人の良い叔父さんは快諾した。

「ちょうど話相手が欲しかったんだ。よろしくな、冬馬。」

くしゃりと笑って、僕と目線を合わせてから、おもむろに僕に右手を差し出す。思えば、昔から叔父さんだけは僕を対等に「人」として扱ってくれていた。礼には礼を。僕もゆっくり右手を差し出して「お世話になります」と頭を下げた。それを見て、両親は安心して帰って行った。多分、ここにはもう来ない。


 そこから、僕達二人の生活が始まった。一応、転校手続きもしたけど夏休み中だったから、僕はプラモデル作りをまた始めた。叔父さんは文句を言わない。好きな事があるなら極めてみせろ、って言う。何でも、日本の植物学の父と言われる牧野富太郎という人は、小学校しか出ていないのにその道の第一人者になったのだそうだ。「すごいね」って言ったら、「うん。でも、本をちゃんと返さなかったり、駄目な所もあったらしいよ」って苦笑してた。多少の欠点も、多大な功績の前では目を瞑ってもらえる事もある。そんな人に僕もなりたい。

 プラモデルを作る僕と、植物の写真を撮る叔父さん。同じ居間で過ごしても、僕たちの間に会話は殆ど無い。聞こえるのは、お互いの作業音だけだけど、それが会話みたいな心地良さ。家族と住んでいた小綺麗な一戸建てよりも、叔父さんが祖父から相続したというこの朽ちそうな平屋が、僕達には良く似合ってた。


          ******************


「僕のこと?きっと聞いてもつまんないよ。」

「私、もうずっと人と話してこなかったから、会話って物に飢えているの。何でもいいから、お話して。」

 真っ直ぐに綺麗な青い瞳でお願いされて断れる男なんて、きっといないね。だから、僕は僕の事を喋り出す。先月、叔父さんの家に引っ越してきたこと。僕の好きなこと。天気が良い時はここで過ごしていること。あ、あと大事なこと、僕の名前。

「僕、冬馬っていうんだ。」

そう言ったら、彼女がにっこりした。

「トウマ?うちの父様と同じ名前ね。親しみを感じるわ。」

同じ名前というだけで、そんな微笑みを見られるのなら、僕の名前が冬馬で良かった。

「君は?」

って聞こうとしたら、彼女が勢いよく立ち上がった。

「あ、ごめんなさい…。もう行かないと。」

「あっ、そうか。おうちの人が心配するもんね…。ね、また明日来る?」

「うん。トウマが来るなら…」

 その返事を掻き消すように、一瞬強い風が吹いて、僕は目を瞑る。ゴオッと強い風が通り過ぎた後に目を開けたら、彼女はもういなかった。


 足の速い子だなぁ、って思ってから、僕はプラモデルを手に取り、空に飛ばす妄想に浸る。この機体に僕がリペイントしたいのは、空の色なんだ。朝焼けの赤、夕焼けのオレンジ、闇夜の漆黒、どれも捨てがたかったけど、今回はあの家からの開放感から、抜けるような青空の色にしようと決めてた。青い空を背景に、想像を膨らませる。どの塗料を混ぜよう。雲の白も入れようかな?そうして、今日みたいな晴れた空をバックに、ステルスみたいな写真を撮ってもいいかもしれない…。そう考えるのは楽しくて、あっと言う間に時間が過ぎてた。


          ******************


「冬馬、何かいいことあった?」

叔父さんが言う。帰宅した僕が上機嫌だったから、すぐ分かっちゃったのかな?

「うん。今日、年下の可愛い子と会ったんだ。避暑に来た子かな?その子とお喋りしてさ、機体の色も決めてきた。」

「へぇ~。ここら辺で、可愛い子?」

叔父さんは不思議そうな顔をした。ここは避暑地から離れてるから、来る人は殆どいない。その分、自然が残っているから野草が豊富という叔父さんにとっては、余所者は厄介者なんだろう。

「ハーフなのかな?綺麗な青い目をしてたよ。」

そう告げると「へぇ…、俺も会ってみたいなぁ」って言った。明日も会う約束(?)をしたけれど、それは内緒にしておこう。二人で、素麺の簡単な夕食を済ませてから、僕は塗装、叔父さんは写真の整理を始めた。この、食後の穏やかな趣味の時間が僕は好きだ。好きな事をやってる時間はあっと言う間に過ぎてゆく。気付けば十時を回っていた。

「おやすみ、叔父さん。」

 僕は塗り終えたそれを食器乾燥機に入れてから、風呂へと向かう。これで、綺麗に乾く筈。これだけは、こっちに来た時に、叔父さんに買ってもらった。プラモデルは、こつこつ貯めてたお年玉をはたいて買ってきた。それでも、捨てられた数には到底及ばない。僕が精魂込めて作ったプラモデルは、もうゴミとしてスクラップされてしまったのだろうか?悲しい。せめて整った形のまま、燃やされてたらいいけど、敵機にやられたみたいにペシャンコにされて、ゴミ収集車の中に入っていったんだろうな、と思うと暗い気持ちになる。アニメの機体は無敵なのに、プラモデルの機体はゴミ収集車にやられちゃうんだ。その現実が、僕みたいでうんざりする。

両親の期待に応えられなかった僕。エラーパーツの不良品。僕は、いらない子なんだよなぁ…。溜め息が出る。湯船に顔をつけて、ぶくぶく泡を出した。どうせ、いらない子になるんだったら、生まれなきゃ良かった…。違うか、僕を産まないでくれたら良かったのに…。兄までの三人家族だったなら、絵に描いたような理想の家族だっただろうに…。

けれど。生まれてしまった以上は、生まれた場所でやっていくしかない。最初は、頑張ってたと思うよ、僕。小学校の頃はさ、足が速いだけでモテるじゃん。手先も器用だったしさ、図工の時間は良く褒められた。勉強もそこそこ、だったんだけど、あれだ。分数の割り算でつまずいたんだ。先生が当たり前のように、「分母と分子をひっくり返して計算するよ」って教えてくれて、授業は続いていった。

えっ!ちょっと待ってよ、って思った。なんでいきなりひっくり返るの?割り算って、「九個のみかんを三人で分けたら、一人いくつでしょう?」ってやつでしょ。なんで、掛け算出てくんの?そこが納得できなくて、算数が苦手になった。不確定のxとyに戸惑っていたら、中学になったら、他のaとかも出てきて、詰んだ…。意味不明。日本人で、日本語だって覚束ないのに、英語もあるしさぁ…。それでも、なんとか高校に滑り込んだけど、今度は物理とかがやってきて、僕の頭はもう、パンクしたんだ。無理!意味分かんない!

そんで、引き篭もっちゃった。手先だけは器用だったから、友達はどんどん卒業していったプラモデル作りにのめり込んだ。子供っぽい趣味かもしれないけど、グレードによって違うんだぜ。元は同じ機体でも塗装する事によって、雰囲気は一気に変わる。いい物は、本当に格好良いんだから!プロのモデラーの作品なんか、もう神がかってるんだから!いわば、一種の芸術だよね!でもさ、頭の固い、僕の両親みたいな人達にはその良さが分からないんだよ…。だから、僕の作品も捨てられちゃった。父は教師をやってるくせして、自分の子供の事をちっとも分かっちゃいないんだ。貴方は、プラモデルと一緒に息子の大事な物を捨ててしまったんですよ。それはね多分、希望ってやつ。おかげで、僕は今こんなん。今が夏休みで良かったよ。このまま、ずっと人生が夏休みだったら、いいのになぁ…。


     Ⅱ


 次の日、僕はリペイントした機体と、グミの入った缶と、叔父さんに借りたデジカメを持って昨日の場所に行った。ちょっと盛り上がった草地に機体を置いて、地面に寝転がって、見上げるように空をバックに機体を撮る。うん、なかなかいい感じ。次はもっと近づいて舐めるように撮った。よし!って思ってたら、風が吹いて、画面が白で覆われた。

「きゃっ!」

 声で気付く。あの子だ。風が膨らませるワンピースの裾が僕のデジカメに映ってるんだ。そこで、慌てて起き上がる。この体勢は、パンチラを撮ってるみたいじゃないか!慌てて、直近の一枚を消去する。この可愛い子に変態と思われるのは避けたい。

「や。今日も風、強いね。」

 そう声をかけると「ほんとね」って笑った。やっぱり、可愛い。ちょっとくすんだブロンドの髪が風で乱れたけど、それすらセットされたもののように感じる。

 僕は今日も彼女にグミを勧める。彼女はまた赤いグミを一つ取って、口にする。「私の知ってるグミと味が違う」って言うから、「これ、お中元用のいいやつだからさ、高級な味なんだよ、きっと」って、僕が適当な事を言ったら「そうかも」って笑った。可愛いなぁ。


 それから、僕はリペイントした機体を見せる。「青空を切り取ったみたいに綺麗な色ね」って言われて嬉しくなった僕は、混ぜた塗料や塗り方について、説明する。油断すると、ついつい早口になってしまうから、気を付けた。僕はキモオタモデラーかもしれないけど、この子にキモイと思われたくない。でも、僕の心配をよそに、彼女は「そうなの?すごい!」って無邪気に笑って僕を褒めてくれた。なんて、いい子なんだ!

 たくさん話して今度こそ、彼女について聞こうとしたら、彼女が立ち上がった。

「ごめんなさい。もっと聞いていたいのだけど、もう行かないと…」

 そうして、くるりと背を向けた時、また強い風が吹いて…。目を開けたら、彼女はもういなかった。


          ******************


「僕が仲良くなったのは、もしかしたら狐か狸なのかもしれない。」

 僕が夕飯時に、そう告げると叔父さんはびっくりした。

「なんだい、唐突に?」

 そこで僕は、昨日と今日出会った少女が風が吹いた一瞬に姿を消した事を叔父さんに話す。

「ほんとにさ、一瞬なんだよ。いくら足が速いったって、そんな事ある?」

「うぅ~ん…。俺はその子に会ってないから、なんともなぁ…。でも、今時、狐や狸に化かされる、ってあるのかなぁ?」

叔父さんは首をひねる。頭ごなしに「そんな事ある訳ないだろう!非科学的な!」とピシャリと一喝してくる父とは大違いだ。同じ兄弟で、どうしてこうも違うのか…。

「どんな子なんだい?」

「多分、十四、五。僕より少し年下の子。くすんだブロンドの髪の毛に青い目がとても綺麗なんだよ。白いレースのワンピースを着ていてね、僕の話を楽しそうに聞いてくれるんだ。赤いグミが好きみたいで二日続けて食べて、自分の知ってるグミと味が違う、って言ってた。」

「へぇ…。やっぱり、あれかな?出版社がくれたいいグミだから、高級な味なのかな?」

叔父さんも僕と同じことを言った。こんな時、似た者同士だと笑いそうになる。

「あ!あと、僕が冬馬って言ったら、父さんの名前と同じだから親しみを感じる、って言ってたよ。」

「トウマ…?」

 叔父さんは、そう言うと何やら考えこんだけど、「う~ん、分からん」と考えるのを放棄した。分からないことは、頭が痛くなる前に放棄するところも僕と同じだ。

「まぁ。いっか。」

 僕は、残りの麦茶を飲みほした。また明日会えたら、聞いてみればいい。


     Ⅲ


 男なんて、馬鹿だからさ。

いざ、彼女を前にして、「今日も何かお話して」なんて言われたら、彼女について詮索する質問をするより、どうでもいいことを喋っちゃうんだよなぁ…。そうしてまた、彼女が聞き上手なんだよなぁ!気付けば、僕は、僕の家族について延々と愚痴ってた。

「僕は、こんなんだから…。何だか、生きていくのが辛くって…」

僕がそう言ったら、彼女はそっと微笑んで、小高い丘にある古いお屋敷を指さした。

「あそこの赤い実の木の下にね、死体が埋まっているから。寂しくなったら会いに来て。」

え?何それ?ドラマの話?

僕はびっくりして彼女を見る。彼女は少し先に見えるお屋敷をなんだか寂しそうに見ていた。それから、うっすらオレンジ色に染まっていく空をバックに僕の方を振り返った。

彼女の瞳がくすんで見えた。綺麗な青いガラス玉に煤がついたみたいに汚れて見えた。夕映えのせいか、白いワンピースもどこか汚く古びて見えた。色褪せたセピア色みたいに、錆びついた感じ。湿った匂いがした。

僕は慌てて、目を擦る。強い風が吹いた。

君の瞳は元からそんな色だった?君の服装、初めて会った時からそれだった?

気になり始めたら、全てが気になって、気になって…。

けれど、目を開けたら、彼女はもういなかった。追いかけようにも、僕は彼女の名前を知らない。僕は彼女の家も知らない。

君は一体どこから来たの?この夕暮れの中、どこへ帰ったの?

 僕はあの子について何一つ知りやしないんだ…。悲しい気持ちで帰宅した。


 その夜は、なんだか寝付けなかった。暑さで寝苦しかったせいもある。この古い家にエアコンなんて文明の利器は無い。時代は平成だっていうのに戸を開けて、今時、郷土資料館でしか見た事なかった蚊帳を吊るして寝るのが叔父さんだ。虫の声に、蚊取り線香の匂いが混じる。蛙の声も遠く聞こえる。外は暗い。周りに街灯なんて無いから、真っ暗だ。僕は隣で寝こける叔父さんを起こさないように、そっと布団を抜け出して、蚊帳から出る。裏口からサンダルを履いて外に出る。生温い夜風に誘われて、夜空を見上げる。街灯りに邪魔されないせいで、ここには満天の星。天の川が良く見える。綺麗だ。星を見ながら考える。

古いお屋敷の木の下に埋まっているという死体の話は本当だろうか?でも、冗談にしては目が笑っていなかった。

気になるけど、敷地内に勝手に入るのは不法侵入だよな?なんだか、悶々とする。こっちに来てからは、あの家からの解放感と夏休みという気楽さから、毎日ストレスなく楽しく叔父さんと過ごしていたのに、ここにきて爆弾を投げ込まれた気分だ。

明日、彼女に会ったら聞いてみよう。「あれ、冗談だったのに本気にしたの?」って笑われるかもしれないけど、それならそれでいい。


     Ⅳ


 翌日、彼女は姿を見せなかった。

 翌々日からは、台風が近づいているとかで雨風がひどく、外出どころじゃなかった。叔父さんの古い家が壊れるんじゃないか、と心配したけど、大丈夫だった。思ったより頑丈だった。

 二日に渡って居座った台風が過ぎた後のカラッと晴れわたる空の下、僕はぬかるんだ道を歩いて湖まで行ってみた。湖はとても濁った色をしていた。台風によって飛ばされた枝や葉っぱが浮いていて、ひどく汚い場所に思えた。こんな汚い場所に可愛いあの娘はきっと来ないだろう。僕は家に帰った。

 家に帰って、新しいプラモデルを作った。完成したらまた彼女に見せてあげようと思って、いつもより丁寧に時間をかけて組んだ。叔父さんは、物置から何やら古い埃をかぶった新聞を掘り出して読んでた。台風で家から出られなかった間に物置の整理を思いついたのかもしれない。


 折角、綺麗に完成したのに、彼女は次の日も、そのまた次の日も来なかった。

避暑に来ていたのなら、台風の時にもう自分の家に帰ってしまったのかもしれない。その事に気付いて、がっかりした。

「どうした、冬馬?元気が無いね。」

 そう言う叔父さんに僕は言った。

「もう、あの子は自分の家に帰ったのかもしれない。せめて、名前を聞いておけば良かった。父さんの名前が冬馬ってだけじゃ、どこの誰か分かんないし…。もう会えないのかと思うとがっかりするよ…」

 小さく溜め息をついて言うと、叔父さんが言った。

「それ、名前じゃなくて、名字なんじゃないかな?」

「え?」

「俺も詳しくはないけど、昔、ここらに藤間さんて人が住んでたみたいだよ。」

 名字…。考えた事なかった。ずっと下の名前だと思い込んでた。

「じゃ、藤間なんとかさんって感じでハーフの子、って言えば誰か知ってるかもしれないね。明日、街の方に出て、もう帰っちゃったのか売店の人にでも聞いてみるよ。あれだけ綺麗な子なら、きっとみんな覚えてるだろうし!」

 勢いよく言った僕を見て、叔父さんは頭を振った。

「昨日、街に買い出しに行った時に、俺がもう聞いてみた。みんな、そんな子はこのひと月見てやしない、って言ってたよ。冬馬、お前が夢を見ていた可能性は?」

「え?」

 そんな…。いくら何でも、あんなにはっきりとした白昼夢を続けて見るか?

「そ、そうだ!最後に会った日に言ってた。あの小高い丘にあるお屋敷にある赤い実の木の下に死体があるから、寂しかったら会いに来て、って。」

「小高い丘の…お屋敷…?」

 叔父さんの顔が僅かに青ざめた。立ち上がって、紙の束を持ってくる。野草のフィールドワークに使っているここら辺の詳細な住宅地図を拡大コピーした物だ。季節によってどこに何の花が咲いているか、びっちり書き込みがしてある。長年使っているから、端がめくれ、黄ばんでいる。その黄ばみが最後に見たあの子のワンピースを連想させた。そういえばあの子、夏だっていうのに、長袖のワンピースを着ていたな。日焼け対策とはいえ、暑くないんだろうか?

 ぼんやり考えていたら、叔父さんの声が耳に飛び込んできた。

「やっぱり、藤間だ!」

 叔父さんが指さす先に「藤間」という名字が記されていた。それがお屋敷の持ち主の名前らしい。

「じゃ、そこにあの子が住んでるの?」

 叔父さんは首を振った。

「あそこはもう長い事、人は住んでいないんだ。昔、あそこで何か事件があったみたいでね。うぅん、気になるな…」

 そう言うと、叔父さんは黒電話に向かって、ジーコロジーコロ、ダイヤルを回しだした。すごい。現役だったんだ、あれ…。あれも郷土資料館でしか見た事なかった。


「あ、もしもし?うん、元気。いきなりで悪いんだけど、お願いがあるんだ。うん、そう。ちょっと面倒かもしれないんだけど、うまくまとめたら原稿になるかもしれないから…。うん、そう。前に君も見た事があるお屋敷の件なんだけどさ、あそこの今の所有者って分かる?うん。出来たら、庭に入って掘ったりする許可をもらって欲しいんだけど、頼めるかな?うん、うん…。じゃ、よろしく。」


 ガチャリ、と電話を終えて、僕に振り向く。

「大学時代の友人で顔が効く奴がいるから、ちょっと出来るかどうか分からないけど、あのお屋敷に入ってもいいか、聞いてもらってる。二三日中には連絡があると思うから、それまで一人でお屋敷に行くのは辞めて欲しいんだ、冬馬。分かる?」

死体が埋まっているかもしれない場所に一人で行くのは流石に怖かったので、僕は頷いた。それにしても、顔が効く奴って誰なんだろう?叔父さんは世捨て人みたいな生活をしてるから友人なんか一人もいないんじゃないか、と勝手に心配してたけど、少なくとも一人はいることが分かった。ゼロの僕からしたらうらやましい限りだ。


     Ⅴ


 三日後。朝からガタガタ音を立てて、4WDがやって来た。縁側で朝顔を見ながら仲良く並んで遅い朝食の玉子サンドを頬張る僕達の前に、バタンとドアを開けて、くせっ毛の焼けた肌をした男が犬みたいに駆け寄って来た。

「ナツ!元気だったか?」

「行時?来る前に電話してくれるんじゃなかったのかい?」

 叔父さんがびっくりしてる。電話してた例の友人がこのユキトキさんなのかな?銀縁眼鏡をかけててひょろっとした叔父さんと、日焼けしたこのアクティブな男が友人だなんて、変な組み合わせだな、って思っていたら、男がこっちを向いた。

「よっ!お前がナツの甥っ子?俺は行時奏人、宜しくな。」

 爽やかに笑って、握手を求めてきた。陽キャだ…。リア充様の流れるような一連の動きを目にして、ユキトキって名字なの?って思った僕は、この耳慣れない名字を聞いた事があるのに気付く。

「あ!あの…行時ってもしかして…?」

「ん?もしや、君もオレの話を読んでくれた事がある人?あ~りがとね!」

 ニカッと笑った。間違いない、この笑顔。少し前にテレビで見た。今度映画になるベストセラーのミステリ小説の作者だ。インタビューを受けた時に、この笑顔をしてた。それを見た母が「ベストセラー作家でイケメンだなんて、ずるいわぁ」って言ってた。僕は天から二物を与えられた男に嫉妬した。

 行時さんは振り返ると、助手席から降りたもののどうしたら良いのか分からずに立ちすくんでいた天然パーマで眼鏡をかけた小太りのおっさんを僕達に紹介した。

「じゃ、改めまして。オレは行時奏人。しがない物書きやってます。こちら藤間尚志さん。例の屋敷の現在の所有者さんだ。」

「どうも、藤間です。」

 おっさんがぺこりと頭を下げる。叔父さんも立ち上がって頭を下げる。

「初めまして、水沢夏生です。今回は変なお願いをしたにも関わらず、ご足労頂き、どうもありがとうございます。」

 叔父さんにそっと背中を押されて、僕も名乗る。

「水沢冬馬です。今日はよろしくお願いします。」

 頭を下げようとしたら、藤間さんが慌てて手を振った。

「いいんですよぉ!なんてったって、行時さんからのお願いですからね!最初、出版社から電話をもらった時には、何かの詐欺かと思いましたが、昨晩、先生が我が家に来て下さいましてね!感動しました!僕、先生のデビュー作『硝子の花』の初版から集めてるんです!ファンなんですって言ったら、蔵書全部にサインしてくれたんですよ!もう家宝ですよ!しかも、先生の今度の作品に僕所有の屋敷が出るかもしれないだなんて!最高じゃないですか~!もう嬉しくってね!今日は外せない会議が入ってたんだけど、親戚が死んだ事にして会社休んじゃいましたよ!」

 早口で一気に言って、あはははと笑う。この人も僕と同じオタクな匂いがする。おっさんだけど、仲良く出来そうだ。でも、勝手に親戚を殺しちゃうのはどうなのかなぁ…。そう思ってちらりとおっさんを見たら、目が合った。僕の心配に気付いたようで、とってつける。

「あ、大丈夫だよ!後で危篤から持ち直した、って言うし!今年の有給はまだ余ってるから、有効に使わないとね!」

 そう言って、冴えないおっさんはウインクした。多分…。だって、本人はウインクのつもりかもしれないけど、おっさんは両眼を一気に瞑ったんだ(笑)。


          ******************


 そんな訳で、僕達四人は4WDに乗って、小高い丘にある古いお屋敷に到着した。藤間のおっさんがショルダーバッグから大きな鍵を取り出して、門扉を開ける。ギィィ、と錆びついた音がした。片方開けるのを手伝った僕の手に赤茶色の錆が貼り付いた。なんとも言えない匂いが手に染み付いた。擦っても、落ちない。

 開いた門扉から4WDを敷地内に入れて駐車した行時さんが、スコップを持って降りて来た。手には軍手。掘り返す気満々だ。

「じゃ。早速、行ってみましょ~かね!」


 草ぼうぼうのアーチを潜って、草木が生い茂る庭へと向かう。一歩踏み出すごとに、草むらに潜んでいた虫達が方々に逃げていく。この庭に住む虫達にとって、僕らは招かれざる訪問者だった。

「あ、あれじゃないかな?」

 叔父さんが指さす先に、赤い木の実を付けて銀色に光る木があった。本当にあったんだ…。

「ナツ、何の木?」

問いかける行時さんに叔父さんが答える。

「トウグミだね。葉の裏が銀箔を貼ったみたいにキラキラ光っているだろう?この木の特徴なんだ。根っこに菌が住んでるから、痩せた土地でも良く育つんだよ。見て、実もつやつやして美味しそうだろう?食べられるんだよ、これ。子供の頃、よく食べたなぁ~。」

 そう言うと、一つもいで、ぱくりと口にした。

「うん!美味い!冬馬も食べてみる?」

 そう言われて、僕も恐る恐る口にする。渋くはなかった。甘くて美味しかった。それで気付いた。『私の知ってるグミと味が違う』って、あの子はこのグミの実の事を言っていたんじゃなかろうか?胸が…ドキドキした。

 行時さんと藤間のおっさんもつられて食べてた。

「なかなかいけますな。」

 ぽいぽい口に投げ込んで食べる藤間のおっさんに、スコップを手にした行時さんが言った。

「じゃ~、早速、掘っちゃっていいっスかね?」

「どうぞ、どうぞ。」

藤間のおっさんがささっと脇に避ける。機敏なデブだった。ちょっと感動した。

「ナツ、一応、ビデオ回しといて。」

 行時さんにビデオカメラを渡された叔父さんが急いで準備する。レンズの邪魔にならないよい場所に、僕も移動した。掘りやすいように背の高い草を先ず抜き取ってから、地面にザクっとスコップを一突き。右足で重みを掛けて、深く地中に刺す。それから、そこの土を掬う。それの繰り返し。草の生い茂る緑一帯に小さな茶色い山が出来ていく。直径1メートル位の穴が少しずつ深さを増してゆく。僕の戯言に、いい歳した大人が真剣だった。嘘だったら、どうしよう…。死体が出るのは困るから嘘で終わった方がいいのかな?悶々としながら、作業を見守っていたら、スコップをさした行時さんの動きが止まった。

「ん?」

「どうした、行時?」

「何かに当たった。ちょっと、スコップ持ってて。」

 そう言うと、行時さんは僕にスコップを渡した。しゃがみこんで、軍手をはめた手で土を払いのけていく。白っぽい何かが、見えた。僕はゴクリと唾を飲んだ。行時さんの動きが速くなる。僕の鼓動も速くなる。隣の藤間のおっさんも食い入るようにのぞき込んでた。


 地中から、五本の指が見えた時、僕より先に藤間のおっさんが叫んだ。

「ギャーッ!出たーっ!」

 自分よりビビッている人を見て、僕は少し落ち着いた。叔父さんは動じない。行時さんは冷静に言った。

「落ち着いて下さい、藤間さん。人間の体は地中で腐敗します。この草の茂り具合から、埋められてから相当の時間が経っている事が分かる。でも、これは白骨化してない。だから、人間ではありませんよ。」

 そう言って、丁寧に土を掘り、ある程度の形が見えたところで、手首を掴んで引き抜いた。肘までの腕が現れた。引き抜かれた勢いで、関節部の球体が外れて落ちた。鈍い音が地面に吸い込まれた。

「カタンドール、か…?」

 行時さんが呟いた。ドール…?人形だったのか…。

 人形と聞いて、安心するかと思ったら、藤間のおっさんがよりビビッてた。

「本当だったんだ…」

 ガタガタ震えてる。

「どうかしましたか?」

 行時さんが声を掛ける。藤間のおっさんは言った。

「大叔父さんに聞いた事があるんです。人形に魅入られた男の話を。「馬鹿な男だ」って言ってましたが、この家の主の事だったんだ…」

「どういう事です?」


          ******************


 昔、あるお金持ちの美男美女が結婚した。妻は嫁入り道具の一つに、ビスクドールを持ってきた。いい歳をして人形か、と笑われるかと思ったら、夫は「可愛いね」と妻の趣味を認めてくれたのだそうだ。妻は喜んだ。お屋敷に部屋は沢山あったから、一室を人形部屋として、コレクションを飾っていたのだそうだ。コレクションは少しずつ増えていった。

 ある時、洋行帰りの夫が人形を買ってきた。それは妻の集めているビスクドールとは違い、少女の大きさをした球体関節人形だった。

「なんだか、人間みたいで気味が悪いわ」という妻に「とっても愛らしいじゃないか」と夫は告げて、屋敷の二階にその人形の為の部屋を用意した。天蓋の付いた寝台に、マホガニーのライティングデスク。美しいアンティークのランプに、レースのワンピースなど娘がいたら与えたいと思う一級の品々を揃えたのだそうだ。徐々に妻の機嫌は悪くなった。自分も人形部屋を持っているとはいえ、ここまで大掛かりにはしていない。そう詰ると「僕はこれまで君の趣味に文句を言ったことなんか一つもないじゃないか。第一、僕に人形の魅力を教えたのは君だろう?」と逆に責められたそうだ。ビスクドール一体だってかなりの金額だ。そう言われては引き下がるしかない。その一件があってから、夫婦の間に溝が出来た。その日以来、夫婦の寝室は分けられた。


一年後、妻が「貴方、そろそろ子どもを…」と誘うと「僕は仕事で疲れているんだ」と夫は言い、さっさと自室に籠ってしまったという。ある夜中に、痺れを切らした妻が夫の寝室を覗くと空だった。不思議に思って屋敷内を探すと、あの球体関節人形の部屋から夫の声がしてきたそうだ。

「嗚呼、美しい僕のドール。君の瞳は瑠璃の青。白磁の肌に絹のようなその髪の艶めき。君は世界で一番綺麗だよ。どうか、僕の愛を受け入れておくれ。」

 細く光が洩れるその部屋をそっと覗くと人形に愛を囁く夫がいた。あろうことか、夫はいたいけな少女のような人形に口づけをしたのだと言う。女盛りの自分には目もくれず、夫はあんな小娘の人形にうつつを抜かしていたのか!妻は激怒した。ドアを蹴り飛ばし、室内に乱入すると手近にあったアンティークランプを掴んで、にっくき恋敵と化した人形に叩きつけようとしたが、未遂に終わった。夫が人形を庇ったからだ。暴れる妻を羽交い絞めにして、夫は妻を部屋から閉め出した。そして告げたそうである。

「悪いが、僕はもうあの人形以外、愛せない」と。


 次の日、夫は球体関節人形の部屋に固く鍵をかけて仕事に出掛けた。妻の怒りは収まらなかった。どうにかして球体関節人形の部屋の鍵をこじ開けようとしたが無理だった。そうこうしているうちに、心配した夫が昼前に帰ってきて、妻は作業を中断せざるをえなかった。そんな妻を呆れたように見て夫は言った。

「あの娘に比べて、君はなんて醜いんだ…。財産ならあげるから、僕と別れて、この屋敷から出て行ってくれないか?」

 妻は激高した。「嫌よ!貴方も、この家も、財産も、全部私のよ!」と叫ぶとすごい勢いで階段を駆け下りて行ったのだと言う。いつ引き返してくるのかとびくびくしながら球体関節人形の部屋の前で立ち塞がっていた夫だが、妻が戻って来ない事に安堵して扉の鍵を開けようとした時、すごい音がしたのだそうだ。夫が慌てて鍵を開けると、梯子を使って二階に上がった妻が窓を叩き割って乱入し、アンティークランプを人形の顔に叩きつけるところだった。すごい音と叫び声がした。夫は妻を突き飛ばした。

「ドール!ドール!しっかりしろ!」

 球体関節人形の綺麗な顔は壊されて、眼球代わりの青い硝子玉が転がり落ちた。魂を呼び戻そうとでもするかのように必死に人形を揺さぶる夫に目もくれず、嫉妬に狂った妻は人形の足に第二波の攻撃を与えた。陶器の肌は粉々に砕け散った。妻は笑った。笑いながら、尚も人形を破壊した。人形の細い腕が床に落ちて、乾いた音が響いた時に、勝ち誇った笑い声を上げた。

「ほら、貴方。そんな小娘なんかより、私の方がずっと綺麗で美しいでしょう?」


 魂が抜けたように呆然とする夫に腕を組んで、妻は夫を立ち上がらせると寝室に連れて行った。この美しい男は自分の物だと言い聞かせるように一方的で激しい愛撫をした。夫は無反応だったが、妻は満足して眠りについた。


 翌日、遅くに目を覚ました妻は隣に夫がいない事に気が付いた。仕事に出掛けたのかと思ったが、今日は日曜である。素早くワンピースに着替えると、嫌な予感がする例の球体関節人形の部屋へと向かった。窓ガラスが割れたままの部屋に破壊した球体関節人形の姿は無かった。壊れたアンティークランプの残骸と砕け散った窓ガラスの破片は部屋の隅にまとめられていた。割れた窓から庭を覗く。大きな樫の木から何かが吊り下がっているのが見えた。

 急いで庭に出て見上げると、樫の木で夫が首を吊っていた。夫の体液が地面にぬかるみを作っていた。夫が最後に見ていたであろう方向を見ると、庭に何かを埋めたような跡があり、小さな水晶柱が刺さっていた。引き抜くと、<doll>と夫の筆跡で書かれていた。夫は、壊れた人形の欠片も綺麗に拾い集めて墓を作ってから、その後を追ったのだ…。

人形を壊せば、夫の愛は自分に戻ると信じていたのに、自分は選ばれなかった…。その事実は妻の精神を破壊した。妻は叫んだ。自分がどこで間違えたのか分からなかったが、あんなに可愛いと思っていた人形達が、今は憎くて堪らなかった。自分の人形部屋に入ると片っ端から叩き壊した。叩いて叩いて、陶器の肌が粉々になるまで踏みつけた。


月曜になり、出社しない夫を心配した同僚が、連絡先に書かれていた夫の弟に連絡を取り、昼過ぎに屋敷に様子を見に来た。そこで、庭で首を吊った夫が発見された。慌てて救急車と警察を呼んでから屋敷に入った弟が妻を見付けた。元は綺麗に人形が並べられていた室内で「あんた達のせいで!」「あの人を返して!」「よくも、よくも!」と髪を振り乱して叫びながら、床に散乱した欠片の上で人形の洋服を切り刻んでいたそうだ。

警察が来た時も、妻はまともに喋れなかった。「あの娘が憎い…」「人形の分際で…」と繰り返して話にならず、心配した老親に病院へと入れられた。精神の専門家に見てもらった方が…という周囲の声に「娘は精神異常者なんかじゃない。今はショックでこうなっているだけだ」と、地元の病院に入れたのがあだとなった。妻は夜中に抜け出し、行方不明となった。後日、小高い丘の裏の湖で浮いているのが見つかった。自殺として処理された。


          ********************


「その話、かなり昔の地元紙で読みました。人形愛好症について書かれていたのが珍しかったので、祖父が保存してあった物です。」

 叔父さんが言った。叔父さんが古い新聞を見てたのは、それだったんだ…。

「えぇ…。昔、あるジャーナリストが寄稿したんです。こんな辺鄙な場所にある屋敷ですが、敷地が大きいもんで固定資産税だって馬鹿にならないんですよ。私としてはさっさと売ってしまいたいのですが、売却が決まった後に、必ず買い手からキャンセルされるんです。契約後のキャンセルですから手付金はこちらがいただけて、それでまぁ…、税金は賄えるのですが、問題はその理由なんです。皆さん、必ず同じ事を言うんです。「少女の幽霊が住んでいて、「ここはトウマの家だから、皆さんは出ていって」とお願いしに来る」と。最初は私も冗談だと思ってました。ホラー映画が流行ったし、こういういかにも出そうなお屋敷にそのイメージを重ねているのだと…。でも、それがずっと続くと怖くなります。そして、その噂を聞いたジャーナリストが大叔父に聞いた話をまとめたのが、多分ご覧になった記事でしょう。僕は正直、疑ってました。一人が言い出して、たまたま続いた集団ヒステリーみたいな物だとずっと思ってました。だって、いかにも、な屋敷でしょう?でも最近はそんな事もなく、忘れていた所に屋敷を見せて欲しい、と出版社から連絡をいただいたのです。興味本位の取材なら断ろうと思いましたが、話を聞けば行時先生のお願いだって言うじゃないですか!即答しましたよ、私も一緒に連れて行って下さい、とね!そしたら、昨日、先生が岡山まで直々に迎えに来て下さったんですよ!感動です!でも、まさか、本当の話だったなんて…」

 藤間のおっさんが汚れた右腕の残骸を見ながら言った。

「どうします?埋めなおしますか?」

 行時さんが訊く。

「うぅ~ん…」

 藤間のおっさんが首を傾げたその時に、ショルダーバッグの中からけたたましい電子音がした。全員驚いて、バッグを見る。藤間のおっさんが慌ててバッグから取り出したのは、最近出回り始めた携帯電話だった。画面を見て「しまった」という顔をしてから、口の前に人差し指を立てて僕達を見てから、電話をとった。

「お世話になっております、藤間です。はい…。本日の会議に出席出来ずに誠に申し訳ございません。お世話になった叔母が…危篤という事で昨晩急いで駆け付けたんですが、なんとか持ち直しまして…。えぇ、当分入院生活にはなるものの、峠は越えたようで…。すみません、昨晩はこちらも取り乱してまして…。えぇ、えぇ…。いえ、そんなお気遣いなさらず…。して、どうのようなご用件で?」

 そこで暫く先方の話を聞いてから、おっさんは叫んだ。

「えぇ~っ!本当ですか?うちの工場を御社のグループに?いや、本当に助かりますが…、その…今の会社の人達を解雇、なんて事はないですよね?え、大丈夫?丸ごと一部門として独立したまま、傘下に入る形で検討?え、明日、本社の皆さんが工場の視察ですか?」

 こちらをチラッと見る。

「わ、分かりました。私今、長野に居るのですが、明日の午後には工場に戻れるようにいたしますので!は、はい、よろしくお願いいたします。」

電話の先の人に姿なんて見えないのに、おっさんは最敬礼をしてから「失礼致します」と電話を切った。そして、こっちを見てわめいた。

「うわ~!大変な事になりました!技術はあるけど、売り上げがいまいちな我が社が大手グループの傘下に入るそうで!今日の会議はその話だったんだそうです!明日、あちらの本社の方々がうちの工場を見たいそうで、死んでも帰らなきゃならなくなりました!もうあんまり時間がありません!」

 そんな…。冬馬のおっさんが帰っちゃったら、もうここには入れない。絶望的な顔をした僕を見て、叔父さんが口を挟んだ。

「あの…、藤間さん。よろしければ、ここの鍵を借りて土地を掘り返す許可をいただけませんか?」

「え?君に?」

 きょとんと聞き返す藤間のおっさんに、続けて行時さんが話し掛けた。

「藤間さん。ここに埋まっているであろう人形の残骸をオレが掘り出してもいいですか?勿論、掘り出した残骸は藤間さんにお渡しいたします。ここまで掘って、右手一本じゃぁ終われないんですけど…駄目ですかね?」

 イケメンの困ったようなキラースマイルが炸裂した。藤間さんはブンブンと頷いた。

「先生にならば、喜んで鍵をお貸し致しますよ!ここも自由に掘って下さい!あ!でも、人形の残骸はいらないので、先生の方で処分なりなんなりなさって下さい。僕は出来たら、供養した方がいいと思いますけど…」

 そう言ってから、バッグから鍵の束を取り出した。

「こちらは屋敷の鍵です。空気の入れ替え程度なら入って下さって構いません。あそこに井戸水の出るポンプはありますが、こちら、電気は通してませんので、作業は日中のみでお願いします。自然物のゴミ以外は必ずお持ち帰り下さい。トイレは、向こうにボットンのがあった筈ですので、どうしても、の時はそちらでお願い致します。帰る時には門扉の施錠を忘れずにお願いしたい。そして、こちらはマスターキーなので、宅配便等ではなく、必ず、手渡しにて返却、という条件で如何でしょうか?」

 流れるように条件を述べる藤間のおっさんは、僕と同じオタクじゃなくて出来るビジネスマンだった。

「かしこまりました。そうしましたら、そちらの条件を書面にして契約書という形でお互いサイン致しましょう。こちらが取材という名目で場所をお借り致しますので、取材費と言う事で掘り返す日数に応じて、多少の謝礼を払わせていただきます。」

「え?いやいやいや!先生には昨日蔵書全部にサインして頂きましたし、お金なんか受け取れませんよ!」

「いえ。こちらとしても、出版社を通して取材を申し込んでますし、経費として取材費を受け取っていただけた方が、オレとしても都会を離れてこっちにいるいい口実になるんでありがたいんですよ。とりあえず、一日一万円でどうですか?」

「そんな!滅相も無い!百円だっていいですよ!」

「子供のお使いじゃあるまいし、今時百円の契約なんてありませんよ…」

「じゃ、千円で!」

「この広さを千円って…、今時、どこの貸倉庫でもありませんよ。」

「じゃ、二千円!」

「そこはせめて五千円位払わせて下さいよ。」

「いやいやいや…。」

押し問答する二人だったが、最終的に一日三千円のレンタル料に落ち着いた。叔父さんの家のパソコンを借りて契約書を作るという事になり、僕たちはいったん引き返す事になった。掘り出した右手は、野生動物に持って行かれても困るので、屋敷内に置いていく事にした。


車に乗った後、助手席にいる藤間のおっさんに後部座席の叔父さんが声を掛けた。

「藤間さんの工場って何の工場なんですか?」

「あ、うちの工場ですか?フリーズドライをやってるんですよ。」

「フリーズドライ?」

 耳慣れない単語を僕が聞き返すと、藤間のおっさんが溜め息をついた。

「そう…。それが世間の反応なんだよ…。まだレトルト程出回ってないからね…。値段も高いし。知名度もイマイチなのが悩みどころなんだけど、簡単に言うと冷凍とかして食品の水分を取り除いて長持ちさせる技術なんだ。お湯をかけたらすぐ元通り。今はみそ汁やカレーなんかを作ってる。いつかうちの製品が宇宙食になったらいいと思ってさ。」

「宇宙食?カッコイイ!」

 僕がそう言ったら、藤間のおっさんは楽しそうに言った。

「だろ?いい歳したおっさんが…て思うかもしれないけど、僕、ロボットアニメが好きでさ。特に、地球を守るために宇宙にコロニーを作って戦ってる『アーク・ウイング』の一員になりたかったんだよ!本当はあぁいうロボットとかプラモデルを作ってる会社に行きたかったんだけど不器用でね…。駄目だった。で、この体型だし、花形の格好いい主人公ポジションは僕には無理だって分かったんだけどさ、夢は追っていたいじゃない?だから、サポートメンバーになろうと思ったんだ。花形の人物ばかりじゃない。裏方がいてこそ成り立つのが社会だからね。作中で主人公たちは、チューブ状の食べ物を食べて戦場に行くけど、あれじゃ味気ない。あらゆる食事をフリーズドライにして宇宙に持っていけたら、戦闘のご褒美にショートケーキだって食べられる未来が来る。そう思うと楽しくてね。頑張ろうって思えるんだ。」

「アーク・ウイング!僕も好き!今、プラモ作ってるよ!」

 そう言ったら、藤間のおっさんが振り返って弾んだ声で返事した。

「マジか?見せてくれ!」

「うん。いいよ。おっさ…じゃない、藤間さんはどれが好き?」

「やっぱ、初代のウイングエースでしょ!あの翼!邪魔だっていう奴もいるけど、あれこそ、アーク・ウイング!地球の守護翼だろ!」

「分かる!僕も好き!カッコイイよね!」

 うちの両親と同い年位なのに、理解のある大人もいるんだと嬉しくなった。

「あ…、煩くしてすみません。つい盛り上がっちゃって…」

 藤間さん(『アーク・ウイング』好きな同志と分かって、僕の中で格上げされた)が、頭を掻いて運転する行時さんに謝った。運転中の行時さんは前を見たまま、笑って言った。

「いえ、オレも好きだし。構いませんよ。男の子は皆、あのシリーズ見て大きくなるんじゃないですかね?」

「なんとぉ!先生もお好きなんですか?ど、どのシリーズが一番です?」

 …食いつきが違う。

「オレは…『オリジン』ですかね…。戦闘シーンはあまりないけど、人間ドラマがしっかり描かれてた。主人公ライトと、生き別れの兄であり最大のライバルでもあるナイトを取り巻く背景がしっかり描かれていて良かったです。」

「く~!分かってらっしゃる!リメイクなのに原点にして頂点!あれで主人公の兄弟関係がはっきり分かったんですよね。いや、あのシリーズは良かった…。あれを見てから、最初のシリーズを見直すと伏線が分かるんですよねっ!」

 うんうん、と頷いている。

「あ、じゃぁ。水沢さんは?見てました?アクつば?」

 略しだした…。

「俺は…あんまり人気無かったけどナイトが主人公の『黒い星の翼』が好きでした。ビデオ持ってました…」

 ちょっと恥ずかしそうに言う。

「オーブイエー!水沢さん、通ですなぁ!あれ、テレビじゃ一回も放映されてないでしょ?」

「えぇ。友達と一緒にアニメ誌を見てた時にあらすじを読んで…。すごく気になったのでお年玉で買ったんです。光が当たらなくて植物が育たない死の惑星に白い花が咲いていく話がとても印象的で好きでした。冷徹だと思われていたナイトが折角咲いた花を踏み潰させまいと敵機から庇って、ダークウイングの翼が破壊されるシーンが舞い散る花びらのようでとても綺麗で…。すごい枚数のセル画だなぁって思って見てました。」

「分かる~!ヒロインのフローラがまた良かったんですよね!あれ、織野みゆきの声優デビュー作ですからね。マニア人気は高いんですよ。」

「へぇ…」

 藤間さんはノリノリで叔父さんの家に着くまで楽しそうにアクつば話をしてた。着いてから、僕のお腹が盛大に鳴いて、お腹が空いてる事に我々一同は気付いた。

「お!忘れてた!」

 そう言って、車からでっかい保冷ケースを行時さんが出して来た。

「焼いて食おうぜ!」

 中には、お中元でもらったであろう高級そうなハムとかが入ってた。

「すご…!」

 叔父さんに来たグミとは全然違うな、と思って見てたら、察したのかぼそっと言った。

「ベストセラー作家と一緒にするな。」

 拗ねたらしい。

「ナツ!オレが切るから焼いてもらっていいか?お前が焼いてる間にパソコン借りて契約書作っちゃうから。」

「いや。切る所から俺がやる。行時、馬鹿みたいに厚く切るから火の通り悪いし…。言っとくけど、厚さは2センチがマックスだからな!」

 そう言って、台所へと向かった。行時さんがパソコンに打ち込んでいる間に僕は藤間さんにプラモデルを見せた。

「をを~!リペイント!いいね~、いいね~!」

 そう言って、舐め回すように見て言った。

「この作風、この色合い、どっかで見た…。冬馬君、君、投稿とかした事ない?」

「あるけど…?」

「やっぱり?どっかで見た気がしたんだ。この群青色がとてもいいね!」

褒められた!僕は嬉しくなって言った。

「その色、いいでしょ?僕が独自に調合したんだ。昔、ロンさんに褒められたことがあるんだよ!」

「やっぱり!それ、『ジャパホビ特別増刊号』アクつば特集2回目の時じゃない?」

「そ、そう…」

 ズバリ特定された…。オタクこえ~…。でも、そう言われて、その雑誌も両親に捨てられた事を思い出してしまった。元気をなくした僕を見て、藤間さんが慌てる。

「あ、ご、ごめん…。キモかったよね…。大好きでしょっちゅう見てるから、どこに何が載ってるか覚えちゃってるんだよね…」

「あ、藤間さんがキモかったんじゃなくて…、その…。僕はもうその雑誌捨てられちゃったから…」

 そう言ったら、藤間さんが憤慨し出した。

「捨てられた?何だそれ!なんて酷い事をするんだ!君、あのロンさんに褒められたのは勲章だよ!褒められこそすれ、そんな事をされる筋合いはない!よし、分かった!僕はもう頭の中に全部入ってるから、増刊号、君にあげるよ!」

「え?いいの?」

「勿論!アクつば仲間だからな!今日もこんなにいい機体を見せてもらえて得した気分だ!冬馬君は器用だね。うらやましいよ。」

 嫌みではなく、心からそう思ってる言い方だった。

「あ、ありがとうございます…。」

「でも、なんだって、人の持ち物を勝手に捨てるんだか…」

 ぶつぶつ言う藤間さん。こうやって、ちゃんと僕に共感してくれる大人になら僕の話をしてもいいかもしれない。

「藤間さん、ちょっと聞いてくれる?」

 そう言って、僕は、僕の家族と離れてここに来た経緯を離した。藤間さんは頷きながら聞いてくれた。

「成程…。分かるような分からないような、だな…。親としてはプラモデルを捨てれば君が勉強をすると思った。君からしたら、そんな事をされたらもう何もしたくなくなる、と。まぁ、でもとりあえず、一つ言えるのは、君はラッキーだよ、冬馬君。」

「ラッキー?」

「あぁ。そんな親御さんなら、もうここにもあまり来ないんじゃないかな?これからは自分のやりたいことを邪魔されずに済むだろう。見たところ、水沢さんは君のやりたい事を後押ししてくれてる理解者のようだし、学校に行って、自分のやりたい事をやればいい。」

「学校…」

 言い淀んだ僕に藤間さんが言う。

「学校は嫌いか?勉強が嫌いなのかな?」

「ちが…。分からないから行きたくない…。」

「例えば?」

「分数の割り算とか。分けるのに、なんで、ひっくり返して掛けるのかが未だに分かんないままだし…。分数なんて、生きていくのにいらない物じゃん…。」

 そう言ったら、藤間さんは手帳を取り出して、計算式を書いた。

1/3÷2/5

「例えば、この式を掛け算を使わないで計算しようとすると、こう。割り算は分数に出来るから全部分数の形にしてみよう。分母2/5の上に1/3が来る。でも、これだと、二階建てで分かりにくいから、分母を1にするために逆数の5/2をかけるんだ。きっと、この手間を省いてしまったんだね…。こうして見ると、ほら、1/3×5/2になるだろう。途中のひと手間をかけなくても結果は一緒だから、てっとり早く逆数をかけた所だけ教えて、途中式を省いたから混乱を招いたんだね。」

 確かに…。藤間さんの書いた計算式なら、途中でなぜ掛け算になったのか分かる。

「あと。多分、冬馬君は言葉にとらわれ過ぎてる。」

「?」

「割り算は分ける物だと思ってるから、分数が来ると混乱する。割り算にはね、何倍か、っていう意味もあるんだ。例えば、9個のリンゴを3人で分けると3個ずつ。これは単純な割り算だね。じゃ、A君が持ってるリンゴは9個、B君が持ってるリンゴが3個だと、A君はB君の何倍リンゴを持ってますか?の時にも使うのは割り算だ。」

 あっ!と思った。いままでずっともやもやしてたところがすっきりした。

「それ!今、ようやく分かった!だから、割り算の検算は掛け算なんだ…」

 なんだか、すごくスッキリした。目から鱗が落ちるって、こういうのを言うんだろうな。

「藤間さんありがとう。僕、今、なんというか感動してるよ…」

 そう言ったら、藤間さんが笑った。

「そうかい?僕も大学時代にとったはいいけど役立たずだった教員免許が今、初めて役にたったよ。それに分数は大事だろ?だって、HGは1/144、MGは1/100、PGは――」

「1/60!」

僕は勢いよく返す。身近にあった分数!大事な数字だった。藤間さんは笑った。

「勉強は大事だけど、それ自体が目的じゃない。自分がやりたい事の手段の一つなんだ。僕がやってるフリーズドライだって、固形物中の水分が何パーセントの時に、何度で凍らせて、蒸発するのがどれくらいか、っていうのを最適解を見付けるまでしつこくやるんだ。たまに頭がパンクしそうになるけど、コロニーで僕がイチゴのショートケーキのフリーズドライをミルキィにあげたら、きっと満面の笑顔が見られると思うから頑張れる。」

 ミルキィは初代のヒロインだ。イチゴのショートケーキが大好物だけど、コロニーでは食べられないから、地球に帰った時に必ず食べてる設定だった。人は好きな物に対してなら頑張れるんだ。そう思ったら、僕も素直に二学期から学校に行ってみようかという気持ちになった。こっちで僕を知る人はいない。リセットしてやり直せばいいんだ。

 パチパチと拍手が聞こえたので見ると、プリントアウトした契約書を小脇に挟んで手を叩く行時さんとハムステーキとおにぎりをお盆に乗せた叔父さんが部屋の入口に立っていた。

「いやぁ、藤間さん。人生の先達の言葉は心に響きますね。オレもそういう算数の先生に出会いたかったですよ。」

「俺も分かったつもりでしたが、そう説明されてより理解した感じです。流石です。」

 二人に言われて、藤間さんは頭を掻いて俯いた。

「いやいやいや…、お恥ずかしい。」

 それから、照れ隠しのようにハムステーキを掴んで食べた。

「いや~、美味い!早速お昼にしましょう!」

 談笑しながら、昼食を食べた。食べながら、行時さんが聞いてきた。

「冬馬は人形を掘り出したら、どうしたいんだ?」

「出来るなら…、僕が復元したいと思ってるよ。」

 そう告げると、行時さんは言った。

「なら、工学系の大学に行くといい。3Ⅾプリンターのある所。」

「何それ?」

 またしても聞きなれない言葉が出て来たので、僕は聞き返す。

「あのドールは壊された物だから足りない部品がいくつもある。古い物だから、スペアの部品もそうそう手に入らないだろ?一から作るしかない。3Ⅾプリンターってのは、データを元に樹脂で立体物を作れるすごい機械なんだ。だが、いまはまだまだ高価でおいそれと使えない。だが、そういうのがある学科に行けば使える事もあるだろ?目的のための手段が勉強だ。自分のやりたい事に必要な学問を学んだ方がいい。」

「へぇ~、そんなものがあるのか…」

「流石、先生。物知りですな。」

僕より二人が感心してた。

 そんな機械があるなんて知らなかった。それがあれば足りないドールの部品を作る事が出来て、彼女を元通りに出来るのかと思ったら、何だかやる気が湧いてきた。この世界には、僕の知らない事や分からない事がたくさんある。分からない事は聞けばいい。それはきっと恥ずかしいことじゃない。聞けば、今日みたいな発見がある。やりたいことがあるのに、もがきもせずに何もやらないで、後悔する方がずっとカッコ悪い筈だ。僕はおにぎりを食べながらそう思った。


 契約書にサインを交わした後、僕たちは行時さんの4WDで藤間さんを新幹線の駅まで送って行った。僕と藤間さんは後部座席でアクつばの話をした。すっかり仲良くなった。買ったけど積んだままのプラモデルも雑誌と一緒にあげるから作りなよ、と言われて嬉しかった。だって、その中には僕がロンさんに褒められた機体もあったから。


     Ⅵ


 翌日。意気揚々とお屋敷に発掘作業に行こうと起きたら、叔父さんがおにぎりを作ってた。

「じゃ、悪いけど行時、冬馬を頼むね。俺、今日はトレッキングの予約が入ってるんだ。」

 そう言うと叔父さんはエプロンを外して、リュックを背負った。

「街まで乗せてく」と言う行時さんに「いや。歩きながらの観察も兼ねてるから大丈夫!」と告げて叔父さんは元気に出掛けて行った。

「行ってらっしゃい。気を付けてね。」

 僕は手を振る。叔父さんも笑って手を振り返す。草木の写真を撮るだけじゃ、食べてはいけない。だから、叔父さんはトレッキングの案内もたまにしてる。柔和な物腰で植物の説明をしてくれる叔父さんのトレッキングは女性陣になかなか評判がいいらしい。よくチョコとかのお菓子をもらって帰ってくる。叔父さんが見えなくなると行時さんは溜め息をついた。

「な~んか、何年経っても気を許してもらえてない気がすんだよなぁ…。」

 それを聞いた僕は、おにぎりを食べながら言った。

「そんな事無いよ。行時さんは叔父さんの友達でしょ?僕、こっちに来てから、叔父さんが行時さん以外に電話してるの見た事無いよ。」

「そうか?冬馬、お前はいいよな」と言われたので「なんで?」と返す。

「だって、お前は名前で呼ばれて。オレなんか、大学から一緒で十年の付き合いなのに「君」は取れてもずっと名字呼びだぜ。」

 イケメンでベストセラー作家で人生の勝ち組が、そんなつまんない事で凹んでた。

「叔父さんは名字でしか呼ばないタイプなんじゃないの?」

「いや、違う!同じ学部の奴らは、下の名前で呼んでた!」

…そうなんだ。それだとちょっと凹むかも…。

「そんなに気になるなら、聞けばいいのに…。」

「いや…。今更聞けないっしょ…。」

 情けない顔をするイケメンに僕は少し呆れた。大人なのに、しょーもな…。


 残りのおにぎりとグミの缶を持って、僕達二人はお屋敷に向かった。今日は全力で発掘作業だ。部品を破壊してしまわないように、小さなシャベルで丁寧に掘った。胴体、脚部、壊れた頭部、左腕の大物を掘り出した。かなり汚れていたので、先日掘り出した右腕と合わせて、井戸水で洗った。少しだけ綺麗になったが、陶器の肌にシミが出来ていたので、従来の部品では駄目かもしれない…。持参した古いバスタオルで丁寧に拭きながら僕は考える。関節部の球体もヒビが入ってしまっている。稼働域を考えてここも新しくした方がいいのだろうか?

 良く拭いてから、それを屋敷内にしまいに行った。行時さんが屋敷内を見てみようというので、部品はいったん玄関内に置いて見て回った。一階のガランとしている部屋が、おそらくビスクドールが置いてあった人形部屋だったんだろうと思われる。他の部屋にはテーブルとかの調度品があったのに、そこだけ何も無かった。

 二階に上がった。突き当りの日当たりのいい室内に、天蓋付のベッドがあった。おそらく、ここがドールの部屋だったんだろう。今はすっかり直されている窓から外を見ると、僕が彼女に会った湖が良く見えた。彼女はここから僕を見ていたのだろうか?僕がいつも一人でいたから声を掛けに来てくれたんだろうか?彼女は、どんな気持ちでここから僕を見つめていた?


 デジカメで写真を撮りながら一通り見て、行時さんはざっと見取り図を描いていた。次の小説のネタになるのだろうか?書き終わると僕に言った。

「あの人形、お前はお祓いをした方がいいと思うか?」

「ううん」と僕は首を振った。拭き作業の間、悪い気は感じなかった。むしろ、僕を取り巻く空気の感じは温かかった。ドールはきっと喜んでいる。

「彼女を自分の部屋に戻してあげようよ。」

 そう言って、僕たちは綺麗にした球体関節人形の部品を天蓋付のベッドに並べた。こうしてみると、まるでプラモデル。僕に組み立ててもらうのを待っているようだ。だけど、今の僕には手を出せない。知識が不足。技術が未熟。だから、待ってて。僕が君を組み立てられるようになるまで。僕はきっと君にふさわしい大人になってみせるから。

そっと薄布をかけて、僕たちは部屋を後にする。耳に、少女の吐息が聞こえた気がした。


          ********************


それから三日間かけて、僕たちは欠片も全部掘り起こした。それらを綺麗に洗った。初日に洗い足りなかった気がしたから、シャンプーとリンスも持ってきて髪も洗った。とってもいい匂いになった上に、サラサラになった。タオルで丁寧に水分を取ってから、ゆっくりとブラッシングした。それから三人で天蓋付のベッドの上で、ジグソーパズルのように多分ここ、という部位に欠片を一つずつ置く作業をした。七割復元出来た気がする。

帰りの車内で「じゃ、屋敷を借りるのは今日まででいいな?藤間さんに電話して明日返しに向かうわ」という行時さんに叔父さんが言った。

「あと一日待ってくれないかな?折角あそこまで綺麗にしたんだ。明日街で白いワンピースでも買って一緒に置いてあげようよ。」

 行時さんはチラッと叔父さんを見ると、笑って「分かった。ナツは優しいな」と言った。


 帰ったら、玄関前に大きな段ボールが置いてあった。本当はいけないんだろうけど、叔父さんの家には殆ど人が来ないから、それを知ってる顏なじみの宅配便のおじさんが勝手にサインして置いていった物だ。差出人は藤間さんだった。早速開ける。例の雑誌とプラモデルが六箱と藤間さんの所で作っている自信作だというフリーズドライのカレーとかが沢山入っていたので早速夕食に食べた。初めて食べるグリーンカレーだったけど、ココナツミルクの甘みが舌先に残って辛いけど美味しかった。

「お湯だけで、こんなに本格的なカレーを食べられるなんてすごいねぇ…」

「うん。スパイスの香りもレトルトよりいい気がするな。」

 そんな事を言いながらもぐもぐ食べる二人を見て、僕は聞いてみた。

「ねぇ、叔父さんは行時さんを名前で呼んだりしないの?友達なのに。」

 僕と目の合った行時さんが『ナイス!』と目配せする。叔父さんは困ったように「えぇ…」と言った。駄目押しのように行時さんも聞く。

「ナツ、同じ学部の奴は下の名前で呼んでたじゃん。なんでオレはいつまで経っても名字呼びなん?」

「あ、あれは違うよ!うちのゼミ、佐藤さんと松田さんが二人ずついて紛らわしかったから、ファーストネームで呼びましょう、って教授が言って…。それでうちのゼミだけ皆、ファーストネーム呼びだったんだ。行時はその…」

 叔父さんは俯いて小さく言った。

「ごめん…。最初、行時が図書館で話しかけて来た時、俺、本読んでたし、自分に話掛けて来てるなんて夢にも思ってなかったから、ちゃんと名前を聞いてなくて…。で、その後、他の人が「ユキトキ」って呼んでるのを聞いて、ファーストネームがユキトキなんだとずっと思ってたんだ。行時なんて名字、それまで聞いた事無かったし…。処女作の本を貰った時に初めて「行時奏人」って名前なんだって気付いたんだけど、もう俺の中では行時呼びが定着してたし、今更だし…で、ずっと名字呼びしてたんだけど…。ごめんね。気にしてた?」

 そう言って、ちらりと行時さんを見上げた。

「うぐっ!」

 そう言って、行時さんは頭をちゃぶ台に打ち付けた。鈍いゴン!という音がした。顔をテーブルにつけたまま、頭を抱えて行時さんは言った。

「何だよ~。言ってくれりゃ~、良かったのに…」

「ご、ご、ご、ごめん…。」

オロオロする叔父さんに僕は聞いた。

「同じ学校なのに、フルネームが分からない事なんてあるの?」

叔父さんは少し不思議そうな顔をした後、僕を見て「あ~」と言った。

「冬馬はまだ高校生か。まだ名札があるんだっけ?大学はね、特に決まったクラスとか名札とか無いんだ。自分で、専門と一般の取る授業を選んで、その時々で違う教室に行って講義を受けるんだよ。だから、同じ学校でも名前を知らない人なんて沢山いるよ。制服も無いし、人数も多いから、街ですれ違っても同じ大学だって気付かない人も沢山いる。三年になって所属するゼミがクラスに近いかな?だから、同じサークルにでも入ってない限り、どっかで見た顔だなと思っても、名前を知ってる奴は少なかったな。俺は農学部で、行時は文学部だったから講義も被って無かったしね。」

「へー…」

 そうなんだ。知らない事ばっかりだ…。

「あ、でも!行時の件があったから、トウマが名字なんじゃないかな?って思えたんだし、結果的には良かったんじゃないかな?ね、行時?」

 そう言って、叔父さんが行時さんを見るも行時さんは顔を上げない。まだ拗ねてるのかな?

「ん~…。違和感しかないけど、奏人って呼んだ方がいい?」

 叔父さんが良く聞こえるように隣の行時さんの耳元で囁いたら、行時さんがガバッと立ち上がって「行時でいい!」と叫んで「オレ、おかわりするからお湯沸かしてくる!」と台所に走って行った。

「変な行時…」

 叔父さんは不思議そうにしてたけど、僕は察した。行時さんは多分、叔父さんが好き。さっきすぐに立ち上がって走って行っちゃったから、隣にいる叔父さんには見えなかっただろうけど、行時さんの顔は赤かった。でも、叔父さんは気付いてないだろうし、行時さんも言う気はなさそうだから僕からは言わない。

「そうだね。変になる位、このカレーが美味しいって事なんじゃないの?」

「そうかも!」

 そう言うと叔父さんは台所にいる行時さんに向かって叫ぶ。

「行時~!俺と冬馬もおかわりするからお湯は多めに沸かしてね~!」

「分かった~!」

元気な声が帰ってきた。後で藤間さんに電話して、カレー美味しかったよ、って言おう。あと雑誌とプラモデルもありがとう、って伝えないと!


 翌日、街でドールに似合いそうな白いワンピースを見付けて買った。向かいの雑貨屋に赤いグミの実みたいなビーズで作ったブレスレットがあったから、似合いそうだと思ってそれも買った。行時さんは、大きな本屋の洋書コーナーで『SLEEPING BEAUTY』の美しい絵本を買ってきた。それらを持って、僕たちはお屋敷に向かった。ドールが眠るベッドの薄布をとって、並べた部品の上にそっと白いワンピースを置く。僕はしっかりと形の残る右手首に赤いビーズのブレスレットをそっとつけてあげた。それから、薄布をまた被せた。枕元に洋書の絵本を置いて「じゃあね」と告げて、僕たちはお屋敷を後にした。


     Ⅶ


 それが僕を変えた夏の出来事だった。

それからの僕は自分で言うのもなんだけど、勉強を頑張った。それまでは、やらされている感が強かった勉強だったけど、いつかあのドールを復元するという目的の為の手段なんだと思えば苦痛じゃなくなった。藤間さんや行時さんの話を聞いて、自分は知らない事がたくさんあると知って以降、僕は知識を求めた。外国になんか行く事はないからやらなくてもいいや、と切り捨てていた英語も、ドールが来た国の言葉かもしれないと思うとやる気になった。ちょっと不気味に思っていた人体の構造も人形の関節の稼働域を考える上ではなくてはならない知識だった。


そうして、僕は東京にある有名大学の工学部に進んだ。両親に言ったら大喜びで学費を出してくれそうだったけど、もう関わりたくなかったので何も告げすに奨学金を借りた。在学時よりドール復元の為の下準備として、1/5スケールの球体関節人形を何体も作っていたら、メディアの目に留まり、取材を受けた。それを見た球体人形作家の先人から弟子にならないか、という話があって三年ほど修業した後に、球体関節人形師として独立した。作品を見た好事家たちから「売ってくれ」と依頼が殺到したが、いったん保留にした。悩んだ時は、一人で考えない。僕は久しぶりに行時さんに電話した。

「元気か?」

疲れた声が返ってくる。また原稿作業で缶詰にされているのだろうか?疲れてるところに悪いな、と思いつつ、「別に売っても構わないんだけど」と前置きして僕は相談する。

「売ってもいいが、ずっと後にしろ。」

 ズバリと言われる。

「冬馬、お前の目標はなんだ?あのドールを復元して、最終的にはあのお屋敷を買う事だろ?それには金がいる。お前はまだ奨学金の返済も残ってるし。例えば、人形一体を百万で買ってくれる物好きがいたとしても一回売っちまったらおしまいだ。継続した収入になる方がいい。今ある人形は何体だ?十体?それだけあれば十分だ。あの屋敷でナツに写真を撮ってもらって、ドールの写真集として出版しよう。俺が話を通す。春夏秋冬、それぞれの季節を感じる写真集を作って売るんだ。ドールのカタログにもなる。」

「そんな考えが…」

 自分では思いつきもしなかった案が出た。行時さんが話を通してくれて、僕の作った小さな球体関節人形たちの写真集が出る事になった。こんな無名の奴の本なんか出版される事はないと思っていたけど、行時さん書き下ろしの春夏秋冬の人形の話が同時収録される事になっていた。流石ベストセラー作家、やり方が上手い。


売れるのか心配したけど、行時さんのお話と、季節の花に囲まれてまるで生きているかのように写る球体関節人形たちのファースト写真集『夏の庭』は瞬く間に重版を記録した。せかされて二冊目の『秋の庭』も出た。叔父さんの撮る風景写真に妖精のように写りこむ球体関節人形たちはとても美しかった。この頃から、叔父さんの写真の腕前も評価されるようになってきた。

季節を変えて、『冬の庭』『春の庭』が出版された後、続編の要望に応える形で屋敷内で撮影した『人形の家』が出版された。僕の手元にはかなりのまとまったお金が入った。満を持して僕は藤間さんにあの屋敷を売って欲しいと打診した。

「冬馬君にならいいよ。」

 藤間さんは快諾してくれた。久し振りに会って、お酒を飲みながらお互いの近況とアクつばの話をたくさんして。そして少しの頭金と三十年のローンを組んで僕はあのお屋敷を買い取った。これで、あの部屋に眠るドールごとあのお屋敷は僕の物だ。


     エピローグ


 良く晴れた夏の日、僕は自分の運転する車で屋敷を訪れた。門扉の前で車を止めて、錆びついた鍵穴に大きな鍵を差し込んでから重たい扉を開ける。手に着く赤茶色の錆。懐かしいような古い匂い。ここは、最後に来た時から時間が止まったかのように変わっていない。

 敷地内に車を止めて、僕は門扉にしっかりと閂を掛ける。


 大きな玄関扉を開けて、階段を上る。登り切った突き当りの部屋のドアをノックしてから、部屋に入る。

「久しぶり。随分と時間がかかってしまったけれど、ようやく君を元に戻してあげられそうだよ。遅くなってごめんね。」

そう告げると、風の無い室内でベッドの上の天蓋がふわりと揺れた。

「お帰りなさい、トウマ。ずっと待ってた…」

懐かしい彼女の声が聞こえた気がした。


天蓋をそっとまくる右手首には僕がつけてあげた赤いビーズのブレスレット。

僕の視界に映る白いワンピース。

揺れるくすんだブロンドの髪。

透き通るような青い瞳。


あぁ、ドール…。

君はなんて可愛いんだろう。


世界中の誰よりも、君が一番綺麗で素敵だよ。

僕は持ってきた赤い薔薇の花束をドールに差し出して、そっと告げる。


「ドール、愛してるよ。今日から僕と一緒にここで暮らそう。」



                                        <了>

                                             


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