おっぱいで解決って正気ですか?
『起きろ、馬鹿!』
「……馬鹿っていうな!」
フテネルの罵声に寝ぼけながら言い返すソーニャの目の前には、紅い目が光っていた。
蒼白い肌でビスクドールのように美しい少女のものだ。
藁の上にあお向けで眠っていたソーニャに、灰の髪が掛かるほど近く覆い被さっている。
「ひッ」
紅い目に怯えを浮かべ、少女は慌てて身を放そうとするが、ソーニャは反射的に少女の細い手首を掴んでいた。
「痛い! はなして!」
「あ、ごめん」
『おい!?』
か細い悲鳴に手を離すと、少女はひと跳びで壁際まで離れ、暗がりに身を潜めた。
『素直に離す馬鹿がいるか!』
「でも、なんか思ってたのとちがうし」
十を幾つか出たくらいだろう。
怯え切った少女は壁に張り付き、闇の中ソーニャたちを伺う紅い目だけが光っている。
『思った通りだ。マナが欲しいならまずソーニャに引き寄せられるだろうからな』
「え、なに? わたし餌だったの?」
『いや、罠だ』
「どっちも変わんないよ! それならそうと言っておいてよ」
相手がアメルハウザー伯爵ならどうなっていたか分からないが、この少女吸血鬼なら聖女であるソーニャの敵ではない。
フテネルに起こされなくとも、胸元に押し込んでいたロザリオの加護だけで、手出しすることも叶わなかっただろう。
「……うっ、うーっ」
「うん?」
威嚇の唸り声かと思われたが、少女は涙目で、必死に泣くのをこらえている様子。
ソーニャが闇になれた目でよく見ると、闇色のドレスは汚れ、肩までで揃えた灰の髪は乱れている。
頭に結ばれた赤いリボンすら、力なくくたっとして見える。
「何もしない。なにもしないよ、ほら」
『ソーニャ!?』
ソーニャは微笑みながらロザリオを外すと、両手を広げ敵意のないことを示した。
『馬鹿、いくらなんでも油断しすぎだぞって、あれ?』
「うっ……うわあ~ぁぁぁん!!」
緊張の糸が切れたのか、少女はへたり込み手放しで泣き始めた。
§
「わたしはアリーセ。アリーセ・アメルハウザー」
泣きやむのを辛抱強く待ち話を聞くと、アリーセは聖魔大戦終結後、伯爵が娶った村娘との間に産まれた一人娘だという。
眷属になることを望まなかった母は、アリーセを産み落とし程なく病死したのだと。
「あれ、じゃあわたしより歳上? 子供あつかいしていいの? なんかやりにくいな」
『そこはいいから』
「伯爵は? お父さんはどうしたの?」
「お父さん……起きないの」
『ああ、あれか。マナ不足で』
得心したフテネルの言葉でソーニャも理解した。
人を娶り人との間に子をなしたアメルハウザー伯爵は、マナが枯渇しようと、領民からより多くの血を搾り取ることを良しとしなかったのだろう。
「アリーセはハーフだから、人間の食べ物でも大丈夫だった、そうなの?」
「うん……」
概ね事情を把握したソーニャは、しばし考えるそぶりを見せると、
「よし、おいで!」
「キャ!?」
大きく広げた手でアリーセを捕まえ抱き寄せた。
『なんのつもりだ馬鹿ソーニャ、お前まさか』
「わたしはマナがあり余ってるからねぇ。こんな時のための聖女でしょ?」
ソーニャの胸に埋もれたアリーセは、困惑した表情でふたりのやり取りを聞いている。
「血を吸われるだけで眷属になるわけじゃあないんでしょ?」
『そりゃまあそうだけど……』
吸血鬼が眷属を作るには、吸血側の意志と吸血される側の同意が必要になる。
ベースが恐怖であれ信頼であれ、主に生殺与奪の全てをゆだねる意思がなければ、たとえ一滴残らず血を吸い尽されたとしても、眷属にされることはない。
『あーもういいよ! 勝手にしろ!』
やけくそ気味のフテネルの返事ににんまり笑みを返すと、ソーニャは胸元をはだけ、首筋を晒した。
「これでいい? おっぱいにする?」
『ソーニャ!!』
突然のことに目を白黒させていたアリーセだったが、あらわになった白い肌から漂う濃厚なマナの気配には抗えず、ソーニャの首筋に口づけた。
「傷、付けないから」
血液からではなく、直接マナだけを摂るつもりらしい。
くすぐったさと共に、確かに命の源が吸い出される感覚。
喉を鳴らし無心にマナを吸うアリーセを見下ろしながら、ソーニャは胸に温かなものを感じていた。
「お母さんって、こんな感じなのかな?」
『知らん!』
フテネルとしても、アリーセを害する気持ちはこれっぽっちもなかった。
けれど、どこか荘厳ささえ感じさせる二人の姿に、奇妙な苛立ちを抱いていた。
『ちぇッ、ソーニャのくせに!』
いいかんじにマナが抜かれたソーニャと、いいかんじにお腹がふくれたアリーセは、抱き合ったままうとうとしている。
ひとりふて腐れていたフテネルは、不意に嫌な推測に思い当たり大声を上げた。
「寝るなソーニャ! すぐに伯爵の居城に向かうぞ!」
§
「うえぇぇ……夜に森を行くのは危ないって言ったの、フテネルじゃない」
『それは敵が伯爵だった場合の話だ!』
おでこに張り付く蜘蛛の巣を払いつつ、ソーニャはぼやいた。夜目の効くアリーセの先導で、ソーニャたちは藪を漕ぎ夜の森を急いでいる。
祝福で身体を強化できるとはいえ、ふわふわと浮くフテネルや、己の領地で力を発揮する吸血鬼ハーフのアリーセと比べると、どうしても自分ひとり無茶をさせられている気分になる。
「敵じゃなかったんなら、それでいいじゃん」
『村長は伯爵に年貢を納めることもせず、村に降りてくる吸血鬼が伯爵でないと知っていて、あたしらに嘘を教えたわけだよな?』
「うーん?」
鈍いソーニャにも、フテネルの言わんとすることがじわじわ理解できてきた。
「あそこ!」
下弦の月に照らされて、木立の奥にそびえる岩壁が浮かび上がる。
ソーニャには見えないが、アリーセの目にはその上に建つ古城まではっきりと映っているのだろう。
「フテネル、手伝って!」
『落ちんなよッ!』
つづら折りの山道を登る時間が惜しい。
背にコウモリの翼を生やしたアリーセに続き、ソーニャはフテネルの力を借り、カモシカのように垂直の岩壁を駆けあがる。