グーで殴っただけなのに追放ですか?
「第666代聖女ソーニャ! お前は追放だ!」
「えっ、そんないきなり」
派手に鼻血を噴き出しわめく、でっぷり太った司祭を見下ろしながら、ソーニャは困惑の表情で呟いた。拳は血で汚れている。
「やっぱりグーはマズかったかも……」
§
アスタリア王国西方都市トラーシャ。
誇るべき聖女認定式の場で追放宣告を受けてしまったソーニャだったが、彼女にも言い分はある。
西方地区を取り仕切るベゼル司祭は、聖女の証しであるロザリオを授ける際、当たり前のようにソーニャの胸を揉んだのだ。
自分の胸の大きさが、男性の視線だけでなく手指をも誘うものであることを、ソーニャは嫌というほど理解している。
そこまでは慈愛の笑みで見逃すことができた。
だが、第667代聖女に認定されたシリルが、司祭にお尻をまさぐられ恥辱に震えてるのを目にした瞬間、考えるより先に手が出てしまったのだ。
「なんかさ、自分がされるより、他人がやられてる場面を見せれらるほうが、ずっと頭にこない?」
『ひゃははははッ! 知らねーよ。ソーニャがお人好しってだけで、普通は逆なんじゃないか?』
純白の衣服に白い翼。
ソーニャの頭上に浮かんでいる、堕落を司る天使フテネルは、目尻に涙を浮かべ笑い転げている。
フテネルの姿は祝福され、奇跡を起こせる者にしか見ることができない。
胸を揉まれるソーニャに対し『やれ! やっちまえ!』とそそのかし、司祭に振るう拳には祝福を与えた。教会西方地区の重鎮が居並ぶなか、フテネルを認識していたのはソーニャとシリルのみだった。
『そんなお前だからあたしは近くにいるんだけどね』
「うん?」
地上で繰り広げられた聖魔大戦終結から100年。
女神フェルシアの教団は、アスタリアの国教と認められ勢力を広げた反面、組織として硬直化し腐敗の様相を呈している。
落ちこぼれ天界での役職を与えられず、地上の観察任務に就いているフテネルが見ても、嘆かわしい限りだ。
女神フェルシアの慈愛も、声を聞こうとしない者達には及ぶはずがない。
激昂したベゼル司祭は「破門だ!」と叫んでいたが、聖女を破門する権限を持つのは、司教か大聖女に限られる。
結果、ソーニャは王都の大聖堂に仕える出世コースから外れ、聖女の称号を得たまま辺境巡回の任を押し付けられることとなった。
故郷の村から王都に来た時も、見るもの全てが新鮮で刺激的な毎日だった。
辺境にはまだ見たことも無い景色が広がっているに違いない。
ソーニャの胸は膨らむ好奇心でいっぱいで、一欠片の不安さえ紛れ込む隙間はなかった。
「王都で堅苦しいお勤めこなせるか不安だったし、ちょうどいいか」
『ちょ、お前何やって――』
ソーニャは複雑に編まれた長い銀髪を解き、懐から取り出したナイフで惜しげもなく切り落とした。
「毎朝結わうの大変だったしね。田舎に戻るならこっちのが楽でしょ?」
『前髪面白いことになってんぞ? せめて後で床屋いけよ』
ぷククと笑いをこらえながらフテネル。
トラーシャの修道院に勤める前、孤児であるソーニャは牧場で牛を追い羊の世話をして過ごしていた。
育ち過ぎた胸をのぞけば、その頃の少年めいた姿に戻ったようだ。
「ソーニャ、貴女その髪」
式典後の宴を抜け出し追ってきたシリルが、変わり果てたソーニャの姿に絶句する。
「シリル。だいじょうぶだった?」
「な……?」
掛けるつもりの台詞を先んじて掛けられ、再び言葉を無くすシリルだったが、すぐに司祭から受けたセクハラを思い出し、首筋まで真っ赤になった。
「わ、私は! あんな事ぐらいで動じたりはしません! 全くもって余計なお世話です!!」
「そうだねぇ。ごめんね」
シリルの剣幕に驚いたソーニャだったが、すぐに微笑み謝ってみせる。
修道院で過ごした6年間、繰り返してきたお決まりのルーチンだ。
「いつもシリルの言ってたとおり、田舎者のわたしに大聖堂でのお勤めは無理だよねぇ」
「貴女はッ――」
さらに怒りを募らせて何かを言い掛けたシリルだったが、うつむき大きく一つ息を吐いて気を落ち着かせると、ソーニャの瞳を真っ直ぐ見つめ宣言した。
「私も一緒に行きます。今のままでは、貴女に勝ち逃げされるようなものですから!」
貴族の家柄で品行方正、成績も常にトップのシリルだったが、奇跡を起こす力だけは、ソーニャのほうが桁違いに優れていた。
教会の重鎮も無視できず、2代揃ってという異例の聖女認定式の運びとなった。シリルはずっとそのことを気にしていたのだ。
(そもそも奇跡の力以外で聖女を決めるってことのほうが茶番だけどな)
にやにやと人の悪い笑みを浮かべたフテネルが見下ろすなか、ソーニャは困った表情で首を傾げた。
「でも、辺境は危険だよ?」
「有事となれば戦場にも立つ。それが聖女の勤めでしょ!」
「ベッドに虫が出るよ?」
「む、虫ッ!?」
「草むらにはカエルとかヘビとかいるし」
「ヘッ……!?」
足が無いのも多いのも。シリルはとにかく虫のたぐいが大の苦手だ。
ソーニャの言葉から想像しただけで、青ざめ脂汗を流しフリーズしている。
「でっ、でも! それでも! それでは貴女だけが!」
「シリルは大聖堂でお勤めしたほうが皆のためになるよ」
「そ、それは――」
泣き出しそうな表情で言葉を探すシリルだったが、ソーニャの言葉に虚を突かれ口を閉ざす。
「しかるべき発言力を持つまで時を待ち、教団の腐敗を糺せ。そういうことですのね?」
「うん?」
ソーニャはそこまで考えてはいない。
虫に怯えたシリルがギャン泣きし、ソーニャが捕まえて窓の外に逃がすまでの大騒ぎを避けたかっただけだ。
『ま、適材適所だな。ソーニャがやらかさないよう、あたしがよーく見張っとくから』
「貴女はけしかける側ではなくて?」
へらへらと笑うフテネルに、シリルは疑惑のまなざしを向ける。
それでも、ソーニャが本当の意味で危険な目には合わないのは事実だろう。
なんせ、腐っても女神の使いであるのは事実なのだから。
「それじゃあシリルも元気でね。落ち着いたらお手紙書くね」
聖女であるにもかかわらず、放逐されるソーニャを見送る者はいない。
わずかな荷物を手に去り行くソーニャを、シリルは泣き出すのを必死にこらえた表情のまま、見えなくなるまでずっと見送った。