六話
それからというもの、リリーシアは王子殿下から絡まれることはぱったりと無くなった。
一度自分が生命の危機に瀕したということを、頭では分からずとも本能で感じたのだろう。近寄りすらしてこないのだ。
リリーシアと合わなくなったのと同時に、殿下はリリーシアの義妹、アンと一緒にいることが増えたようにも感じられた。それどころか、中庭のベンチで毎日仲睦まじく昼食を共にしているというのだ。
(あからさますぎない…? 婚約者に相手にされなくなったから他の女性のところに入り浸るって…。)
呆れを通り越してもはや心配である。あの男が次期国王になりでもしたらこの国は終わりじゃないか、とまで思ってしまう。学校の生徒たちもさぞ国の未来が心配なことだろうなあ…と呑気に考えながら昼下がりの校舎内を散歩していると、見知った人物が声をかけてきた。
赤みがかった、俗に言う“ゆるふわパーマ”と呼ばれる髪を揺らしながらリリーシアより一回り小柄な女子生徒が近付いてくる。
「お義姉様。ちょっとお話よろしいですか。」
何を隠そう、伯爵家には自分の他にもう一人子供がいたのだ。それが、このアンである。彼女は伯爵家の実子であり、両親の愛がリリーシアに向いてしまうと思い込んだ彼女は何かと敵意を向けてきたものだ。
そして彼女こそ、現在王子殿下とイチャコラやっていると噂の当事者でもある。
「あら、アンじゃないの! 久しぶりね…元気そうで良かったわ。それで話って何かしら?」
どうせあの男の話だという予想はついているが、素知らぬふりで聞き返す。
「お義姉様、アラン様との婚約の話です。私とアラン様は想い合っているのにも関わらず、お義姉様の存在のせいでアラン様は…あの人は思い悩んでいるんです! なのにお義姉様は我関せず…婚約者として最低だと思います! お義姉様からもお母さまに婚約を白紙に戻すようお願いしてください!」
どこかで聞いて事のあるセリフだった。自分の義妹でありながらお頭の出来が自分とはかけ離れている目の前の人物にかける言葉が見つからずリリーシアが黙っていると、さらに彼女はこう続けた。
「もういいですお義姉様。私にも考えがありますから…。」
先程までと打って変わって、意地悪気な表情を浮かべたアンは含みのあるセリフを吐いて自分の教室へと帰っていった。
(変なこと考えてないといいけど…。)
リリーシアが懸念したことは悪い意味で予想を裏切ってきた。
◇
そして時は三話冒頭、婚約破棄の場面に戻る。
正直、展開が急すぎるだろう…とリリーシアは思った。
何せあれ以来王子殿下どころか義妹のアンすら一切接触してこなかったのだ。それが突然放課後、高校の敷地にある中庭に呼び出され、周囲に多くの見物人どもを伴った状態でこれである。
現段階で婚約破棄するというのはさすがに無理があるだろう、とリリーシアは自分の事ながら他人事のように思考を巡らせていた。
「リリーシア、お前はどうして自分が婚約破棄されているかよく分かっているはずだ。」
王子殿下はさもリリーシアが何かをやらかしたかのような口振りだ。それに同調するかのように、涙目のアンも口を開く。
「そうよお義姉様。唯一の姉妹であるお義姉様には、素直に謝罪して罰を受けてほしいの。」
何を言っているのか理解できなかった。こいつらは冤罪を吹っかけてきているのだと理解するのに少し時間を要したが、何の証拠や論拠も彼らにはないはずなので少し様子を見ることにしたリリーシアは、億劫そうに口を開いた。
「私が何かあなたたち不都合なことをしてしまったのなら謝るけれど、私には全く何の事だかさっぱり分からないわ。」
これがリリーシアの素直な気持ちだった。一切接触していないというのに何を糾弾するというのか、リリーシアからすれば逆に好奇心をそそられる所である。
「とぼけたことを言っても無駄だぞ! お前がアン嬢にした悪逆非道な行い、見過ごすことはできん。ここに証人までいるのだ。言い逃れすることはできないぞ?」
不敵な笑みを浮かべこちらを見やるあの男の目はリリーシアを完全に敵とみなしているようである。
「証人…? 私は何もしていないですし、その証人の方々はどこにいらっしゃるのですか?」
リリーシアは気怠げな調子で聞き返すが、その様子に気付かない第一王子は憤った顔で叫んだ。
「リリーシア! 見損なったぞ。お前が素直に罪を認め、ここにいるアン嬢に謝罪をするなら俺たちは君を許そうと考えていたんだぞ。そのような見苦しい言い訳ばかり並べて、それでも俺の婚約者だった人間かっ! もうよい…。証人の者達を呼べ!」
ずらっと並ぶようにして登場したのはリリーシアが行った悪事を証明することの出来る証人たちだという。
「ここにいる者達はすべて、リリーシアが行った悪事を証明できる者たちだ。順番に説明しろ。」
王子殿下に促されるままに口を開いたのは眼鏡をかけた黒髪の女子生徒だった。
「は、はい…。あ、あの、私はアウグストさんがそこの妹さんを階段から突き落とす決定的な瞬間を見てしまいました。確か丁度四日前の昼休み、アンさんのいるBクラスに一番近い階段で見ました。」
「だそうだ。何か申し開きはあるか、リリーシア。」
唖然としたリリーシアをちらりと見た王子殿下はそう告げてくるが、彼女は声を発することができなかった。
「ふん、あれだけ啖呵を切っていたのにだんまりか…。まあ良い。次の証人は―」
「待ってください!」
勢いよく話を遮ったのは他でもないリリーシアであった。
「私にはアリバイがあります。私はその日その時間、あそこにいるエリスさんと談笑していました。彼女が証人になってくれるはずです。」
リリーシアは、固唾をのんで成り行きを見守る観衆の中から見知った顔を認め、指を指しながらそう言った。
当の名指しされたエリスという名の女子生徒は真っ青の顔を俯かせている。
彼女は、リリーシアの、この学校でできた数少ない学友の一人であり、昼休みに他愛もない話に花を咲かすぐらいには仲良くなっていたのだ。
彼女と過ごした昼休みの光景は容易に思い出すことができた。
「それは本当なの? エリス嬢…?」
殿下ではなくアンが問い詰める。その目には有無を言わさぬ迫力があった。
「え、えっと…それは…その」
言い淀むエリスを見てリリーシアは悪い予感を覚えた。いやまさか…そんなはずは、とリリーシアは頭の中で否定するが、最悪の予感が脳裏にちらついて拭い切れない。
「ごめんなさい…。わ、わたしはその時間、リリーシアさんとは一緒にいなかった…です。」
真っ青な顔で答えたエリスを見て、リリーシアの中で何かが切れた。
ヒュオオオ…とリリーシアから魔力の波動が発せられると、相対する王子とアンは思わず身じろぎしてしまう。
「お、お前っ! 何をしようとしている! たださえ罪を犯した咎人なのに、まだ悪さをつもりか!
この俺を害すればどうなるか分かって―」
<身体超強化>
リリーシアがそう唱えるころには、首につけた抑制用の魔法アイテムは音を立てて砕け散っていた。
「私はただ楽しい学校生活が遅れることができれば何でもよかった…。友達が少しいて、興味深い授業を受けることができれば…何でも良かった…それなのに…それなのにっ馬鹿なお前たちの勝手のせいでっ!」
学校生活が始まってから溜まりに溜まっていたモノが全て爆発した。何より許せなかったのは心優しい唯一の友・エリスを脅し、自分を陥れようとしたことだった。
ヒュン…と空気が聞こえたと同時に、一瞬にして王子との間合いを詰めたリリーシアは、渾身の正拳突きを放つ。
何かが潰れるような音とともに、凄まじい轟音が鳴り響いた。校舎の半分がリリーシアの一撃によって倒壊してしまったようである。王子殿下は咄嗟に出した腕が吹き飛び、その勢い余り、倒壊した校舎のがれきの中に埋もれている。
「ひいっ…」
思わず小さな悲鳴を漏らしたのは、王子殿下が元居た場所の近くでへたり込んでいるアン嬢だ。
何が起きているのかまだ理解が追い付いていない様子でガクガクと震え、呆然としている。
(やってしまった…。)
怒りに任せ暴力をふるったリリーシアは倒壊する校舎を見つめながら我に返った。
しかし、不思議と罪悪感は湧いてこなかった。
ざまあの後の展開何一つ考えてない…。