ダーク・タイム
プロローグ
矢野幸夫は冷や水を浴びせられたように眼を覚ました。夢を見ない程の熟睡から、突然、現実に引き戻されたのだ。
ベッドから上半身を起こす。あたりを見回す。4畳半程の部屋は上も下も壁が黒一色だ。天井には裸の豆電球が、侘しい光りを放っている。
矢野が寝ているのは粗末な木のシングルの黒塗りのベッドだ。掛け布団は黒の毛布、彼の着ているパジャマも黒、ベッドの下にある白のスポーツウエアーだけが鮮やかな色彩を放っている。
・・・ここはどこだ・・・反射的に腕時計を見るが、時計がない。スポーツウエアーを取り上げる。ポケットを探るが何も入っていない。
・・・そういえば・・・矢野は濃い髪をごしごしこする。四角い顔を撫ぜる。
彼が宿泊したのは”ホワイトナイトホテル”
白の大理石で敷きしめられたロビー、フロントに貴重品を預ける。ボーイに先導されて最上階に上がる。
部屋は白と金で統一されたロココ調。家具からベッドに至るまで渦巻の曲線や花模様が施されている。ダブルベッドはスプリングが程よく効いている。白の下地に桃色の花柄を染めた掛け布団が優しい眠りを約束する。そこは輝かしい将来を約束された矢野幸夫の特別室なのだ。
夜11時に就寝。朝7時に起床。迎えの車で会社へ出勤。夕方6時にホテルに戻る。
・・・そういえば・・・矢野は思い出す。就寝の30分前に黒いジュースを1本飲み干す。何で出来ているのかは判らない。ほんのりと臭味が感じられる。
・・・昨夜・・・矢野はジュースを飲まなかった。腐敗したような味に舌が馴染まないのだ。一晩位いいだろうと、飲まずにベッドに横になった。純白のネグリジェが彼の体を包む。暖かいベッドの肌さわりが心地よい睡眠を誘う。
・・・ここは一体どこなのか・・・
矢野の頭の中は混乱している。ホテルの豪華なベッドの中で寝ていると思っていた。
それが――、水をぶっかけられたような、何かで殴られたような衝撃をうけて、飛び起きた。
矢野はベッドから起き上がると、スポーツウエアーに着替える。靴は白の軽量シューズ、散歩には履きやすい。
ドアは内側に開く。ドア越しから外を伺う。幅1メートル程の廊下が長々と続いている。天井には5~6メートル間隔で豆電球が光っている。廊下の左右は、矢野のいる所と同じ部屋が並んでいる。人気がない。周囲の壁は黒一色だ。
とにかく廊下にでる。壁に触れる。合板と思っていたが、触れると冷たい。
――金属か?――と思ったが叩くと鈍い音がする。木でもなければ金属でもない。天井も低い。矢野は身長が1メートル70センチ。手を伸ばして背伸びすると手が届く。
「ずいぶん長い廊下だな」少々うんざりして、声を発する。
声が木霊のように反響する。まるで四方八方にスピーカーがあるように響く。思わず口をつぐむ。
部屋を出た時は周囲への警戒心もあって、そろりと歩いていた。今――駆け足で前進している。矢野はその事に気付いていない。
やがて、天井の豆電球がなくなる。周囲は漆黒の闇となる。矢野の足はそんな中を壁にもぶち当たらず駆けている。足だけが別の生き物のようだ。
突然足が止まる。矢野は思わず声をあげる。彼の眼は驚愕のあまり大きく見開いている。分厚い口はだらしなく開いている。彼が目にしたものは・・・。
前も後ろも、上も下も、右も左も、無数の人間が闇に浮かんでいる。人間は色々な衣服を着ている。男も女も、子供も大人も・・・。無数の人間が、燐のように光りながら宙を漂っていたのだ。
矢野の目の前を、数十体の人が羽のように、宙をゆっくりと動いている。
見知った者がいる。
「君は西口、あんたは吉本・・・」思わず声が出る。矢野の声は大きな反響をもって返ってくる。声は何倍も増幅されて、彼の耳をつんざく。思わず耳をふさぐ。
その時「誰?人がいる。まさか?」矢野の耳元で声がする。彼は恐怖心に駆られる。来た方向に踵を返す。一目散に廊下を走る。
長い廊下をかける。天井の豆電球も目に付く。それでも矢野は異様な光景から逃れようと走る。しばらく行くと前方に黒い霧のようなものが充満している。
「行ってはダメ、まだダーク・タイムは終わっていない」耳元の声が引き留める。
矢野は声を無視して黒い霧に突入する。霧と見えたのは小さな無数の塊だった。それも霧のように儚い。それら1つ1つが矢野の前進を阻んでいる。
矢野は蜘蛛の子を散らす様に、がむしゃらに前進する。5メートル程行くと、黒い霧はなくなる。矢野は救われた気持ちで眼を開ける。目の前の光景を見て絶叫し、立ち竦む。
・・・あなたのダーク・タイムは、完成しなかった・・・
失意
約10年前。
矢野は失意のどん底にあった。23歳で独立し、年商5億円まで成長させた会社が、僅か3ヵ月で倒産した。
大学卒業後、しばらくはブラブラしていた。幼い時に両親と死別。叔父の手で育てられ、自立の道を歩む事になる。世の中、不景気で碌な仕事にもありつけなかった。学生時代にアルバイトで貯め込んだ金も底をつきかけていた。
ある日路地を歩いていて、粗大ごみに眼がついた。本来ならゴミの分類で燃えないゴミは1ヵ月に一回広場に集められる。地域の自治会の活躍で整然と行われる。
が、現実は裏腹で、使い古しの家具、壊れたテレビなどが、路地の片隅に捨てられる。電気製品などは、新しい物を買う時に下取りされるが、下取りの費用が掛かるとなると、夜闇にこっそりと捨てる者が増える。
矢野は器用で電気製品の修理が得意である。粗大ごみの中から電気製品だけをかき集める。廃屋となった工場を借りる。部品などはメーカーに問い合わせると安く手に入る。
電気製品などは部品交換だけで新品同様になる。それを新品の7割から8割引きで売る。学生やニート、低所得者層が買っていく。品物は飛ぶように売れていく。
半年後、人を雇う。各家庭を回る。不要になった電気製品の回収を図る。修理も矢野1人では手が回らなくなった。パートを雇い、修理の仕方を教える。
2年3年とたつ。廃屋の工場を買い取る。販売店も、4店5店と拡大していく。
4~5年して、売り上げは5億円を超える。仕入れはタダ、運搬費と人件費のみ。修理不能品は廃品回収業者にまわす。
5年目、矢野28歳の春。新規事業を目論む。
電気製品も中古だけでなく、新品も安く仕入れる。電気製品は大量生産に大量販売を繰り返している。メーカー同志の競争も激しい。メーカーから割り当てられた商品を捌ききれず、激安の価格で横流しする販売店も多い。
その情報をいかに早く仕入れるかが、明暗の分かれ道になる。タダ同然の値段で仕入れれば、ボロい商売となる。
矢野に商才があるのか、順調な滑り出しを見せる。全国を駆け回る。現金が欲しい販売店を訪問しては、現金で頬っぺたを張る。札束を見せつけられて、大抵の販売店は首を縦に振る。
6年目の春、得意絶頂の矢野の元へ、いかにも紳士然とした人物が現れる。落ち着いた容貌の持ち主だが、どことなく翳がある。
名刺を出す。
――日本興業貿易商会、取締役社長東郷純平――
「実はお願いがありまして・・・」
東郷はアタッシュケースから書類を取り出す。矢野に見せながら、物静かな口調で語る。
半年前、某国のバイヤーから、30億円の電気製品の注文を受けた。某国でも電気製品は生産しているが、品質、性能はメイドインジャパンと比較して、遙かに落ちる。本来ならば日本のメーカーと直接取引したいところだが、当方の希望価格と合わない。
紳士は一息入れる。金縁の眼鏡がきらりと光る。穏やかな表情で矢野の四角い顔を見る。
「私も貴社と同じ商売をしておりまして」
某国のバイヤーは、色々な”つて”を求めて、日本興業貿易商会に辿り着いた。
「貴社と違う所は、私どもは安価に仕入れた商品を海外に流します」東郷のぽつりぽつりとした口調に熱がる。
そのバイヤーから、時価相場の半額で仕入れたいと言われた事だ。時価相場とはメーカーから販売店に卸す価格の事だ。例えば4万円のテレビは、大体6掛け。販売店には約2万4千円で入る。その半額の1万2千円で仕入れたいと言うのだ。
端からみると無茶な要求だが、30億円のキャッシュで支払うと言う。東郷は持てる情報網を駆使する。倒産寸前の販売店は勿論の事、整理屋(倒産した店の商品を一括で買い上げる業者)資金不足で首が回らなくなっている所をしらみつぶしに回る。
バイヤーの希望通りの価格と商品を集めた。出荷するために、貿易出荷用の倉庫を借りる。いざ、船荷という段になってバイヤーが倒産したと言う情報が入った。
東郷の穏やかな表情が暗くなる。
「船荷直前でバイヤー倒産が判明した事は不幸中の幸いでした」眼を伏せて淡々と話す。顔を上げると、憐れみを請うような眼つきになる。
東郷は半年前は10億の現金しかなかったと話す。残りの20億は高利貸しからの借金で、手形を切って、信用貸付で、かき集めている。
「あと1週間で20億を作らなければ、私・・・」東郷の表情に悲壮感が漂う。
「あの濁った川の中に、死体で浮かぶことになるでしょう」
窓の外の川を眼で指す。
矢野は黙して聞いている。こういう質の話は世間にはゴロゴロしている。倒産した店などの話は珍しくもない。
「30億の商品なら20億で売れるでしょう」矢野の当然の質問だ。
東郷には想定内の質問なのだろう。2~3回かぶりをふる。
「おっしゃる通りです。でも無理なんです」
東郷はかみ砕くように説明する。
まず金額、20億の代金を現金で支払えるところはめったにいない。しかも期限は後1週間。
次に車庫買いに2の足を踏む。金額が大きい事がこれに輪をかけている。
車庫買いとはアメリカで流行した方法で、車庫を借り切って、物置の代わりとする。普段使用しないものを入れておく。引っ越しや、入れてあるのもが不要になった場合、車庫ごと売る。何が入っているか判らないから買い手も慎重になる。
「でもお宅のは新品の電気製品ばかり」と矢野。
「おっしゃる通りです」東郷は否定しない。
「中古品も混じっているとしたら・・・」東郷は上目使いで矢野を見る。
「えっ!」驚いたのは矢野だ。
「しかし、先方には新品ばかりだと・・・」
「中古といっても未使用品ばかりです」」矢野は納得する。型が古いが新品でも中古扱いだ。
「でも20億なんて、うちでは・・・」矢野の心は動く。銀行で借金をして、かき集めれば10億は出来る。それが精一杯なのだ。
「では、こうしましょう。お宅が本当に引き取って下さるならば、8億で手を打ちましょう」
矢野は2度驚く。矢野の腹の内を見透かした言い方だ。
「しかし、困るんでしょう?20億ないと」
東郷は眼をぎらつかせている。うなずいたり、手を横に振ったりする。
「私、夜逃げします。長く貿易をやっていますから、フイリッピンかどこへ行きます」
東郷は倉庫の中の商品を見せる。30億で仕入れたと言う膨大な量の品物だ。某国への船荷許可証もある。現金と引き換えに倉庫の船荷預り証明書と売渡証書ももらう。
3日後、倉庫内の荷物の点検のために倉庫管理会社の事務所に行く。船荷預り証明書を提示する。事務所の係員はそれを偽物と断定する。倉庫内の荷物は別の会社の所有物と判明。
「しかし・・・」血の気を失った矢野は執拗に食い下がる。
「中をみせてもらった」矢野は東郷の名刺を見せる。
係員は無表情で別の書類を見せる。
――倉庫内の船荷の所有者が発行する販売委託状である。
某国のバイヤーへ輸出する商品であるが、輸出量に変動が生じたために、つまりは始め10欲しいと言ってたのに8でよいと変更された。残りの商品を売ってくれという委任状なのだ。許可さえ取れば倉庫に入れる。
黒い服の男
矢野幸夫は一瞬の内に全財産を棒に振った。天国から地獄へ真っ逆さま。金を貸してくれた銀行を廻って支払いの猶予をお願いしたり、金策に奔走したり・・・。その後の3か月間は血の池地獄だった。
数年で矢野が事業に成功する。友人、知人、親戚がちやほやする。時代の寵児ともてはやす。本人もその気になる。雲の上に載ったように心地よい。
莫大な借金を抱えて、世知辛い巷間に放り出される。人々は白目を剥いて、矢野を嘲笑する。誰も助けてはくれない。
3ヵ月後、金策尽きた矢野は裁判所に自己破産を申し立てる。裸一貫で、ボロアパートに転がりこむ。
気持ちが落ち着いてくると、悔しさがふつふつと湧いてくる。
・・・どうして、ああも簡単にだまされたのか・・・
倉庫内の船荷には送り主の荷札が表示されていた筈だ。それが巧妙に隠されていた。船荷を丹念に調べればわかる筈だった。
矢野は東郷の紳士然とした態度に安心しきっていた。倉庫内をざっと見回しただけだった。管理事務所に行って問合わせればよかったのに、それをしなかった。
要は矢野は得意満面の絶頂期にあって、慢心していたのだ。貿易の知識は皆無だ。8億で30億の商品が手に入る。欲が先に立って冷静な判断を失っていた。
1ヵ月が立ち2ヵ月が過ぎる。夏も終わる。秋になる。工事現場や道路舗装の仕事で何とか食いつなぎが出来た。
元来矢野は楽天家だ。幼い頃に両親と死別しているが、幼い時だけにその悲しみはない。感傷で心が傷つくこともない。親代わりの叔父夫婦には我が子のように可愛がってくれた。大学まで出してくれて、独立の資金までくれた。
はじめは事業も順調だった。突然の破綻に、はじめて挫折感を味わった。人情の裏表を嫌という程味わった。
・・・まだ29歳だ・・・人生これからだ。
立ち直りも早い。肉体労働で気分の発散できる。精神的なストレスもない。仕事をして思い切り汗を流す。めし屋での食事が上手い。冷えたビールは疲れを吹き飛ばす。ボロアパートの1室で我を忘れて眠り込む。こんな生活も案外極楽かも知れない。
数カ月で矢野は逞しくなる。日焼けした肉体は、自分でも惚れ惚れする。四角い顔も黒くなる。薄い眉に細い眼は、望洋とした印象を与える。
・・・何を考えているのか判らない・・・ところがある。
矢野は口達者ではない。無口ではないが必要以上の事は喋らない。仕事でも何でもやり出すと一途になる。仕事をしていて、こうすると良いのではないか、ああすると上手くいくのでは・・・色々と考えるのが好きだ。要は楽天家で前向きに物事を考える。人に対して疑いを持たない。
詐欺に遭って、事業を潰す。人への信頼感が揺らいでいる。道路舗装もビルの工事現場も孤独な仕事だ。仕事が終わった後、仕事仲間から一杯付き合えと誘われる。矢野は黙って首をふる。1人で飯をかっ込み、アパートでテレビを観ながらビールを飲む。酔うと横になる。無上の幸福感に浸る。
冬になる。肌寒さに野外での肉体労働は辛い。
・・・冬は仕事を変えようか・・・楽なことを考える。
12月下旬、世の中も忙しくなる。矢野も仕事を辞める。小銭がたまって心の中も暖かくなる。正月はどこか温泉でも行って過ごそうかと考える。
彼の住んでいるアパートは繁華街の裏手にある。4畳半1部屋にキッチンとトイレがあるのみ。風呂はアパートの1階にあり、住人が共同で利用している。
近くに大衆食堂がある。コンビニやカーマもある。1人で生活するのに不自由はしない。矢野は食事やアルコール以外のものは買わない。楽しみといえば近くの喫茶店でコーヒーを飲む事ぐらいだ。
・・・そろそろここのアパートにも見切りをつけて、別の仕事を探さなくては・・・
喫茶店で新聞の求人欄に眼をやる。
・・・もっと金が欲しい。大きな仕事をしたい・・・矢野は次のステップを踏むことに余念がない。
12月30日、喫茶店でコーヒーを飲む。客席十数ぐらいの喫茶店だ。右端にカウンターがある。奥が深く二間幅の間口だ。五分くらいの客の入りだ。ほとんど常連ばかり。
矢野は新聞を拡げてコーヒーを飲んでいる。
「ここ、よろしいですか?」黒づくめの男が声をかける。
「どうぞ」矢野は応諾しながら周囲を見回す。
・・・席はほかにも空いているのに・・・わざわざ俺の前に座りやがって、おかしな奴だ・・・」
新聞から目を離してチラリと相手を見る。
黒のオーバーコートに身を包んでいる。山高帽を被りコートの襟をたたて顔を隠している。サングラスが黒く光る。いくら冬とは言え、異様な風体だ。室内は程よく暖房が効いている。客の大半はジャンバーか毛糸姿だ。矢野はねずみ色の作業服だ。
・・・暑苦しい奴だ・・・矢野の印象は悪い。
矢野は黒い男の存在を無視する。新聞に眼をやる。男のコーヒーが運ばれてくる。男はコーヒーをブラックで一飲みする。
「矢野幸夫さんですな?」
男のしわがれた声がする。矢野はびっくりして顔を上げる。新聞を膝に置く。男のサングラスを直視する。
矢野はこの近辺では名無し草だ。名前を知っている人は居ない。知人も友人もいない。矢野はこの喫茶店の常連だが、名前を言った事もないし、聴かれた事もない。
ここは貧しい住宅が密集した、日陰の吹きだまりだ。事業に失敗し、借金取りに追われる者、帰る故郷もなく、身寄りのない者、犯罪者が人目を避けて、ひっそりと暮らす。
隣に誰が引っ越してきても無関心、いつの間にか姿を消す。注意すら払わない。喫茶店のマスターもその事を充分に心得ている。誰が常連客になろうと意に介さない。いずれ消えていく客だ。
誰が何処からきて、どこへ行こうと、聴くだけ野暮なのだ。
名前を言われて、矢野は驚く。男の声は周囲の客やマスターにも聞こえている。誰も振り向かない。耳もそばだてない。脛に傷を持つ者の話には耳を傾けない。それがこの”町”の生き方なのだ。
矢野は返事をしない。男をじっと見る。
・・・、まさか、やくざではあるまい・・・
借金をしたのは金融関係だけではない。友人知人、高利貸しからも借りまくっている。ただし闇金融だけは手を出してはいない。ひょっとして、高利貸しがやくざを使って、借金の取り立てに来たのではないか・・・。
自己破産をしようとしまいと、彼らは強引に取り立てをする。
矢野は全身を固くする。黒ずくめで異様な風体だ。背筋が寒くなる。金縛りにあったように体が動かない。矢野は腕力はないが、体力はある。もし借金の取り立てのやくざならぶん殴って、この場をとんずらしなくてはならない。
矢野の頭は目まぐるしく動いている。
「怪しい者ではありません」男は内ポケットに手を入れる。
ピストルでも取り出すのではないか・・・。一瞬、矢野は緊張する。その場を飛び出そうと身構える。
男が取り出したのは名刺だ。矢野はほうと大きく息を漏らす。テーブルに置いた名刺は黒色だ。文字が白抜きになっている。
矢野は男の顔を見ながら用心深く名刺を手に取る。
――ダーク・タイム案内人、黒野黒太――
・・・何だこれは!名前までが黒か、ふざけている・・・
矢野はウンザリして顔で名刺を見る。数秒見つめる。急に白い文字が浮き上がってくる。びっくりして下地の黒を見る。黒い穴に吸い込まれるような錯覚にとらわれる。名刺に中に体が入り込んでいく。
はっとして名刺をテーブルの上に置く。黒野と名乗る男の顔を見る。
・・・一体何者なんだ・・・矢野は背筋が寒くなる。
黒野はサングラスをとる。太い眉に、そげた頬、長い顔だ。矢野の驚いた顔を見て楽しんでいるようだ。
その目を見て、矢野はぎくりとする。白眼がない!いやあるのだが、ほとんど黒目が瞳を覆っている。
・・・まるで漆黒・・・普通、瞳は生き生きとした輝きがある。眼光、人によっては様々だがギラギラと光っている。それがない。死人の眼のように黒くどんよりとしている。
「あなたは詐欺に遭って破産しましたな」黒野は黒い口を開ける。鉄漿のような口だ。
「どうしてそれを!」矢野は気味悪さを忘れて叫ぶ。
声が大きかったのか、カウンターの中のマスターや常連客がチラリと振り向く。
ダーク・ナビゲーター
黒野は、お前の事は何でも知っているぞという顔をする。矢野は眼を大きく見開いて相手の眼を見る。引き込まれそうな感じだ。身動きすら出来ない。
「あなたの過去をさらけ出すために、ここに来たのではありません」黒野は冷静な口調だ。
「私はダーク・タイムの案内人、つまりナビゲーターです」
黒野の声は小さい。口も動かさない。にもかかわらず矢野の鼓膜にじんじんと響いてくる。
「私の話聞いて下さいますかな?」
うむを言わせない強さがある。矢野は操り人形のように頷く。
この世界で生きる者はすべて活動と睡眠を繰り返す。
睡眠は疲労回復だけにあるのではない。寝ている間は闇の世界とつながっている。繋がりが深ければ深いほど、闇の世界からの恩恵も大きい。寝ざめた後の爽快な気分は誰しもが経験するところ。
ただ――、黒野は光のない黒い眼を矢野に向けている。
端からみると、2人は人形のように動かない。声も出さない。2人の間だけが時間が停止している様に見える。
この場合の闇の世界の恩恵は肉体と精神の回復だけにとどまる。朝起きて夜寝るまでの間、身も心もする減っている。その回復の恩恵に過ぎない。
もっと大きな恩恵を、闇の深奥から得る。そうするとその人の人生は大きく変わる。
この世の富も権力も思いのまま。老人は若々しくなり、若者は活力に溢れる。我が世の春が訪れる。
ダーク・タイム、闇の深奥の世界に浸る時間――特殊な睡眠に案内する、それが私の役目なのだ。
「しかし・・・」矢野は必死に抵抗を試みようとする。黒野の気迫が矢野を圧倒している。反発する力をかろうじて保っている。
「闇というと、悪魔的な力。光りの世界から締め出されたおどろおどろしい呪われた世界・・・」
矢野のかぼそい声を聴いて、黒野は破顔する。真っ黒な口をあけて笑う。
「聖書をご存知か?」
――創世記、第1章――
はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が渕のおもてにあり・・・。
「よろしいか、光は闇から生まれた。闇が主体なのです」
矢野は黒野の眼から視線を外す事が出来ない。蛇に睨まれた蛙のようなものだ。聖書を例に出されても納得できるものではない。
「ダークマターをご存知か」矢野の心の内を見透かしている。黒野は得意満面で話を続ける。
1970年代にヴェラ・ルービンという女姓天文学者が宇宙の膨張では説明できない銀河の動きがあると主張。
――銀河が互いに遠ざかるのは宇宙空間そのものが膨張しているためで、銀河は動くことはない――
しかし、銀河の集まりである局部銀河群にみられる30数個が、宇宙の膨張に関係なく動いている様に見える。これは特異運動と呼ばれ、以前から知られていた。
ビッグバン理論では、銀河は互いに1万キロメートル/秒のスピードで遠ざかっていかなければならない。
ところがルービン達の観測によると、それ以外に毎秒数千キロのスピードでランダムに動いている銀河があると言う。
ルービンは銀河の回転速度を調べた。
殆どの銀河は中心部が大きく膨らんで明るくなっている。星がびっしりと詰まっているのだ。外部は膨らみも薄くなる。中心部のような明るさがない。
以下ルービンの予測
銀河の中心部に重い物質がある。周囲にはそれより少ない物質しかない。従って回転速度は中心から離れれば離れる程速度が落ちる、筈だ。
ルービンは銀河の中心部から10キロパーセク(3万2600光年)、20キロパーセク、30キロパーセク離れた場所の速度を調べる。速度が落ちないのだ。銀河の光っている部分の端まで調べても、速度は落ちない。
銀河のどの部分でも速度が変わらないのは、何か引っ張っている力、重力となる物質があるに違いない。銀河の光っている部分の外側、暗くて何もないように見えるこの部分に、何らかの物質が存在するに違いないと考えた。
現在、ビックバン理論で考えられている、見える範囲の宇宙の広がりは10の28乗センチメートル。
しかし、銀河を今ある観察事実のように回転させるには、銀河の光って見える部分の10倍は不足している事が判明してきた。
物質量が少ないと言う事は、引っ張る力が弱いと言う事だ。それでは銀河はすごい速さで回転する事は出来ない。それに、引っ張る力が弱いので、1億~10億年で、星々が銀河から飛び去ってしまう。
ビッグバン理論では、宇宙の年齢は百憶から2百億年とされている。そうならば銀河団の銀河は、とっくの昔に飛び去ってしまっている。
――見えない物質――ダークマターが存在するのだ。
つまり、宇宙の全質量を100とするなら、眼に見える形であらわれている物質は10という事になる。
「ダークマターは、地球、この地域、全てにおよんでいます」
身に見える物質の周囲には、十倍以上のダークマターが存在している。その存在は、現在のどんな高度な科学技術をもってしても実証できない。
「我々をはぶいてね・・・」
黒野はにやりと笑う。
矢野は少し落ち着いてきた。
・・・それがどうしたと言うんだ・・・俺と何の関係があるのか・・・
黒野の光のない眼は、じっと矢野に向けられている。
「ダークマターで過ごしてみませんか」つまりダークタイムを経験してみないかと言うのだ。
「栄耀栄華は思いのままですよ」
「で、その見返りは?つまりお礼はいくら?」
与野の心の中は冷えている。バカバカしい。ダーク・タイムだの、ダークマターだの、空想小説の読みすぎじゃないのか。
それに――矢野は詐欺に遭って間がなない。いくら楽天家でも、手ひどい目に会えば、用心深くなる。
・・・金をむしり取って、ドロンするつもりなのだろう・・・
黒野はにやにやしている。矢野の心を読み切っている。
「お代はいりません。報酬も求めません」
そういわれても矢野の心は動かない。
――何かワナがあるに違いない――黒野という男にも今会ったばかりだ。得体が知れないばかりでなく、何となく、うん臭い。
「私の話に乗りたいとおもったら、黒野と呼びかけてください」
黒野はサングラスをかける。骨ばった手を矢野の前に広げる。
「あっ!」矢野は眼がくらむような衝撃を受ける。はっとして目の前を見る。誰もいない。夢を見ていたような気分だ。
「マスター、ここにいた人は?」カウンターの中でコーヒーカップを拭いているマスターに呼びかける。
「えっ?」年配のマスターは怪訝そうな顔をする。
「誰もおりませんが・・・」
矢野はポケットの中の名刺が消えているのに気が付く。
ダーク・タイム
矢野幸夫は呆然として喫茶店を出る。はじめから誰もいなかったというのか。俺は夢をみていたのか・・・。
頭の中が混乱している。運の悪い時は何をしてもおかしなことが起こる。
年末で仕事がない。気晴らしにパチンコでもやるか。矢野は今までパチンコをやった事がない。興味もない。もう一度旗揚げするための資金作りに余念がないのだ。
・・・今日はどうもおかしい・・・4畳半の部屋で缶ビールを飲む気にもなれない。何をする気にもなれないのだ。我が身を持て余している。パチンコだって、やりたくてやるのじゃない。何をして良いのやらわからぬ。仕方なしにやるだけだ。
表通りに出る。少し歩くとパチンコ店に突き当たる。
宏大な駐車場には車が8分ほど入っている。店内は広い。耳を塞ぎたくなるような騒々しい音に襲われる。1万円でパチンコ玉を買う。矢野はパチンコ台の良しあしは判らない。空いている台に陣取る。玉は機関銃の弾のように台の中に吸い込まれていく。3回ばかり入ったが、玉がなくなるのに10分とかからない。
・・・くそ面白くもねえ・・・もうやめよう。ビールでも飲んでテレビを観てた方がましだわな。ぶつくさいいながら憤然と立ち上がる。大股で歩こうとして、床に置いてあるパチンコ玉の入った箱を蹴る。玉が床に飛び散る。
「何しゃがる、てめえ!」やくざ風の男が矢野の胸倉をつかむ。矢野は椅子の下に積まれたパチンコ玉の箱を蹴散らしてしまったのだ。
矢野が頭を下げるよりも早く男のゲンコツが矢野の顔に飛んでくる。
2,3発殴られ、パチンコ玉の代償として有り金の5万円をむしり取られる。散々な目で自分のアパートに帰る。
部屋に入って、呆然とする。畳がめくられて、虎の子の百万円が消えている。矢野は必死になって貯めた金だ。矢野はその場に崩れた。
泥棒と叫ぼうと、警察を呼ぼうと無駄だ。裏長屋の住民は、叩けば埃の出る連中ばかりだ。この界隈にすむ連中も同じようなもの。
――取られる方が悪いんだ――事情を訴えても同情されるどころか、嘲りの眼で見られるだけだ。
手元には夕食代が残るのみ。
翌31日、収入の道を求める。日雇いの仕事探しに奔走する。盛り場に行く。職にあぶれた連中が焼け酒を飲んで暴れている。矢野も巻き込まれる。警察のご厄介になる。
・・・なんて厄日だ・・・黒野という男にあってからというもの、災難続きだ。
・・・こままだと、昼めしどころか、夜の酒代もない・・・
ホームレスの仲間入りをするか、乞食は3日やったらやめられないというが、再起を図る矢野としては、そこまで落ちぶれたくはないのだ。
絶望感に苛まれる。酒を飲んで自暴自棄になりたいが酒を買う金もない。それに今日中に家賃を払わねばならない。
・・・夢かも知れんがよんでみるか・・・
黒野という男を、喫茶店のマスターも常連客も見ていないと言っている。
――俺は夢を見ていたのか――と思うのだが、この際、藁でも掴みたい気持ちだ。夢でもいい、ここから離れたい。
職にあぶれ、公園のベンチに腰かけている。矢野の四角い顔がやつれて見える。
明日は正月、町中は騒々しい。寒空の下、公園のベンチに腰を降ろしているのは矢野1人のみ。
職のない人間には年末も正月もない。商店街や食堂など年始年末に稼ぐところに潜り込もうと必死になる。あぶれた者たちが昼からやけ酒をあおって警察の厄介となるのだ。
・・・夢でもいい・・・とは思うものの、もし本当に夢だったら、何と惨めな事か・・・。矢野は逡巡する。
晴天で太陽が真上にある。
・・・太陽の下でダークマターか・・・自嘲する。涙も出ない。嘘でもいい、やてみるか。
「おーい、黒野さん!」2度3度叫ぶ。声は晴天の空に吸い込まれる。
・・・やっぱり、夢か・・・失望するが諦め切れない。腹にぐっと力を入れる。愛しい人の名前を呼ぶように、ありたけの声を出す。急に涙が出てくる。悲しいのではない。切ない思いが胸一杯に拡がってくるのだ。
真摯な叫びが矢野の胸の内からあふれ出す。一陣の風が矢野を襲う。突然目の前が暗くなる。眼が潰れたのかと思った。眼を瞑り、両手で顔を覆う。
「お呼びになりました?」しわがれた声だ。
矢野ははっとして顔を上げる。目の前に、太陽を遮るように黒野が立っている。
「ダーク・タイムに連れていって下さい」矢野は素直に頭を下げる。
「それは上々・・・」黒ずくめの姿から歓喜の声が漏れる。
以下黒野の言葉。
――ダーク・タイムは今日から始まる。条件は夜11時には必ず就寝する事、これを千日間続けること。床に入るまでは夜遊びしても良い、酒を飲んでも良い。寝る時これを飲む事――
黒野はオーバーコートの内ポケットから1本の小さい瓶を取り出す。真っ黒な液体が入っている。
明日は正月。正月明けの4日の朝、迎えに行く。就職先を世話しよう。黒野は内ポケットから10万円を取り出す。これで当座の生活費に当てろという。
矢野は金を渡されて涙が出る程嬉しい。これでアパートの家賃が払える。ホームレスの仲間になる事もない。正月の3日間は充分に賄える。
「この瓶は1日に1本か?」矢野は質問する。今夜はこれで間に合うが明晩はどうなるのか?黒野が毎日届けてくれるのか、それとも誰か他の者が・・・。
黒野は黒い口を開けてニヤリと笑う。その疑問は明日になれば判るという。
「よろしいですかな。日1日とあなたの生活は豊かになっていきます。権力も身についていきます」
黒野はサングラスの眼を矢野に向けている。
「千日間、1日も欠かさない事。満願成就の時は、あなたはこの世の栄耀栄華が約束されるでしょう」
黒野はサングラスをとる。吸い込まれるような黒い瞳が矢野を射る。矢野は催眠術にかかったように黒野の眼を見る。
「たとえ1日でも怠った時は・・・。これが999日目であったとしても・・・その時は・・・」
黒野はそれ以上は言わない。サングラスをつける。急に目の前が暗くなる。矢野はたまらず眼を瞑る。しばらくして眼を開ける。晴天の空と人気のない公園の佇まいがあるだけ。矢野の手に10万円の札束と小瓶が握られていた。
矢野はアパートに帰る。大家に来年の1月分の家賃を払う。
家賃は1日でも送れると、ドアの鍵を代えられてしまう。ここは世の中の吹きだまりのような場所だ。夜逃げ、犯罪者、借金取りから逃げている者、放浪者など、世の敗者が風に舞う木の葉のように集まってくる。半年も1年も居座る者は少ない。ある日突然姿をくらます。
大家は月末には必ず集金に来る。払わない者は、すぐにも強面のお兄さんがやってくる。強引にアパートから追い出される。ここには法律など通用しない。家賃を払わない。立ち退かない者の情報はすぐに知れ渡る。簡易宿でさえ泊めてくれない。早く言えば”ここ”から追い出される。
矢野はそれを知っている。大家にまず家賃を払ったのである。その上で大衆食堂で昼飯を食べる。満腹ななると気持ちも落ち着いてくる。夕方まで映画館で時を過ごす。夜は少し張り込んでレストランで洋食を注文する。コンビニで酒とつまみを買う。アパートに帰る。11時までNHKの紅白をみて過ごす。
――この瓶は、夜11時から1時までの間に飲む事。飲んだらすぐに就寝すること――
矢野は言われた通りに小瓶の蓋を取る。ムッとするような臭気が鼻をつく。物の腐ったような臭いだ。一気に飲み込む。毒ではないだろうが、喉が焼ける様に熱い。
すぐにせんべい布団にもぐりこむ。
1分もたたない内に深い井戸に落ち込んでいくような感じになる。金縛りにあったような気分だ。目の前が暗い。深海の中を漂うような安らぎが全身を覆う。室外の騒々しいさは全く聞こえない。意識だけが研ぎ澄まされていく。
・・・ダーク・タイムにようこそ・・・
黒野のしわがれた声が響いてくる。外からではない。心の、深い意識の底から噴き出してくる。
・・・これから千日間頑張ろう・・・
・・・頑張ろうと言ったって、臭い物を飲んで寝るだけじゃないか・・・矢野は心の中で呟く。
・・・その通り、ただ寝るだけ・・・黒野は矢野の心の内を見透かしている。
彼の声が響く。寝て起きて、また寝る。毎日、これの繰り返し。日々新た。繰り返すたびに物質的にも精神的にも向上していく。給料も上がる。地位も昇進する。
――明日は正月、必ず月の初めには神社にお参りする事――
正月に限らず月の初めには神社詣りをしろという。祈りはダークマターに心を向ける有力な手段なのだ。
――ダーク・タイムを通じて、君は我々と一体になるのだ。さあダーク・タイムに入れーー
声が終わらぬ内に、矢野の意識は遠のいていく。深い眠りの内に入っていく。
黒川企画商事
翌朝7時に眼が覚める。今まで味わった事のない清々しい気分だ。体力も充実している。顔を洗い、作業服に着替える。外に出る。町はゴミゴミしていても正月気分に溢れている。所どころに小さな門松がある。注連縄も転々と見える。
近くの神社に詣でる。普段は閑散としていても、正月だけは初詣での人で一杯だ。
・・・これから俺の人生は変わる・・・矢野は確信する。一晩熟睡しただけで、若返った気分だ。何でもやれるという気持ちになっている。
表通りに出る。普段交通量の多い道路も、車はまばらだ。
商店街も人気はない。コンビニだけが店を開いている。駐車場には数台の車が停まっている。
矢野はコンビニに入ると、数種類の新聞を購入する。正月用の新聞は量がある。安アパートの自室に戻って、畳の上に拡げて丹念に活字を拾う。
矢野の部屋にはテーブルがない。食事も外食。台所は茶を沸かす時のみ使用。あるのは中古の14インチのテレビのみ。ゴミ捨て場に捨ててあったのを拾ってきて直して使っている。寝具もゴミ捨て場で拾って使っている。
事業に失敗して以来、矢野は新聞や本を読んだことがない。そんな暇もなかった。明日の糧よりも、今日のおまんまをどうやってか稼ぐか、その事で頭が一杯だった。
久し振りに新聞の活字を追う。新聞は隅から隅まで読むと読みごたえがある。昼になる。大衆食堂に駆け込む。矢野は常連となっている。めしはうまいし、安い、正月も盆も店を開いている。店内は10帖程の広さで長机が所狭しと並んでいる。おかずはカウンターの上にずらりと並んでいる。めしを注文し、せめて正月用にと数の子を食べる。黙々と飯を喉の奥にかっ込む。15分ぐらいで食べ終わる。代金を払って店を出る。食事中は無言である。顔見知りの人がいても、眼で挨拶するだけだ。食べ終わるとそそくさと退出する。
喫茶店に入る。30分ばかりコーヒーを飲んで寛ぐ。喫茶店を出ると隣町まで歩く。歩きながら道行く人の表情をみる。店舗や住宅街、公園などを観察する。
矢野はそんな自分の行動にはっとする。今までこんな歩き方はしなかった。仕事欲しさに眼をギラつかせて、右往左往していた。人と眼を合わせる事が怖くて、俯いて歩いていた。猫背姿で、時には缶ビールを飲みながら、町中をうろついていたものだ。仕事のない日は特にひどかった。金がないので、料亭や食堂の裏口に入り込み、残飯を漁った事もある。
今――矢野の心は晴れやかだ。この地域は人通りが多いとか、金持ちの住む住宅街だとかを見ながら歩く。
正月だから人通り少ないものの、人の流れが良くわかる。歩く事になれているので疲れない。夕方コンビニで弁当とお酒を買ってアパートに帰る。
夕方5時、アパートは陽がささない。1日中じめじめして暗い。その割に外は騒々しい。アパートの住民の夫婦ケンカ、子供の泣き声が絶え間ない。酒の上のいざこだも多い。
4畳半1部屋の電灯をつける。矢野はあっと声をたてる。ホータブル式のテレビの上に小瓶が置いてある。昨夜飲んだ空の小瓶が無くなっている。いつ誰がおいたのか、一応ドアの鍵はかけている。チャチな鍵だから開けようと思えば開けられる。
・・・黒野さんか・・・それしか考えようがない。夜11時に飲めという事だ。
テレビをつける。正月の番組は他愛のないものばかり。弁当を食べて、酒を飲む。9時頃1階のフロに入る。ステンレス製の2人用風呂だ。3人も入れば一杯だ。ここは風呂があるだけ上等なアパートといえる。
11時に、小瓶の中の黒い液を一飲みする。臭い匂いを我慢しながらぐっと喉に押し込む。急に体がだるくなる。布団にもぐりこむ。
――今日は充実した1日を過ごせましたか――
黒野の声が心の底に響いてくる。
・・・ああ・・・矢野は今日の自分の行動に納得している。
それから・・・深い眠りに入っていく。
2日、3日が瞬く間に過ぎる。4日の朝、8時に黒野が迎えに来る。大家には部屋を出る事を伝える。持っていくものは何も無い。テレビも布団も拾ったものだ。
黒野は黒野オーバーコートに山高帽、サングラスで顔を覆う。裏町のドヤ街に立つ姿はどう見ても異様だ。やくざのヒットマンと間違われる。アパートの玄関先で、矢野の出てくるのを待つ。住人の好奇心の眼が矢野に向けられる。
――とうとう借金取りに捕まって、川に沈められる――そんな表情が表れている。矢野を憐れむ目付きではない。
――こいつは見物だぞ――ぎらついた好奇心の眼が光っている。
矢野は3日間、黒い液体を飲んでいる。1日1日と体力と気力が漲っている。フンと鼻を鳴らす。傲慢なほどに胸をそらす。黒野の跡に続く。
裏町の北側に川が流れている。しばしば猫や犬の死骸が浮かぶ。家庭のごみを平気で捨てる。果ては酔っぱらいが小便をする。悪臭を放って汚い。長雨や豪雨などで、川が氾濫する。裏町は床下浸水となる。いつもじめじめしている。裏町の南側は幅6メートルの道路がある。道路の南側は3メートル程高い。高台に小ぎれいな住宅が立ち並んでいる。
その1キロ程先に南に幅16メートルの幹線道路がある。この道を挟んで繁華街や住宅街がひしめいている。
矢野と黒野は裏町の道路を西に歩く。
――仕事を紹介してやる――黒野は暮に10万円くれた。俺が持ち逃げするとは考えなかったのか。
矢野は黒野をチラリと見る。背丈は矢野と同じ。この男にとっては、10万円などはした金なのだろうな、矢野の頭の中は目まぐるしく動いている。
5百メートル程歩くと橋に出る。川が裏町を囲むようにして歪曲しているのだ。
橋は20メートル程の長さだ。橋の向こうは住宅や工場が拡がっている。見慣れた光景だ。
橋を渡りかけた時、黒野は矢野の手をぎゅうと握る。氷のように冷たい。しかも痛い。矢野は振りほどこうとして手を引っ込める。黒野の手は岩のように固い。握られた手は凍りついたように動かない。
橋を渡る。まだ8時過ぎだというのに車や通行人の行き来が多い。矢野は急に目まいがする。気持ちも悪くなる。目の前が暗くなる。足はしっかりと歩いている。
はっとする。目の前が明るくなる。いつの間にが橋を渡り切っている。握られた手も解放されている。黒野は足早で歩いている。矢野は歩く事に慣れている。黒野の後ろを歩きながら街の光景に眼をやる。
大手ハウスメーカーが分譲した宏大な団地だ。建物の屋根も壁もカラフルで美しい。建てられて日が浅い。団地の横手に工場が立ち並ぶ。この道は矢野の散歩道だ。
見慣れた風景なのに、何か違和感がある。口では上手く説明できない。夢の中を歩いているような、ふわついた雰囲気がある。眼にするものすべてが”浮いた”感じがする。
黒野は矢野の思惑をよそに、どんどんと歩いている。やがて街は途切れる。丘を1つ超える。はるか西の方に大きな街が見える。
1時間後、2人は都会のビル群の中に立っていた。
「着いた。ここだ」黒野が指さす方向に、黒いタイル張りの7階建てのビルがある。ビルは幅15メートル程しかない。のっぽビルという形容が相応し。窓が小さい。周囲のガラス張りのビルとと比較すると異様である。
ビルの正面に”黒川企画商事”と書いてある。
――何から何まで黒か――
矢野はもう驚かない。どうせ建物の中も真っ黒なんだろう。煤けた煙突の中で仕事をするみたいだ。すべて黒で少々うんざりする。身に余る給料をもらうのだから仕方がないか。矢野は黒野の後に続いて建物の自動ドアをくぐる。
玄関ロビーに入って、矢野は驚愕する。彼の予想を裏切って、ロビー内は豪華絢爛だ。床は白の大理石で統一されている。壁の大理石はコバルトブルー。2基あるエレベーターは朱色の花柄模様が施されている。天井には2メートルおきにシャンデリアがぶら下がっている。
左右はガラス張りの事務室。室内は明かりが煌々と輝き、コバルトブルーの壁が美しい。ビルは奥が深いのか、2間幅の廊下が延々と続いている。
玄関ロビーにカウンターがある。受付には紺の柄模様のスーツを着た青年がいる。紅顔の美少年だ。目鼻たちがくっきりしている。
「矢野さん、どうぞ奥へ」声と共にカウンターの一方が開く。普通の貸しビルのように、玄関を入って勝手に通行できるわけではない。
玄関ロビーを入る。カウンターが間仕切りとなっている。その中にエレベーターがあり、事務所がある。
あまりの美しさに呆然と見惚れる矢野、声をかけられて我に還る。側にいる筈の黒野がいない。
「あの・・・、黒野さんと一緒で・・・」矢野は口ごもる。受け付けの美少年は微笑して、どうぞ奥へと矢野を通す。ガラス張りに事務室からグレーのスーツを着た中年の男が現れる。矢野を先導して奥に入る。エレベーターに乗る。エレベーター内は牡丹の花が彩色されている。最上階の7階で停まる。外に出る。南北に長い廊下があり、部屋が並んでいる。矢野は一番南側の部屋に案内される。
室内は黒い一色だ。黒の絨毯にソファ、テーブル、部屋の隅の執務机、天井の照明灯だけが、淡いオレンジ色の光を放っている。
「どうぞ、お座りください」執務机の椅子に腰を降ろした男が声をかける。矢野がソファに腰を降ろすと、男もソファに座る。
「私、こう言う者です」男が取り出した名刺には、
・・・黒川企画商事、社長・・・とある。
矢野は名刺を押し頂いて、相手を見る。大柄でどっしりとしている。総髪で眉が濃い、鼻翼のはった鼻と大きな口が特徴だ。肌に張りがある。小さい眼が慈しむように矢野を見ている。
「あの・・・、私、黒野さんから・・・」矢野はぼそりと言う。
矢野の体格この男と負けず劣らず大きい。矢野は四角い顔に分厚い唇と、形の良い鼻梁に特徴がある。
小さい眼をことさら大きく見開いて、相手の反応を伺う。
黒川社長は判っているとばかりに鷹揚に頷く。
「黒野君から、この会社の事は聞いているね」社長は携帯電話を取り出すと、面談は済んだと一言話す。
しばらくして、先ほどの男が部屋に入ってくる。エレベーターで3階に案内される。
「君はここで働く」通された部屋は”企画立案部”と書いてある。部屋の中はスカイブルーの壁。事務机が4つ並んでいる。机の上にパソコンや受話器が置いてある。部屋の端にコピー機やファックス機、その他の事務に必要な書類机ががある。部屋は10帖程の広さ。
「私の他に誰が?」「君1人だけだ」
中年の男は7・3に分けた髪を撫ぜつける。細い眼で矢野を見る。仏頂面でのっぺりした表情をしている。
「君の仕事は、何でもよいからアイデアを出す事。出たら、ここへファックスする事」
どんなアイデアでもよい。たとえば全自動乾燥洗濯機がある。洗濯して乾燥までしてしまう。これに折りたたむ機能がつくとなおよい。
のっぺりした顔の割には、言う事が冗談っぽい。そんな洗濯機が出来る訳がない。
「君!出来ないと思ってしまったら、文明の進歩は有り得ないのだ!」矢野を指さして詰問する。
・・・俺の心の内を読むことが出来るのか・・・矢野は眼を丸くする。
「とにかく、どんな馬鹿げたことでもいい、こんなのがあったらいい。何でもいいからアイデアを出してくれ」
男の名前は菊田。企画管理課長という肩書だ。
「君は1ヵ月間、会社の地下の社員寮で得泊りしてもらう」地下3階の部屋の鍵を渡す。食堂は地下1階。昼の2時から仕事にかかる事。菊田はこれだけ言い残すと、部屋を出ていく。
与野は言われた通りに地下3階の自分の部屋に入る。地下室というと、じめじめした雰囲気を想像してしまう。部屋に入ってびっくり。ワンルームではあるが花柄の壁に白いベッド、トイレとユニットバスが完備している。クロゼットは社名入りの上着とズボンが2着。
ネーム入りの上着とズボンに履き替える。食堂に入る。大広間で優に50名は一堂に会食できる。料理も結構うまい。極貧暮らしが身に染みているせいか早食いである。30人ぐらいが昼食を摂っている。雑談しながら、ゆっくりと口を動かしている。
一旦部屋に還る。1時半まで仮眠する。2時に事務室に入る。矢野以外誰もいない。パソコンのキーボードを打ちながら、ディスプレイから流れる情報に眼をやる。テレビのニュースを見たり、外の世界の状況を把握しようと努める。
――アイデアを出せ――何でもよいとはいうものの、いざとなるとなかなか出てこない。菊田は無理はするな、コーヒーでも飲みながらリラックスしてやれという。
入社1日目である。社長と面談して、しっかりやるように激励されている。身も心も緊張している。3時間必死になって、脳みそを絞るが何も出てこない。5時になって自分の部屋に戻った時はぐったりしている。こんな事ではこれからが思いやられる。溜息が出る。
夜11時、ベッドの横にある小瓶の黒い液体を飲んで横になる。体が金縛りにあったようになる。黒野の声が響く。黒野は色々とアイデアを喋る。15分位すると、その声も消える。矢野の意識も奈落の底に落ちていく。
それから――。
毎日アイデアがいくつも出てくる。黒野の声にしたがってファックスを流しているだけだ。1か月後、地下の社員寮から、社外の社員寮に移る。洋室と和室の3部屋、バスやトイレもある。独身寮なので食堂もある。
2ヵ月後、矢野の下に部下がつく。新入社員だ。西口と吉本である。2人とも20代。矢野よりも6つ若い。
奇妙な光景
1ヵ月後の牢屋のような生活から解放される。新しく移転した独身寮は会社から徒歩5分である。商店街の一角にある。仕事から解放された自由な時間がタップリある。仕事も新入社員の面倒を見るのが主となる。アイデアを出す仕事から解放されて、気分的にも楽になっている。
社外の独身寮に移って1ヵ月後、矢野は久し振りの休日を遠出で過ごす。
3ヵ月前に矢野が住んでいた裏町に行ってみたくなる。急に懐かしくなる。無愛想な大家や、いつもにこにこしている喫茶店のマスターの顔が見たくなった。常連客にも会いたい。矢野はグレーの作業服を着こんで出かける。
裏町のある隣町まで約4キロ。町と町を結ぶ幹線道路が東西に走っている。東の方の坂道を歩く。3キロ程歩くと下りになる。道路は休日でも自動車の交通量が多い。左側に川が並行して流れている。
道路は隣町の表通りの繁華街へと直線で伸びている。町はずれで川は鍵型に曲がる。川に沿って、新興住宅街と工場地帯を歩く。川はL字型に曲がっている。その手前の橋を渡る。
以前ここを渡る時、黒野から手をぎゅうっと握られた事を思い出す。急に目の前が暗くなり、視界が開けると、普段の見慣れた景色なのに、何か違和感を感じたことを覚えている。
矢野はその時の事を思い浮かべる。ゆっくりと橋を渡る。幅6メートルの橋だ。渡りながら、矢野は胸が苦しくなる。目の前に何か見えない壁があるみたいで歩きにくい。目の前が暗くなる。欄干につかまりながら、一歩一歩前進する。しばらくすると、目の前が明るくなる。
橋を渡り終えて、矢野は呆然とする。幅6メートルの道路が東に向かっている。かって見慣れたごみごみとした街並みがあるが、それが宙に浮いたような違和感を覚えるのだ。
矢野は歩いているのだが覚束ない。酔っぱらって足元がふらついている感じだ。否!もっと的確な表現で言うならば、風雨に翻弄されている船の上を歩いているみたいなのだ。足が前に進まない。にも拘らず、矢野の体は前進している。
懐かしい裏町に入る。見るもの全てが3ヵ月前そのままだ。だが・・・何かが違う・・・。
人の姿を見て、矢野はぎょっとする。人々は幽霊のように、足を動かさずに前進している。はっとして自分の足を見る。動かそうと思っても足は動かない。前進しようという気持ちだけで、身体が動いている。
建物も人も、蜃気楼のようにゆらめいて見える。裏町は職にあぶれた労働者が多い。彼らは何もすることもなく、朝から酒を飲んでいる。体力のある者は肉体労働にありつける。歳をとってくると、雇い主も敬遠する。
その点矢野は恵まれていた。若いし、体力もある。酒に溺れなければ仕事にありつけた。悲惨なのは雨の日だ。屋外の仕事ばかりだから、食うや食わずの生活が続く。やる事がないから大衆食堂や居酒屋、喫茶店などにたむろする。10人前後が角突き合わせて口角沫を飛ばしたりする。
彼らは人生の落伍者だ。破産したり、借金で逃げ回ったり、妻子を捨てて夜逃げ同様の姿で駆け込んできたりする連中だ。世間の吹きだまりに巣くう者ばかり。自分の過去は決して喋らない。喋ったが最後、銭稼ぎの連中に居所を通報されたリする。
皆肩を寄せ合ってはいるが、善人の集まりではない。銭稼ぎのためなら人殺しさえしかねない連中だ。口角沫を飛ばすのは、暇を持て余しているからではない。相手から情報を聞き出し、銭にならないかを探っていいるのである。
矢野は常連客として通った喫茶店に入る。入り口のドアに手をかける。鉄の扉のように重い。朝10時頃だ。客は4名のみ。知った顔だ。矢野はテーブルの一角に座を占める。マスターに声をかける。久し振りに飲むコーヒーだ。カウンターの中のマスターは矢野を無視している。
・・・耳が遠いのか・・・
「マスター!」矢野は声を張り上げる。常連客も振り替える程の大声だが、誰1人として振り向かない。マスターも涼しい顔でコーヒーカップを拭いている。
矢野は苛立つ。カウンターの方へ歩く。歩くという気持ちが、身体をカウンターの方へ移動させる。ベルトコンベヤーに乗っているような感じだ。足を動かしていない。体がすっとカウンターの方へ動く。
矢野は驚愕する。怖ろしくもある。自分の体や周囲の情景がまるで異次元に入ってしまったような、奇妙な感覚の中にいる。
マスターの顔を面と見る。客が1人入ってくる。
「いらっしゃい」マスターは入り口の方を見る。矢野の顔が目の前にあるというのに、知らんふりだ。
矢野の心は驚きと恐ろしさが入り混じっている。その上にマスターに無視されて、怒りが加わる・
客は矢野の席にどっかりと腰を降ろす。3月、少々肌寒いが過ごしやすい季節だ。客は紺の作業服を着ている。
「今日はいい天気だわ」マスターに声をかけながら、コーヒーを注文する。
「そこは俺の席だ!」矢野の四角い顔が真っ赤になる。
マスターがカウンターを出て、コーヒーを運ぼうとする。
矢野は客に向かって怒鳴る。マスターを押し倒そう手をかける。
「あっ!」矢野の驚きは最高潮に達する。矢野の体がマスターの体を通り抜けたのだ。矢野は思い余ってマスターの体と1つになる。
「こんなことが・・・」信じられない光景に矢野はうろたえる。マスターや客には、矢野の体は見えていないのだ。
矢野は恐ろしさのあまり後ずさりする。入り口の扉に体が当たると思っていた。意に反して、矢野の体は扉を通り抜けて喫茶店の外に出ている。
喫茶店は3階建ての古びたビルの1階にある。軽四が何とか通れる程の道路に住宅や店舗が並んでいる。建物は一様に古い。仕事にあぶれた者が屯している。
矢野は呆然とする。急に視界が暗くなる。意識の遠のいていく。
はっとして目を覚ます。
・・・夢か・・・
気が付くと、独身寮の自分の部屋で寝ている。夢にしては生々しい。矢野は両手で顔をゴシゴシとこする。
――あの奇妙な光景――は到底現実のものではない。夢を見ていたのだろうと、心の内で納得する。
邁進
奇妙な夢を見た日から、矢野の心に変化が生じた。
元来、矢野は人と接触したり、あちらこちらと歩き回るのが好きだ。生来陽気なタイプだ。部屋に閉じこもってウツウツした気分でいるのが性に合わない。
それでなくても、訳の判らぬ”アイデア”を考えたり部下を指導したりする毎日だ。ストレスがたまる。入社当時の1ヵ月は、外にも出られず缶詰状態だった。
アイデアは夢の中で黒野が教えてくれるとは言うものの、不自由を強いられている。社外に出されて、ほっとしたのも束の間、奇妙な光景を体験した。
”夢?”とは言え、あまりにもリアルだった。
――何かが、心の中に入り込み、2度と外を出歩くなと強制している――そんな気持ちに支配されている。
その日から矢野は仕事に没頭しだした。朝9時に出社。夕方6時に退社、夜は専門雑誌や経済新聞などに眼を通す。夢の中で黒野からアイデアを頂戴するが、自分でも考えるようになる。
黒川企画商事という会社は中企業程度の会社だ。色々なアイデアを社員に考えさせる。大半は実にも蓋にもならない。これで会社がやっていけるのが不思議なくらいだ。
矢野は入社して半年余りして、会社のバックには巨大な組織がついているのでは・・・と推測するようになった。
この事は誰に尋ねてもノーコメントだ。知っていても答えるのを恐れ憚っている。
・・・要は給料をもらえばええんだ・・・1人合点する。仕事の没頭する。
その甲斐あってか、1年後、矢野の下に10名の部下がつく。社宅も高級賃貸マンションに移る。4LDKの広さだ。1人住まいではもったいない広さ、1週間に1度、賄婦が部屋を掃除してくれる。
矢野に秘書がつく。瓜実顔の美人だ。頭も良い。矢野の雑務をこなしてくれる。入社後、僅か1年で矢野は部長級の待遇となる。
11ヵ月前に矢野の部下となった西口と吉本も、それぞれ課長級の待遇となって、別の部門に配属されている。
矢野の仕事は,社内で社長や部長クラスの役員と効率の良いアイデアを提供するための方策を話し合う事に変わっていた。
黒川企画商事のバックにある巨大な組織にアイデアを提供する。その組織から全世界の傘下の企業に情報として流れる。アイデアから新しい仕事が生まれ、次世代を担う新商品が開発される。
――我々の仕事は極めて重要な部門を担っている――社長は声高に叫ぶ。
1~2年の間に会社の組織は大きくなる。矢野はいずれ秘書と結婚しようと考えている。彼女も矢野に好意を抱いている。
2年半後、矢野は高級ホテルの最上階で夜を過ごすことになる。朝夕は会社の車で送迎となる。
――次期社長――の声も高い。彼が夢見ていた生活に1歩1歩近ずいている。
毎晩、11時過ぎに小瓶に入った黒い液体を飲む。15分ばかり、夢の中で黒野の指示を仰ぐ。仰ぐというより命令だ。明日はああしろ、こうしろと指図する。
・・・秘書と結婚したいが・・・
矢野の希望も快く叶えてくれる。
――千日まで後50日だ。それまで待て――
矢野の夢は、今や1日1日と達成される。後50日後に黒川企画商事の次期社長に当確だ。次は国政選挙に立候補する。数年後に大臣、最後は総理大臣に登りつめる。富と権力を手中に収める。
矢野は毎夜秘書と情交に溺れる。夜11時に黒い液体を飲んで就寝しなければならないので、夜9時から10時までホテルで秘書と過ごす。朝、秘書はタクシーで出社する。
黒い液体を飲み始めて、999日目の夜、矢野は久し振りに酒におぼれる。泥酔した体で秘書と快楽の夜を過ごす。後数日で結婚式をあげる。2人とも夫婦になったつもりで肉欲の宴にうつつを抜かす。秘書は夜10時半に別室に引き下がる。
矢野は情欲から解放されても酔いが醒めていない。急に体が気怠くなる。時計を見ると10時半を廻ったばかり。黒い液体は夜1時までに飲めばよい。1時間ばかり仮眠しよう。そう思うと急に睡魔に襲われる。
はっとして眼が覚めたのは夜半。黒い液体を飲まねば、その意識で眼が覚めたのだ。時計を見ると夜中の1時半。しまったと思う反面、まあいいやと不貞腐れた気持ちにもなる。栄耀栄華は眼の前だ。一晩位飲まなくても、どうってことはない。それにあの臭い、鼻につんとくる。今までよく飲んだものだ。
明日眼が覚めれば、俺は晴れて社長だ。秘書と結婚、郊外に新居を購入してある。
急に眠気に襲われる。深く黒い穴に吸い込まれるように意識が遠のいていく。
そして――、眼が覚めて矢野が見たものは・・・。
ダーク・ワールド
無限の空間に無数の人間が浮かんでいる。その光景を目にしたときの、矢野の驚きはいかばかりであったろうか。しかも2人の部下、西口と吉本がその中にいるのを見た時矢野は恐怖を抱いた。慌てて長い廊下を駆け抜ける。黒い靄のような塊が、矢野の前進を阻むように漂っている。それを突き抜け、矢野が見た物は・・・。
森閑としたホテルのロビー。消灯の寒々とした風景だ。
玄関の自動扉は閉まっている。誰もいない。矢野は締め付けられるような苦しみを味わっている。外に出よう。自動扉を激しく叩く。否、叩こうとした。瞬間、彼の体は自動扉を突き抜けて、外に転がり出る。タイル張りのポーチが拡がっている。冷たいタイルの感触が肌につき刺してくる。彼は自分の体を見る。スポーツウエアーを着ていると思っていた。薄汚いボロの紺の作業服だ。靴も軽量シューズではない。靴底のすり減った安物の運動靴だ。
外は何も無い。道路の向かい側の高層ビルもすべて消えている。思わすホテルの方を振り返る。いつの間にかホテルも消えている。矢野のいる所は、上も下も右も左のない闇の空間なのだ。彼は宙に浮いた格好で立っていた。
「残念ですなぁ」後ろから声がかかる。慌てて振り向く。黒ずくめの黒野の姿が浮かんでいた。彼の姿は燐のように光っていた。
「後1日、あなたはダーク・ジュースを飲まなかった」
矢野は言葉を失っている。今いる所さえ理解できないのだ。
・・・俺は夢を見ているんだ。ここは夢の中だ・・・矢野はそう思う事で狂いそうな理性を奮い立たせようとした。
「夢ではありませんよ」黒野のしわがれた声、矢野は恐る恐る黒野の黒い口を見る。
「ここはダーク・ワールド、あなただけの世界です」
黒野の言葉が続く。
ダーク・ワールド。それは人間の神秘思想ではアストラルの世界と呼ばれている。日本語に訳するなら想念の世界。自分の思いがそのまま現実となる世界。金持ちになりたいと思えば億万長者になれる。権力者になりたいと思えば、ヒトラーのような独裁者になれる。
ただし1つ条件がある。
毎晩ダーク・ジュースを飲む事で、想念は日1日と強化されていく。千日間飲み続ける事で、想念は確固たるものになる。金持ちになりたい、権力者に成りたいという想いは、最早想いではなく、現実のものとなる。わが身が滅ぶまで願望実現の世界で生きる事に事になる。
「折角、私が与えてあげたのに・・・」
たった1日だけ飲まなかったために、想念の世界は露のように消えてしまった。
「残念ですなぁ。でもこれは、矢野さん、あなたの責任ですからな」
「待ってくれ、1つ聴きたい」
矢野の頭の中は目まぐるしく動いている。
「あの私の2人の部下は・・・。それに宙に浮かぶ無数の人間の姿は・・・」
黒野は黒い口を開けてニヤリと笑う。
「昨日まであなたはあの中にいた」
あの世界こそ、ダーク、マター。宇宙の真の姿。あの中にいる無数の人間の1人1人が想念の世界を持っている。彼ら1人1人がダーク・ワールドで自分の夢に見た世界を創り上げて、その中で生きている。
「あなたは後1日であの世界に行けたのに」黒野は残念そうに笑う。
「しかし、あれは何も無い世界、無の世界に漂っているだけではないか」
黒野は歪めて笑う。
「それは違いますなぁ、願望の世界が現実のものとなる。全て心、想念が主人公ですなぁ」
我々は夢を見る。ありありと、現実以上に現実らしい夢を見る。その時肉体を必要としない。肉体の苦しみもない。その世界こそダーク・ワールドなのだ。
「あなたの2つの質問に答えましょう」
「2つ?」矢野はオウム返しに答える。
黒野は構わずに喋り続ける。
1つ目は、矢野の部下、西口と吉本だ。彼らの願望は将来性のある会社に入り、平穏な暮らしに入る事だ。まあみみっちいというか、ごく平凡な願望だ。2人の想念は矢野の部下を抱える願望と合致した。矢野のダーク・ワールドと2人のダーク・ワールドが重なり合った。
矢野の想念の世界に、2人の想念が刷り込まれた格好になった。
「こういう事はよくあるんですなぁ」黒野のしわがれた声。
次の質問。
今、ここにいる矢野の姿は想念の姿だ。彼は999日前に、裏町のボロアパートの1室で、はじめてダーク・ジュースを飲んだ。あの日から矢野の想念が始まっている。正月すぎ、裏町を流れる川の、端から、黒野が矢野を連れ出した。
「裏町は、あなたの現実の世界。橋からこちらはあなたの想念の世界」
以前、矢野は橋を渡って裏町に行った。あれは譬で言うなら、幽霊が現実の世界に入ったようなものだ。
「私がそれに気付きましてね、慌てて引き戻したんですわ」黒野は勝ち誇ったように言う。
「それでは、俺の生身の体は?」矢野はせっつくように言う。
黒野は大声で笑いだす。何がおかしいのか、矢野を指さして笑いに笑う。
黒野の姿が消えていく。周囲の闇も少しずつ薄れていく。周りが明るくなる。景色もはっきりしてくる。前面出現した光景を見て、矢野は驚きの声をあげる。
エピローグ
矢野は街路樹の側のベンチに腰を掛けている。何時ごろからそうしているのか、本人も判らない。眠りから醒めた様な感覚の中にいる。眼がぼんやりとしている。少しずつ明るさに慣れてくる。
矢野は前面の建物を見て驚く。
――黒川企画商事――真っ黒な建物が、矢野を威圧するように聳えている。
以前、黒野に連れてこられた光景とよく似ている。目の前の歩道は、歩行者が忙しなく歩いている。後ろを振り返ると、16メートルの道路に自動車が走り回っている。
1つ違う所は・・・。
以前見た黒川企画商事は7階建ての幅15メートルのビルだった。
今、矢野の眼に映るビルは50階建ての超高層ビルだ。建物の端から端まで200メートルはあろうか。
外から見る限り、ガラス張りのロビーは広々としている。外側は黒だが、内部の色はスカイブルー。
矢野は呆然と眺めている。ふと、・・・どうして、自分はここにいるのだろう・・・自問自答する。
ダーク・ジュースを1日分飲み忘れて、ダーク・ワールドを追い出された。それから気がついたらここに腰かけていた。
突然、黒川企画商事のビルの玄関のロビーに10数人の人が慌ただしく現れる。玄関の自動ドアを開ける者、通行人が玄関先を邪魔しないよう警備する者。皆黒のダブルスーツに黒のネクタイ姿だ。
矢野は彼らの眼差しが一様に黒いのに気が付く。はっとして、10数人の社員に囲まれて玄関を出てくる人物に眼をやる。
「あっ!」矢野は気絶するような衝撃を受ける。
7・3に分けた髪、鋭い視線、四角い顔、肉厚の唇頑丈な体、何処から見ても矢野本人の姿だ。
矢野は思わずよろよろと立ち上がる。男と視線が合う。男は矢野を見て、にやりと笑う。その表情――、
――黒野――喉から声を絞り出す。かすれた声が漏れるだけ・・・。
「会長、お車が来ました」黒ずくめの男が道路の街路樹の横に停車したリムジンに乗り込もうとする。数人のボデイガードが周囲を警戒しながらドアを開ける。
男の視線はリムジンに乗り込んでも、矢野を見ている。車が動き出す。矢野の視線と鉢合わせになる。男は車の中で、もう一度ニヤリと笑う。その表情は一瞬、黒野の顔に変わる。
「あっ!」矢野が声をたてる。リムジンはスピードをあげて去っていく。
リムジンを見送った数人の黒ずくめのの男達は駆け足で玄関ロビーに入っていく。
矢野は黒川企画商事のショウウインドウのガラス窓を見る。そこに映る姿は――。
80歳ぐらいの老人の顔だ。眼が落ちくぼんでいる。白髪で深い皺が痛々しく刻まれている。薄い唇に、歯のない口腔。どこから見ても矢野本人とは別人だ。
――俺は一体誰なんだ――紺の作業服が破れている。安物のスニーカーも穴が開いている。
ダーク・ワールドから現実の世界に引き戻された時、矢野の肉体は黒野に乗っ取られていた。矢野の魂は、見も知らぬ老人の肉体に宿っていた。
――俺は一体誰なんだ――
矢野は呟く。当てもなく歩く。歩くしか当てががないのだ。
――完――
お願い・・・
この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません。