12-3
嫌な感じがする。
そう思うのにその予感がどこから来るものなのか分からず、未だ目を覚まさないアルニの手をギュッと握りながら――ティフィアは小さく息を吐く。
「……このままじゃダメだよね」
リュウレイに言われるがままにここへ来てしまったけど、それじゃダメだ。
僕は僕だ。
だけど弱虫で臆病のままでは、何も変わらない。
変えたいものがあるなら僕も変わらないといけない。――なりふり構わず。
「――レドマーヌ、聞こえる?」
ガンッ、と窓の外で物音が聞こえたかと思うと、ひょっこり暁色の頭髪が現れた。
そして恐る恐る顔を覗かせた魔族の少女は忙しなく視線を巡らせ、安堵の溜め息と共に窓を思い切り開けた。
「……ティフィア、確かにレドマーヌは呼んでくれたら駆けつけてあげても良い、とは言ったッス。でもさすがに場所は弁えて欲しいッス。ガロっていうあの男がいたらどうするッスか!」
「? ガロさんと何かあったの?」
「危うく殺されかけたッス……。ニアさんのおかげで九死に一生を得たッス」
「そ、そうなんだ。大変だったんだね……」青ざめた表情で語るレドマーヌに、きっと魔族だからと襲いかかってきたんだろうなぁ、と推測する。
先生は強い敵と戦うのが好きなんです、と弟子であるニアが愚痴っていたのを聞いたことがある。
「それよりも何か用ッスか?」
「うん、あのね――」
教会に戻ってアルニと入れ違いに目を覚ましたティフィアは、教会の外でレドマーヌから話を持ちかけられた。
一つは、何かあれば力になるから、呼んでくれればよっぽどの用事がなければ駆けつけるということ。
そして――これはまだニアたちには話してないのだが――“元魔王”であるヴァネッサと会って欲しい、ということだった。
どうやら元魔王はグラバーズにいるらしく、目的地だし“元魔王”と話が出来るのはティフィアにとっても好都合だと感じていたのだ。
ただそれを言えば、ニアが絶対反対するのは目に見えていたので機会を窺っていたのだが。
「――えっとね、図々しいお願いなんだけど……。実はミファンダムス帝国の兵士たちが来てるらしくて、今ニアとリュウレイがなんとかしてくれてるみたいなんだ。でも、嫌な予感がして……」
「なるほど、また協力して欲しいってことッスね! それならお安いご用――と言いたいところッスけど……」
歯切れ悪く、頬を掻きながらレドマーヌは続けた。
「その兵士たちならさっき見たッス。ニアさんたちも一緒だったッス」
「! に、ニアたちは大丈夫だった!?」
「大丈夫、というか……兵士たちと一緒に港に向かっていったッス」
まさか捕まったのかと愕然とするティフィアに、レドマーヌは慌てて言葉を重ねる。
「勘違いしてそうだから一応言わせてもらうッスけど! 連行とか拉致とか、そんな感じではなかったッスよ!?」
――え?
レドマーヌの言っている意味が、一瞬分からなくなった。
「ついて行ってたというか、普通にしてたというか……。とにかく! 嫌々つれて行かれてる感じじゃなかったッス」
「………」
それはつまり、ニアとリュウレイの意志で彼らについていったということだ。
港に行ったということは、これから船に乗るのだろう。
船に乗って―――行く先なんて一つしかない。
ミファンダムス帝国だ。
「……………………なんで」
「大丈夫ッスか?」
茫然自失な少女を案じたレドマーヌの声に、応えることが出来ない。
だけどティフィアは無理にでも体を動かした。
「アルニをお願い!」なんとかその言葉だけを残してレドマーヌが顔を出していた窓から飛び出すと、全力で街を駆け出す。
「ちょ、ティフィア!?」
困惑したレドマーヌの声は届かなかった。
「……ど、どうしたっていうんスかぁ~」
呼ばれて来たのに、放置プレイされるとは。
というかレドマーヌは“教会内に入ることが出来ない”から、アルニのことを頼まれても外から見守ることしか出来ないのだが。
どうしたものかと悩んでいると、部屋の中で何かが動く。
アルニが起きたようだ。「アルニさん!」
頭痛でもするのか、こめかみに手を当ててずいぶんと顔色が悪いようだ。
「……何かあったのか?」
「えーと………レドマーヌにもよく分からないッスけど、とりあえずティフィアが突然飛び出して行っちゃったッス」
「………………なんだそれ」
わけが分からないと顔を顰めたアルニは、ふと顔を上げた。
「アルニさん?」
「悪い、通信だ」
何かが繋がった感覚と、それと同時に声が頭の中に響く。
『良かった。そろそろ起きる頃だと思ったんです』
「ニアか?」
『はい。――ティフィア様は近くにいますか?』
「いや、なんか飛び出して行ったらしい」
『らしい?……まぁいいです。思ったよりも早くバレてしまったようですね……』
「何が?」
『―――アルニ。貴方にお願いがあるのですが』
「はぁ……はぁ……っ」
式典で賑わう街中、人混みを掻き分けながら走る。
荒い息をこぼし、痛む肺も、力が抜けそうになる足も、とにかくがむしゃらに動かして。
教会から飛び出して、ずっと声繋石の指輪に意識を向けても、二人から反応もなく。
そうしてようやく帝都カサドラの出入り口まで辿り着くと、――ティフィアは下唇を噛み締めた。
「……なんで」
地面に幾重もの馬車の痕跡が見られた。
馬車を使われてしまえばもう、人の足で追いつくことは出来ない。
「なん、で……っ」
ニア。
リュウレイ。
「どうして何も言わないで、行っちゃったの……っ?」
がくりと膝を落とし、涙がぽろぽろ頬を伝う。
――きっと二人がティフィアを守るためにしたことだということは分かる。
ミファンダムス帝国の兵が来たということは、間違いなくクローツ父さまの指示だ。
父さまにとって計画の要であるリュウレイを連れ戻したかったのは分かる。その前にグラバーズまで行きたかったのだけれど。
リュウレイの側にいれば、僕もついでとばかりに戻されてしまうと危ぶんだのかもしれない。
でも、それでも――!
ちゃんと言って欲しかった。
聞いて欲しかった。
いつものように「どうするん?」と。
――これじゃあなんのために帝国から逃げたのか分からないじゃないか!
「……ティー」
どれだけの時間、そうしていただろうか。
もう日が傾き始めた頃、不意に後ろから声が掛けられた。
袖で強引に涙を拭ってから振り返ると、レドマーヌと彼女に支えられたアルニがいた。
顔色が悪いのに気づき、心配になって駆け寄る。
「アルニ、横になってた方が……」
「――ニアから伝言だ」
「!」
「落ち着いて聞けるか?」
「……」
調子が悪いのにわざわざレドマーヌに頼んでティフィアの元に来たのは、それが理由だろう。
ティフィアが飛び出して行ったことをレドマーヌから聞いて、きっと早く伝えた方が良いと判断して。
――アルニはやっぱり優しいよ。
目を閉じ、それから大きく深呼吸する。
「伝言、聞かせてもらっていいかな」
緊張と不安で声が震えた。
そんなティフィアの状態にアルニは何も言わず、一息置いてから口を開いた。
『―――アルニ。貴方にお願いがあるのですが』
アルニはニアの言葉に思わず首を傾げた。
「お願い?」
『私とリュウレイはここで旅を降ります』
「はあ?……そりゃあ、………唐突だな」
まだ目的地であるグラバーズにすら着いていないのに、突然の決意表明に呆気にとられる。
「――て、待てよ。ティーは? あいつも一緒に降りるってことだよな?」
『いえ、私とリュウレイだけです』
「置いてくつもりか……?」
『……そうですね、結果的にはそうなるのでしょうね』
ティフィアに対してあれだけ過保護だった二人が、まさか。
『それで貴方にお願いというのが、ティフィア様と共に旅を続けて欲しいのです』
「本気で言ってるのか」
『はい』
寝起きから頭痛がしていたが、痛みが増した気がする。
『先生から聞いた話、覚えてますか? ティフィア様の出自のことです』
「あの胸くそ悪い話だろ?……関係すんのか」
『今のところはありません。ですが私たちと共に戻れば、また皇帝陛下に見つかる可能性があるのです』
なるほど、これでようやく合点がいった。
過保護者二人にとってはミファンダムス帝国自体にティフィアを帰らせたくないのだ。
『私とリュウレイにとってはティフィア様が心穏やかに、自分の人生を歩めることを願っているんです。これ以上傷ついて欲しくない』
ティフィアを想うが故、か。
「……それはお前たちのエゴじゃねーのか? ティフィアがそれで納得すると思ってんのかよ」
『そうですね……。納得はしないでしょう』
でも、とニアは続ける。
『それでもいいのです。私たちを恨んでくれても構いません。――私もリュウレイも、最初からそのつもりでしたから』
最初から。
その言葉に、だからか、と理解した。
ニアもリュウレイも、いつかこういう日が来ると分かっていたから。だから本音をぶつけ合うこともなく、ただティフィアを守るように旅を続けてきていたのかと。
そうだとすれば―――それは、なんて酷い仕打ちなのだろう。
彼女からの信頼を、想いを、ずっと裏切り続けていたということなのだから。
『怒らないんですね』
「……俺がお前らを怒る理由も資格もねーよ」
色々と巻き込まれたけど、もうグラバーズまでは本当にあと僅かだ。
一ヶ月も経ってない、長かったようで短い旅の仲間。
さすがに情は湧くけど、だけど帝国の事情を知らない部外者が口出し出来る話でもないだろう。
「でもティーが帝国に戻るって言ったらどうするつもりなんだ?」
『…………、そこは引き留めて下さい』
こいつ、そういう事態は考えてなかったな。
相変わらず詰めが甘いなぁ、と苦笑する。
「仕方ないから、できる限りのことはしてやるよ」
『上からの物言いが腹立ちますが……お願いします。――あの、それと』
「ん?」
『ティフィア様に一つ、伝言もお願いしたいのですが……』
教会から出る前にあったニアとの通信のやりとりを思い出しながら、アルニは口を開いた。
「――『もう人工勇者のことは忘れても大丈夫です。元々ティフィア様は証の適合率も低く、計画において補欠要員でしかなかったので。――だから、もう“勇者”でいる必要はありません』」
口にしながら、ずいぶんと酷い言葉だと思う。
ティフィアは『勇者』であることを選んで、この旅の中でもずっと悩んで葛藤して、それでもそれを支えにして立ち上がってきたのに。
『勇者』であることを忘れて欲しかったから、わざと突き放すような言葉を選んだのだろう。
帝国に戻らないように。
ニアたちを恨めるように。
どちらにせよ、ティフィアは傷つくだろう。
すでに涙を拭った痕が残る、目尻が赤い黒曜石の瞳。
―――だが、ティフィアは。
「そう、なんだね」
小さく呟いて、それから顔を俯けて目を閉じた。
「ティー」泣いているのかと心配になって声をかければ、ようやくティフィアは目を開けた。
「……ニアが何かを後悔してることも、リュウレイが嘘をつく理由も、僕は知らない。二人は僕に救われたって言うけど、僕は特になにかした覚えも何もないんだ」
「……」
「――でもね、二人が何に苦しんでいるのか。それだけは僕にも分かる」
顔を上げたティフィアの姿に、アルニとレドマーヌはハッと息を呑んだ。
「僕は『勇者』だ。――もう、誰の手も取りこぼさない。目を逸らしたりなんかしない。絶対……諦めないっ」
燃ゆる夕日を後ろに“勇者の少女”は宣言する。
「僕が全部を救い上げる……っ! 僕が―――『希望』になる!」
その黒曜石の瞳には、燃えたぎる“怒り”が見えた。
「レドマーヌ」
「は、はいッス!?」
ティフィアの雰囲気に圧されていたレドマーヌは素っ頓狂な声で返事した。
「約束通りヴァネッサさんには会うから、安心して」
「い、いいんスか……?」
ニアとリュウレイのことは、もういいのか。
そう聞かれてティフィアは躊躇うことなく頷いた。
「僕は知らないことが多すぎる。二人を追いかけていっても、今の僕にはどうすることも出来ないから」
――二人は僕のためを想って置いていった。ニアの伝言も、そう。リュウレイの嘘も。
力も権限もない、今のままじゃダメなんだ。
「分かったッス。……ヴァネッサ様も喜ぶッス!」
「――なぁ、ヴァネッサ?って誰だ」
なんだか置いてけぼりをくらったアルニの疑問に「敬称をつけるッス!」と珍しくレドマーヌが噛みついてきた。
「ヴァネッサ様は“元魔王様”のことッス! レドマーヌが仕える主ッス」
「ま、まじかよ……」
そんな大物に会うつもりなのかとティフィアを凝視してしまう。
「僕、頑張るっ」
鼻息を立てて張り切る少女に、いつものティフィアに戻ったと小さく笑う。
――ティフィアは変わろうとしている。
それをニアやリュウレイは望まないかもしれないが、アルニは目を細めて眩しそうに少女を見やる。
……仕方ない、応援くらいはしてやろう。
できる限りのサポートも。
「レドマーヌもなんか頑張るッスよー!」
ティフィアのやる気にあてられたのか、レドマーヌが両手を挙げた。その瞬間、彼女に支えられて立っていたアルニはその支えを失って地面に尻を強打してしまった。
尻餅ついて「いてて……」と腰を擦りながらレドマーヌへ恨みがましい視線を送っていると、「大丈夫?」と手を差し伸べられる。
「あぁ……ありがとう、ティー」
遠慮無く手を掴んだ―――が。
咄嗟に顔を上げ、その手の持ち主を見上げる。
「……―――誰だ?」
アルニの疑問に、彼なのか彼女なのか判断しかねるほど端正な顔が優しく緩み、片手で菫色の髪を押さえながら――突然現れた人物に呆然とする三人にその人は名乗った。
「初めまして、自分はカメラ・オウガン。女神教の枢機卿員の一人で――“勇者派”の筆頭をやっている。友人のニアに頼まれてね……きみらの旅に同行することになった」
宜しく、と。
切れ長の、ティフィアと同じ黒い瞳が弧を描いた。




