泡沫に消えろ 後編⑫
――遡ること5年前。
マーシュンは皇帝の執務室に呼び出され、その場にいた。
“影者”の黒い制服、50を過ぎたというのに直線に伸びた背と、皺はあるが精悍な顔つき。この場においても、いついかなる非常時にも動き出せるよう研ぎ澄まされた五感は周囲の気配を探っていた。
そのマーシュンは正面にいる主の様子に眉を顰める。
「陛下、薬の飲み過ぎです。それ以上は体に障ります」
机には書類の束と、数種類の薬瓶が置かれていた。白・青・赤・黄、錠剤の形も様々なそれは、薬草商会に秘密裏に作らせた貴重な薬である。
しかしそのどれも、カミス皇帝の体を蝕む毒を中和することは出来なかった。それでも進行を遅らせることが出来るからと、カミスは症状が出るとすぐに飲むようにしていた。
マーシュンに飲み過ぎだと言われ、症状の間隔が益々短くなっていることに気付く。
カミスは酷い頭痛に頭を抱えながら、目の前のマーシュンへ視線を向ける。
「…………マーシュンよ、儂はもう限界が近いのかもしれぬ」
「陛下、」
「ふっ……最近は薬を飲んでも飲まなくても頭痛が酷くてな。考えることが億劫になってしまった。まったく……儂がドジを踏んだばかりに、お前には迷惑をかける」
「カミス様のせいでは……っ! 全ては己の不徳が致すところ!」
今から10年前、カミスは玉座に就く以前からマーシュンを使って独自に調べていたことがあった。――『勇者計画』である。
とあるキッカケで偶然知り得てしまった、女神教が進める“恐ろしい”計画だ。
カミスは己の最も信頼出来る部下としてマーシュンのみにそれを打ち明け調査させていたのだが、二人の動向を監視していたトラクタルアース家によって教会に告げられてしまった。
帝国の最たる貢献と利益をもたらしてきたトラクタルアース家には、王族と言えど容易に口出し出来ない。
それからだ。城に教会の人間が出入りするようになり、他の貴族たちも女神教に懐柔されてしまった。
そしてカミスはとある“毒”を盛られた。跳羽蛙という魔物で、蛙に蠅の羽と瞳がついた姿が特徴なのだが、その魔物の胃液が猛毒なのだ。
死んでもおかしくはなかったが、幸いなことに絶命には至らなかった。しかし毒はすでに体内に巡り、カミスの脳を少しずつ破壊している。頭痛はそのせいだ。
「陛下、やはりガーウェイ・セレットにだけでも話すべきと進言します。彼は信用に足る男です。せめて陛下の状態だけでも、」
「確かに信用は出来る。しかし、お前も分かっているはずだ。ガーウェイは枢機卿員に監視されておる。しかもこの事実をガーウェイは気付いておらぬ」
元『武神』であるガーウェイが気付けない。それだけ相手が強者なのか役者なのかは不明だが、ガ―ウェイには家族がいる。巻き込むべきではない。
「ですがカミス様!」
マーシュンは知っている。カミスがどれほどこの国のためを想い、己を犠牲にし、憂い、なんとか導こうとしてきたかを。
マーシュンは“影者”だ。だがそれ以前に、カミスの騎士を誓った。
カミスの願いを叶えるのが使命だと誓ったのだ。
「マーシュンよ、儂は全てを諦めたつもりはない。お前にも話したな、儂がカムレネア王国で見聞きしたことを」
「はい……」
「――恐らくこれが……最後の命令だ。我が騎士マーシュン、『勇者』を導け」
「っ」喉が震えた。
今までカミスはこの国のために力を貸せと、毎回のごとく命じてきたのだ。だが今回の命令は――。
「儂は先ほども言ったが、限界だ。この国もこの先どうなるか……正直グラバース国と同じ道を辿るのではないかと思っている。ここに来て今更考えてしまう。――国を守るのではなく、『勇者』を守るべきだったのではないか、と」
カミスは皇帝であり、実際そんな選択は出来なかっただろう。
だからこそ、お前に頼みたいと彼は言う。
「教会の勢力は100の巡りを繰り返す毎に強くなる。枢機卿共の力が増すからだ。……儂は少しでもこの国にいる優秀な騎士や魔術師を、更なる高みへと上れるための支援を行おう。それくらいなら、この毒に侵された体でも出来る」
「カミス様、わたしは……例え貴方様の命令であっても、貴方様から離れるようなことは出来ません!」
「………。儂らは歳をとった。いづれ来る別離を多少早めただけのこと。マーシュン、お前は優秀だ。情報収集も護衛も……ガロ・トラクタルアースやガ―ウェイ・セレットよりも、儂にはお前が一番最強の騎士だと思っておる」
「止めてください……! そのようなこと、おっしゃるのは止めてください!」
カミスは辛そうに体を起こし、マーシュンの前に立つ。
「マーシュン、お前の騎士としての称号を剥奪する。そしてこれより“影者”として、儂の最後の命令に殉ぜよ。――今までご苦労であった」
マーシュンはカミスが何を考えてそう命じたのか、じゅうぶん過ぎるほど理解している。
グラバース国は『勇者計画』における最初の犠牲となった国。計画が進めば、他にも影響が出る国が増えるだろう。ミファンダムス帝国もそうだ。すでに教会の手が懐に潜り込んでいるのだから。
これ以上教会が力を増すことは見過ごせない。
帝国を守るためにも。民を守るためにも。――未来を守るためにも。
「……陛下、」
ベッドに寝そべり、愛猫のアリスを撫でながら表情を緩めて笑うカミス陛下を見つめる。
毒の進行は、憎いことにカミスという人物が痛みによって精神が壊れた頃に収まった。カミスは死ななかった。しかし、マーシュンの知るカミスは死んだ。
「……」
マーシュンは踵を返し城から出ると酒場へ向かった。変装のため腰を曲げ、下卑た笑みを浮かべるクズな情報屋の老人になりきって。この方が“影者”だと絶対に思われないからだ。
しかし今回は老人の姿で、浴びるほど酒を飲んだ。酒が美味くて止まらず、その日からマーシュンは酒に溺れた。
それからどれほど経ったか、あまり記憶はない。
何日か、何ヶ月か、何年か。
隣に女が座ったことだけは覚えてる。
マーシュンと同じ歳くらいのババアだった。ババアも酒を呷りながら呟いた。
「星はいつか消えゆく。人の肉体は弔いによって自然に還り、魂は流転し、心だけはいつまでもそこに留まり続ける」
「はぁ?……何言ってんですかぁババア? 占星術の真似事ですかあ? ゴッコ遊びはヨソでやってくださあい」
「人間という生き物は不思議さね。生きてるときはコロコロ変わるのに、死んだときだけ感情は変わらずに残る。……お前さんは、誰の感情をずっと大事に抱えて、持て余してるつもりなんかね?」
「だれの……?」
最後の命令だ、と耳元で聞こえた気がした。
弾かれたように振り返るが、そこには当然誰もいない。いるはずがない。マーシュンが尊敬し守ると誓った主は、もう消えた。
隣を見るとババアもいなくなっていた。或いは酒が見せた幻覚か。
「………………持て余してる、か」
酒を呷る。すでに回りきったアルコールにまぶたが重い。目を閉じると、光が見えた。
信じてるぞ、とカミスの声が聞こえた気がした。
次に目を覚ますとゴミ捨て場に転がっていた。おそらく酒場が閉店だというのにマーシュンが起きなかったせいだろう。
そしてフラフラと街を歩く。いつもの城下の光景だ。見上げれば城が見える。まるで一人だけ変わってしまい、取り残されたような気分になった。
「陛下にとって一番最強の騎士が、よもや酒浸りに…………笑えない冗談ですね」
自嘲し、マーシュンは裏路地へ入っていった。
酒場探しのためではない。
酒は飽きた。やるべきことは、すでに主から命令されている。
もう一度情報屋として動く。
ただし仲間がいる。教会の動向を探れる人物。教会の人間か、教会に潜入しても怪しまれないような。
「そう簡単に見つかるはずもないですねぇ……」
別の酒場で同業者を探し、慎重に教会に通じる人間がいないか聞き回る。下手なことしてマーシュンの存在が教会にバレるのは良くない。
ここも駄目かと諦めて席を立とうとしたとき「あの、」と声を掛けられた。
敵意は感じられない。それでも警戒は緩めず振り返ったマーシュンは、思わず固まった。
「情報屋か商人を探してるんだけど、誰か知らない?」
フード付のマントで素性を隠してる、明らかに怪しい男だ。だが、そのフードの奥から見える群青色の瞳に、彼が『勇者』リウル・クォーツレイだとすぐに分かった。
偶然か、必然か。なんでも良かった。
「――何かお困りのようですねぇ? わたくし、しがない情報屋のマーシュンと申します」
「情報屋……! ねぇ、個人契約とかやってないの?」
「対価をいただけるのであれば。例えば――貴方様の持つ『勇者の証』について、などいかがですか?」
「!」
「その代わり、わたくしは貴方様と個人契約を結び、そして『勇者』の情報をあげましょう。歴代勇者の話を――」
「……その話、嘘だったら斬るよ」
「おおっ、なんと恐ろしい……っ! ですが真実です。悲しいことに、今ここで貴方様に斬られるよりも恐ろしい真実なのです」
胡散臭そうなマーシュンに信じていいものか迷うリウルだが、時間がないからと己に言い聞かせて「分かった」と答えた。
その日、勇者リウルとマーシュンは『協力者』となった。
***
「“歴代勇者たちは『勇者』の運命を知っていた。魔王を倒し、自らもまた消えることを。魔王と勇者は繋がっている。―――『勇者の証』によって”」
リウルは情報屋のマーシュンという男から、どこから仕入れたのか有力な情報を多くもらった。
今呟いたこともその一つである。
やりとりの方法は【映鳥】を使っている。映鳥は人の魔力を記憶して、どこにいても飛んでくる。更にこの魔物の特徴は、記録させた声をそのまま記憶させて届けることが出来ることだ。
リウルが任務で城から出て、“影者”の目を盗んでのやりとりではあるが、上手くやれていた。
「……『勇者の証』か」
マーシュンからの情報は主に“歴代勇者”についてだった。
一つ前の『勇者』は精神を壊したものの、それでも何かに取り憑かれたように魔王を倒した。
二つ前の『勇者』は人と多く交流を持とうとしたが、街に押し寄せた魔の者の大群を殲滅したところ忌避されるようになった、とか。
三つ前の『勇者』は魔王に仲間を殺されたせいでおかしくなった、とか。
信憑性は定かではないにしろ……だけど、なんとかく信用できる気がしていた。
歴代勇者は次第におかしくなるケースが多い。『勇者』であるリウルはその理由が嫌なほど分かる。
「殺せ」という声。不定期で意識がなくなること。意識がないはずなのに、まるで意識があるように己が振る舞っていること。人間を憎む感情。不審感。
勇者として魔王を倒さなければいけないのに、倒せば死んでしまうという焦燥と諦念。
歴代勇者も抗おうとしたのだろう。それでも叶わなかった。敵わなかったのだ、『勇者の証』に。
「―――やっぱり、行かないとわからないよね」
リウルは目の前の教会を見上げる。――教会本部である。
帝都にある支部から転移を使わせてもらい、そうしてやってきた教会本部はやはりというか、支部とは比べ物にならないほど厳かで神秘的な装いだった。
いくつも連なる尖塔には大小異なる鐘が設置されており、リウルがやってきたことを歓迎するように一斉に美しい音を響かせる。
「いらっしゃいませ、勇者様。まさか勇者様が女神様に祈りたいとおっしゃるとは……私は今感激で涙が止まらないのです」
門扉を開いてやってきたのは、とても美しい女性だった。
白金色の髪を赤いリボンで緩く束ね、白のブラウスと新緑色のロングスカート、修道服の頭巾だけを被った神官である。教会本部の案内人だろうか。
「いえ、突然の訪問に歓迎していただき感謝してます」
正直、本部に招かれるとは思わなかった。――マーシュンとのやりとりでお互いに情報の限界を感じていた頃に、彼から提案された。教会に直接行くのはどうか、と。
リウルとしてはこんな気味の悪い場所近寄りたくもなくて避けていたが、確かに『勇者』や『勇者の証』に関してなら教会の方が知ってるだろうし、何かしら資料や記録があるはず。
念のため危険に備えて用意は万全にした。マーシュンからも転移の魔術紋陣が刻まれた魔道具も買った。
本部は予想外だったが、むしろここの方が多くの情報が隠されていそうだと、なるべくポジティブに考えるようにした。
「どうぞ」と白磁の腕が伸び、玄関口へと進むように促される。緊張に息が浅くなる。ここはすでに敵地だ。リウルの目的を気取られないよう慎重に行くしかない。
リウルは教会本部へと足を踏み入れ、その少し後ろに先ほどの女神官が並ぶ。
「……すごいですね」
玄関から通路を進み、開かれた扉を潜ると広い巨大な講堂が姿を見せる。全面ステンドグラスで、どれも女神が描かれていた。
「女神レハシレイテス様は常に我々を見守ってくださる存在。人々を愛し、罪を許し、未来を導いてくださるのです」
「導く……?」
「“100の巡り”。これはご存知の通り100年の周期よって魔王が生まれ、それを勇者が倒す物語。―――そして、それを100回繰り返すことが『勇者計画』なのです」
「?」
勇者計画? なんだそれは、と思わず振り返る。
「本当ならば今期で最後でしたのよ? でも、邪魔が入ったせいで狂ってしまいました。本当なら――そもそもリウル様は『勇者』には選ばれなかったというのに」
「え?」
「可哀想だけど、幸運な殿方です。間違いだったとは言え、こうして女神様の加護を与えられて、『勇者』として地位と名声を得られたのですから」
ま、ちがい? 可哀想? 幸運?
勇者は……本当は違う人が選ばれるはずだった?
「『勇者の証』が発現する一ヶ月前――事故があったはずだわ。貴方と、貴方の大切な幼馴染み。どうなったか覚えてるかしら?」
「な、に……言って――」
勇者に選ばれる一ヶ月前、村の近くで事故があった。廃坑付近の大きな土砂崩れ。
村の中はつまらないからと、よくリウルは外に出ていた。そのため廃棄された坑道の奥に秘密基地をつくって、無害な魔物と遊ぶこともあって――あの日は、珍しく幼馴染みのニマルカも一緒だった。
だけど突然土砂崩れに巻き込まれて……死んだと思ったら、魔物に助けてもらった。
……それで、そう、ニマルカが言ったんだ。
「『勇者の証』は貴方の傷を回復させて、欠損した部位も修復してくれたでしょう? でもそれは貴方自身の生命力を前借りしてるだけ。本来は勇者自身ではなくて、身近な人間の命、なのだけれど」
つまり、と神官の女は心底嬉しそうに言葉を続けた。
「本当は貴方の幼馴染みニマルカって女の子を『勇者』にして、貴方を殺してその命で彼女の生命力の代わりをしてもらうつもりだったの!」
――「リウルちゃん、お願い。私と一緒に、逃げよう?」
あの日、あのとき。ニマルカはそう言った。
もしかしたらニマルカは知っていたのかもしれない。
(……そういえば、おれが『勇者』になったときも喜んでなかった。帝都にいくことになったときだって――怒ってきて……それで喧嘩になった)
「でも結果的に貴方が『勇者』になってしまった。“魔法師”ではない、ただの“人間”である貴方が。可哀想に。そのせいで『勇者の証』が足りないモノを補おうとして貴方の魂を奪おうとしてる。意識がなくなるのも、感情の高ぶりが急に冷めていくのも、それが原因」
「なんで……なんで、今更……そんなこと教えるの」
この人はただの神官じゃない。
勇者のこと、証のことを知りすぎている。
リウルは後退り彼女から距離を取ると、収納石から剣を取り出す。それなのに神官は頬に手を当て、うっとりと顔を赤めて恍惚そうだ。
「今更だからです!! ああ、可哀想なリウル様……! 気付いていないようですから、教えて差し上げます! 貴方のご友人であるラヴィさんが目覚めないのは貴方のせいです! 貴方のその『勇者の証』が彼の生命力を奪うから!」
「――ぇ、」
「そういえば貴方は『魔の者』とは争いたくないご様子ですが、無理ですよ? 意識を失っても勝手に体が動く理由は『勇者の証』は貴方の意識や意志に関係なく、勇者としての使命を優先するのですから! つまり、精神が壊れても『勇者』として働いてくれるんです!」
「……、」
「『勇者の証』がある限り、勇者の辿る道は一つしか存在しないのです。その証も、消そうと足掻いた勇者はたくさんいました。全部無駄に終わってしまいましたが。だって魔術と魔法を組み合わせた術式を解くなんて――誰にも出来ないのですから」




