5-3
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目を、覚ましたくなかった。
現実を受け入れるには、まだ実感が湧かなかったから。
それでも名前を呼ぶ同僚達の声に、ユグシルは重い瞼を上げるしかなかった。
「ユグシル!」「ユグシル様!」「副隊長!」「ユグシル!」
取り囲むように軽傷で済んだ騎士団の兵士が、目を覚ました彼に安堵し涙を浮かべる。
……死ななかったのか、俺は。
ガロを殺し、地面に落ちて――おそらくニア・フェルベルカがこの野外病院へ運んだのだろう。周囲を見渡した感じ、ここは教会か。
「副隊長、良かった……。副隊長までいなくなったら――俺たち……っ」
その一言に、ハッとする。
「――ライオット……っ!!」
起き上がろうとした体は、意志に反して動かない。それでも強張った声音と、ユグシルの訴えかけるような眼差しに、同僚達は気まずそうに目を逸らした。
それが、答えだった。
「…………、」
嘘じゃなかった。
夢じゃなかった。
ライオットは、死んだ。
もうどこにも、いない。
「ユグシル、会いたいか?」
「おい!」
同期のユージンが険しい顔で問う。他の同僚は諫めるように声を上げるが、ユグシルは悩む間もなく「会いたい」と口にした。
「で、でも、副隊長」
止めた方がいいと言いたげな同僚もいたが、イヴァンとホーツという部下に支えてもらいながら引き摺って、死体置き場へ。
体が痛い。塞がっていない傷口が、すぐに包帯を赤く滲ませる。
「バレたら怒られるから、すぐに戻るぞ。いいな」
「……ありがとう」
――見てしまえば、現実を受け入れるしかない。
それでも、まだ信じられない自分がいる。
ライオットは悪運が強い。なんだかんだ、今までだって無茶な作戦でも生き延びてきたんだ。
だから。
だから、きっと――――
「……………ライオット……?」
死体置き場に並べられた、その内の一人。厚手のボロ布が全身を隠すように覆っていた。
それをホーツがめくる。
「ユグ、」といつも笑みを向けていたその顔は、この世の者とは思えないほど青白く、固く閉じられた目は開く気配がない。
「―――、ライオット。何いつまで寝てるんだ。は、やく……早く、起きないと」
「ユグシル」
「イヴァン、ライオットを起こしてください。まったく、いつも寝起きが悪い――」
「ユグシル!」
隣を見る。体を支えてくれるイヴァンは、今にも泣きそうに顔を歪め、それでも堪えるように唇を震わせていた。
「言わせ、ないでくれよ……っ! 俺らだって――信じたく、なかったんだ! それでも俺たちは……帝国騎士団として、やらなきゃいけねぇことがある! そうだろ、ユグシル副隊長!」
「っ、」
「動ける連中はすでに内部に侵入した魔の者掃討作戦に加わってる。俺たちも手当が済んだらすぐに戻るつもりだ」
「戻る……? では、」
「この傷は戦争で作っただけじゃない。さっきまでその作戦で魔物と戦ってきたんだ。……正直、かなりキツい。もうだいぶ参ってたのに、まだ戦わないといけねぇ。他国からの援軍も来るらしいが、いつまで保つか……」
「……俺、も」
「動けないだろ? いいから大人しく怪我を治せ。そんで、隊長――……いや、とにかく、俺たちの頼れる副隊長に早く戻ってくれよ?」
ユグシルが寝ていた講堂に戻り、イヴァンたちは処置をしてもらいに行った。
処置のついでにユグシルの様子を見に来たのだろう。隊長のライオットの影響か、仲間想いのヤツらだ。
……俺は、こんなところで何をしてる?
ライオットを守ることも出来ず、仲間たちが今もなお戦っているのに、寝ていることしか出来ない。
「……………」
ぼんやりと講堂の天井を眺めていると、視界がぼやけていることに気付く。
いつの間にか、泣いていた。
ただただ無言で、泣いていた。
だけど悲しいわけじゃない。胸に空いた虚無感が、何かを求めるように泣いていた。
講堂の奥の扉から、一人の女性が出てきた。
白金色の髪を赤いリボンで緩く束ね、白のブラウスと新緑色のロングスカート。ただ違和感があるとすれば、修道服の頭巾だけを被っていることだろうか。
彼女は講堂内をゆっくりと歩く。負傷者たちに興味がないとばかり見向きもせず、迷うことなく進んでいく。
「コレット様、たった今『勇者』は皇帝と接触。『従騎士』はA地点の騎士団と合流、『小さき魔術師』は意識不明のまま依然クローツが護衛中。それから王国の傭兵団が3部隊、近隣の街に到着しました」
コレットと呼ばれたその女性の斜め後ろに付き従う神父姿の男が、声繋石から得た情報を彼女へ伝える。
「そう。『亡霊』と『指名手配犯』の行方は?」
「申し訳ございません……、『亡霊』は感知にも掛からず。『指名手配犯』は、仲間である反乱軍が回収。恐ろしいことに、致命傷を負ってるにも関わらず生存しているようです」
「そう。やっぱり魔族、或いは上級魔物の加護を受けてるわね。――引き続き監視、手出しはしないでちょうだい? 『亡霊』の捜索は一旦打ち切っていいわ」
「承知しました」
「あとサハディ帝国での準備は順調?」
「はい。ガロ様が送り出した親衛隊員のおかげで、足りなかった魔力の補給は済みました。コレット様の合図でいつでもナイトメアを起動出来ます」
「そう。そのまま待機させておいて。――さて、私は今からお楽しみの時間だから、下がっててちょうだい?」
「はっ」
神父が踵を返し去って行くのを気配で感じつつ、コレットは目的地に着き、足を止める。
講堂の壁に寄りかかり、憔悴しきった一人の女性だ。
貴族なのか、着飾ったドレスを纏い、しかし化粧は控えめ。普段は小心者、派手なドレスは親に無理やり着せられているのだろう。
不安そうに体を縮こませ、しきりに髪に触れている。
「エイダ・ヴァニラ嬢?」
彼女は不意に名を呼ばれ、驚いたようにカレッタを見上げる。
「ぁ……神官、様……?」
「私はコレットと言います」
「な、なにか御用、ですか」
「この度はお悔やみ申し上げます。――帝国騎士団団長ライオット・キッド様の婚約者ですよね?」
「!?」
顔が強張り、咄嗟に周囲を見渡す。それから誰にも聞こえていない様子に小さく安堵し、訝しげにコレットへ視線を戻す。
「安心してくださいな、私以外誰も知りません。ライオット様とは仕事関係で知り合ったのですが、偶然エイダ様とのことを知ってしまっただけです。……ただ、今回のことで、人知れず心を痛めているであろう貴方を、放っておけなかったのです」
「そ、ですか……」
エイダの隣に座り、コレットは彼女の手をそっと握る。
「痛ましい戦争です。ここにも多くの方が傷つき、或いは命を落とし――悲しいことです」
「…………………私、ライオットと幼なじみだったんです」
ずっと口を噤んでいた事実を、彼女は語り出す。
誰にも相談出来ず、誰にも打ち明けられなかった悩みを。
コレットは控えめな笑みを携え、静かに聞く。
「ライオットは女遊びが激しい人で、いつも自由で、気ままで……私とは正反対で、猫みたいな人でした。モテるために騎士団なんかに入って、――馬鹿な人。あの人に忠犬は似合わないって言ったのに」
「……説得したのですか?」
「ええ。でも、あの頃はまだヴァルツォン騎士団長も勇者様も健在でしたから。……この数年……変わりゆく周囲に、環境に、ライオットも戸惑ってようやく辞める判断したときには、もう彼は騎士団長に昇格して………辞めるに辞められなくなって」
それでもライオットは楽しそうだった、と彼女は言う。
「友人や部下と一緒に遊んでる感覚だったのかも。頼られることも嬉しかったのかもしれません。――戦争に出ると聞いて、私は強引にライオットと約束したのです。いつまでもフラフラしてないで、私と結婚しなさいって」
「それは、……ふふ。微笑ましいプロポーズですわ」
「ライオットは驚いてましたけどね。死ぬかもしれないし、浮気するのに?って」
「おかしな御仁ですわね」
「所詮は私の片想い。ライオットは私を幼なじみとしてしか見てなかったし、私なんかよりも仲間達といる方が楽しいようでしたし。……でもそれでも良かった。生きて帰ってくれれば……それで」
しかしライオット・キッドは、死んだ。
罪な男だ。
本人は気付いていなかっただろうが、彼は彼自身が思っていたよりも、ライオットを大切に想っている人は多かった。
エイダもその一人だ。胸に秘めた想いを隠し続け、それでも生き延びて欲しいと願っていたというのに。
―――ああ、なんと憐れだろうか。
コレットは目の前の彼女を愛おしく感じ、エイダの手を強く握る。
「―――実は噂を聞いたのです。彼を殺したのは、魔の者ではありません」
「…………………え?」
コレットの一言に、彼女は戸惑うように虚ろな瞳を向ける。
「先ほど、彼の遺体を診た軍医が小声で話していたのを聞いてしまったのです。……ライオット様の傷は魔の者との戦いだけとは思えない傷があった、と。特に腕を切り落としたのは――剣の傷ではないか、と」
「…………剣……?」
魔物は剣を使わない。魔族は術によって武器を錬成する。それ故に、魔の者が介入した傷には特有の痕跡が残る。
それが無く、剣の傷が残っていた。
魔の者ではなく、人間の仕業だと。
エイダは大きく瞳を開く。
憔悴した彼女の思考は短絡的でネガティブなものになるだろう。
戦時中、ライオットの近くにいた人間など、仲間しか考えられない。
更に騎士団長であるライオットの腕を切り落とせる実力を持つ人物は――一人しか思い当たらないはずだ。
『武神』を輩出し、名だたる剣豪を作り出した名家トラクタルアース。その嫡子であるユグシル・トラクタルアースを。
「まさか……! あ、あり得ない、です……!」
「――ああ、ごめんなさい? 私はただ噂を聞いて、貴方に一応伝えるべきだと思ったのですが……こんなときに言うべきではありませんでしたわ」
コレットは彼女の隣から立ち上がると、最後に一言残して行った。
「片思いだったのは、貴方だけではなかったのかもしれませんわよ? では、さようなら―――エイダ様」
片思い。
ずっと一途に思い続けてきたエイダは、よくライオットの家に足を運んだ。
彼の家族や使用人たちまで、彼女はもう内縁の妻のような扱いをして、当主様ですら「あの放蕩バカ息子を頼む」と言われ。
エイダも女だ。ずる賢く、そうやって外堀を埋めてきた。
ライオットは一人の女性に執着しない。
だけど、いつも――エイダの元からライオットを平然と奪っていくのは、騎士団の仲間たちだった。
幼なじみの私よりも。
献身的に尽くしてきた私よりも。
仲間たちを……そして、何よりも『相棒』を優先するライオット。
「私は、勘違いしていたの……?」
ライオットと仲間たちは仲が良いと思っていた。
でも、そうだ。
喧嘩して帰ってきたときもあった。
最近は何かを悩んでいるように見えた。……あのときは、戦争のせいだとばかり。
もし――もしも仲間達への信頼がライオットの一方通行だったら?
騎士団の誰かが、実はライオットのことを憎んでいて……戦争に紛れて、殺したのだとしたら?
「あ、ぁ、ぁ………」
少しでも疑えば、次から次へと脳裏によぎる疑惑の数々。
そんなわけないと頭を振っても、一度芽生えた疑心は膨れ上がる一方。
――確認しなきゃ。
そうよ、あの神官さんが言ったことが本当かどうかだって怪しい。
エイダは覚束ない足取りのまま、近くにいた軍医の元まで行き、その襟ぐりを弱々しく掴み上げる。
「お、おね、お願い……っ! ライオットは……あの方は………っ、こ、殺されたの?」
「!」
ギョッと軍医が目を剥き、すぐにエイダの腕を掴んで講堂の隅へと連れて行く。
「どこで聞いたかは知りませんが、そんな嘘情報に惑わされてはいけません」
「嘘……?」
「そうです、嘘です。今は情報が錯乱してる状態なので仕方ありませんが……とにかく、貴方も落ち着いて―――」
軍医はその後も色々言っていたが、エイダの耳にはもはや届いていなかった。
ライオットは騎士団長で、戦争の前線で戦った。
ならば、そもそもエイダの言葉を聞いて「嘘」だということが間違っているのだ。
この状況で「殺された」と言われれば、魔の者に殺されたと思うはずだ。だから軍医が驚くのも、嘘の情報だと返すのもおかしい。
軍は何かを隠している。
コレットの言っていたことは本当だった。
「――――、そう。嘘、なの、ね……」
いつの間にか軍医は持ち場へ戻っており、エイダは一人立ち竦んでいた。
「ライオット……安心してね。私が……私が、貴方の仇をとるから」
愛する人の喪失感は、彼を殺した者への憎しみに変わっていた。
「種を蒔きましょう♪ 種を蒔きましょう♪
舗装された石畳の道に 畔道に 砂利の道に♪
そこから芽吹くのは 花かしら♪
それとも 蔦かしら♪
それとも 毒草かしら♪
種を蒔きましょう♪ 種を蒔きましょう♪」
講堂二階席の柵の上からエイダの様子を見下ろしコレットは機嫌良く歌を口ずさむ。
――片思い。
一途と言えば聞こえはいいかもしれないが、それは一人よがりで独善的でもある。
エイダの場合、それをこじらせすぎてしまったのだろう。
自分こそがライオットを一番愛し、尽くし、誰よりも彼のことを知ってると自負している。
執着していた、と言ってもいいだろう。
それ故に、ライオットを失ったことへの絶望感も孤独感も大きかったはずだ。
コレットは歌う。
「種を蒔きましょう♪ 種を蒔きましょう♪
歪んだその表情を どうか私に見せておくれ♪
瞳に映るのは 絶望かしら♪
それとも 狂気かしら♪
それとも 虚無かしら♪
種を蒔きましょう♪ 種を蒔きましょう♪」
孤独と虚無感に苛まれるエイダは、コレットが何も言わなければ自殺していただろう。
だが、彼女の感情は昇華された。
怒りと憎しみに。
生きる気力と目的を見いだしたのだ。
ああ、良いことをした♪ とコレットは無邪気に笑う。
無意味に自殺し、無価値のまま終わるよりも――生きて何かを成し遂げる方が、良いでしょう?
「―――ふふっ♡ 次はどこの誰に種を蒔こうかしら?」
コレット。――女神教枢機卿員“第5位席”の『純粋なる影』。
いずれ、ティフィアにとって不倶戴天の敵となる存在である―――――。
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次話で間章Ⅱは最後です。
4章後編を始める前に、リウルの過去編の続きを更新予定です。