2-6
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ニア・フェルベルカはカムレネア王家の王女として生まれた。たくさんの兄姉に囲まれて、忙しくとも愛情を注いでくれる両親を持ち――幸せだった。
ただ不満があるとすれば、それは他人に“合わせる”こと。
むりやり笑顔をつくり、面白くも無いのに他人の冗談に笑い、思ってないことを口にする。
兄や姉たちは平然とそれをやってのけるけど、ニアにはそれが難しかった。それでも王族として生まれた身、やらなければいけないことも理解しているつもりだった。
それでも息抜きのように窓の外から眺める街はキラキラ光っているように見えて、常に死と隣り合わせの傭兵たちですら自由に見えて。
それが羨ましくて――ニアはある夜、城を抜け出した。
城の中の魔術紋陣を使って教会へ転移すると、神父にバレないように教会から出て、初めて一人で降り立った街は、思っていたよりも薄暗かった。
教会があるのは“住居層エリア”だから、すでに寝静まった街が静かなのは当然なのだが。それでも暗い夜道が怖いと思うのもまた、まだ8歳ばかりの非力な少女なら当然だろう。
灯りを求めて彷徨い、気付けばならず者たちが拠点とする“最下層エリア”に来てしまい、人気も灯りもあるけど喧噪があちこちで響くこの場所は一人きりの夜道より怖かった。
城に戻りたくても戻る道が分からない。警備兵もどこにいるか分からない。
どうしよう、と顔を真っ青にして蹲っていると、ガシャガシャとどこからか鎧の音が聞こえた。
――きっと巡回兵だ!
ならず者たちは軽装が多い。鎧の音を出すのは兵士しかいないはずだ。
見失った親鳥を探す雛鳥のように、拙いながら走り回り、必死に音を頼りに見知らぬ道を行く。
「待って! 待ってよ!」どこだかも知らぬ建物へ入る鎧の後ろ姿を視界に入れたとき、ニアは慌てて声を上げた。
鎧は足を止め、辺りを見回してからゆっくりニアの方へと振り返り「俺?」と己を指差して平坦な声で問う。周囲に他に人はいない。貴方しかいないでしょ、とばかりに大きく頷くと、おそらく男が入った鎧は首を傾げた。
頭まで顔を隠すように、全身鎧で装備したその男は、近づいてくるニアに対して敬礼もしなければ呆けたように少女を眺めている。王族に対して不敬だ。そう思っても、頼れるのは彼しかいない。
「私、城に戻りたい。案内して」
「……俺が?」
「そうよ! 貴方しかいないでしょ!?」
「…………もしかして、お姫様?」
「そ、そうよ! 気付かなかったの!? ニア・カムレネア・フェルベルカ! ちょっと……散歩してたら戻れなくなっちゃったから、教会でもいいから案内してちょうだい」
頼んでいるとは思えない、ふてぶてしい態度。
勘違いされてる気がする、とは男もこの時点で気付いたのだが、さすがに拒否するわけにもいかないかと頷く。
「ねぇ貴方、剣二つ持ってるの?」
了承した男に満足した彼女が次に目をつけたのは、彼が腰から提げる双剣だった。
「……うん」
「前に騎士長様が言ってたけど、武器は数じゃない、技量だって言ってたわよ?」
「……。確かに、技を磨くのも、技を増やすことも、……大事だけど」
技が少なければ、対峙した相手にそれを見破られ、隙を狙われやすくなる。それに技は連撃を繰り出すための流れの一つだ。だから剣術というものは技が多いし、その重要性も分かるが。
「でも……武器の数だけ、種類があるように。武器の数だけ、技も、ある」
「?」鎧の隙間から見えた紺色の瞳が、僅かに笑んだ気がした。
「……見る?」
嘘だ、見せたいだけじゃないか。
現にニアの答えなど待たずして、すでに双剣を鞘から抜いていた。
「ふふっ♪」
目の前にいた鎧の男が消える。だけど思わずというように彼が笑った声だけが耳元に残った。
咄嗟に振り返れば、路上に倒れ伏したならず者の男たちが5人。すでに鎧の男は双剣についた血を振り払って鞘へと収めるところだった。
おそらくこのならず者たちは、鎧男を追いかけるニアを追いかけてきたのだろう。それはそうだ。こんな寝間着と言えど高価な服を纏った幼い少女が一人でいれば、金になるだろうと捕まえにきたのだ。
しかし、不幸なことに彼らは鎧の男の手によって殺された。
地面に広がる血だまりに、ニアは腰が抜けたように尻餅をつく。
剣術なんて護身術以外でしか習ったことのないニアですら分かった。
この人はカムレネア王国軍を束ねる騎士長様より強く、国のために冷静な裁量を下す父王よりも躊躇いない。
「どう、だった……? ちゃんと、見た?」
見えるわけないじゃない、と震える唇では返せなかった。
暗い夜道よりも、この“最下層エリア”の雰囲気よりも――この鎧男が怖い。
そんなニアの恐怖心を感じ取ったのか、彼は落ち込んだように肩を落とし、それから動けずに震える少女を抱えた。
「教会なら、……案内出来る」そう言ってゆっくりと歩き出し、気まずい無言な時間が流れ続けていたが、やがて教会が見えてきたところで彼はニアを降ろした。
「次からは、一人で出歩いたら……駄目だよ」
「ぁ、」喉が引き攣って言葉が出ない。助けてくれた、教会まで送ってくれた。せめて感謝の言葉くらい、言いたいのに。
彼はここの兵士じゃない。ならず者とも違う気がする。
小さくなっていく鎧の男の後ろ姿。
少女は小さな手を伸ばす。
――待って。
待って、いかないで。
怖いと思ってごめんなさい。
助けてくれてありがとう。
言いたいのに、言えない。
伝えたかった言葉は、いつも届かない。
闇夜に呑み込まれる鎧の男の後ろ姿が、もう一人の青年と重なって見えた。
――いかないで。
強くなるから。
もう怖がらないから。
だって、私は知ってる。
夜道を一人で歩く怖さも、知らない場所で蹲る寂しさも。
鎧の男も、リウル様も、なのにそんな恐ろしい場所へと進もうとする。
そして、ティフィア様も。彼女が向いている先は、まさに二人が歩んでいった方向だから。
だから、私は。
私は――。
「…………あれ、私、もしかして寝てた?」
不意に目を覚まし、かすかに痛むこめかみを抑えながら顔を上げる。
――ここは10年前まで、仲間たちと暮らしていた拠点の小屋だ。
リウル様。ラヴィ。私。
まだ何も知らない、ただちゃんと『仲間』になりたくて、必死になってたあの頃。きっとそれは私だけではなかったはずだ。私たちは不器用で、どう気持ちを伝えればいいのか、どこまで踏み込んでいいのか、分からなかっただけで。
そして、それ故に――間違えてしまった。
「んんーっ!」座りながら寝ていたせいか、固まった身体を伸ばす。ちょっと寝違えたみたいに首が痛い。
それから机へと視線を落とすと、寝落ちるまで読んでいたノートが開いたままだった。
――リウル・クォーツレイの手記。
「……」
この拠点にあった彼の遺品は全て教会に没収されてしまっている。だけど、このノートだけは見つからずにこの小屋にあることだけは知っていた。
ベッド下の床を剥がして、地面を掘り返さないと見つからないから。きっとラヴィも知らないだろう、この手記の存在は。
……そう、反対に言えば、私はずっと知っていた。知っていて、見なかった。見るのが怖かったから。
もしリウル様が私に対して恨み言一つでも書いていたら、彼の“死”にもう立ち直れないと思ったから。
「リウル様……」
今でも鮮明に思い出せる。
その日は、リウルが「全部終わらせてくる」と言って、拠点から出かけていった後。
ヴァルツォンとイゼッタが大きな荷袋を抱えて王城へと入ってきたとき、ニアは謁見の間の扉を警護する任に就いていた。彼らと一緒にクローツも部屋へと入り、陛下と何か重要なことを話していた。
だけど途端に騒がしくなって、ニアは嫌な予感と共に扉を開けてしまった。
ヴァルツォンとイゼッタが捕らえられ、その足元に転がる――ひとつの死体。目立つ髪色に、それが誰のものか一瞬で分かってしまった。
どうして一緒に行かなかったんだろう。全部終わらせると言った彼に、ついていっていれば……リウル様が死ぬことはなかったんじゃないか。
隣に立って一緒に戦うと決めたはずなのに。気付けば私たちは、とっくにバラバラだったのだ。
後悔よりも、自失状態だった。強くなる理由も、前を向く意志も、何もかも失ったように思えて。惰性のように生きて、親衛隊としての任務をこなして、なんとなく日々を過ごして。
リウル様の葬儀も、参加したけど涙は出なかった。
見かねたクローツ様がティフィア様の教育係にと私を使命したとき、正直見放されたかと思った。でも、違った。
ティフィア様が勇者の慰霊碑に、リュウレイと協力してたくさんの花を供えてくれた。
「リウルさんも、他の勇者の人たちも――たくさん戦って、傷ついて、それでも頑張って。……僕たちが生きて、明日に向かって歩けることを疑わない日常を守ってくれたこと、忘れないようにしないとね」
その言葉に、ハッと気付かされたのだ。
リウル様は優しい人だった。私はたくさん迷惑をかけたし、足を引っ張って、それでもリウル様と一緒にいたいという思いを受け止めて、仕方ないなと何度も助けてくれた。
一人で戦場へと赴いたのも、自殺したのも。私のせいだとずっと自責して――幼い頃から変わらない。ひどく傲慢で、悲劇に酔いしれて……私がなりたかった『騎士』は、そうじゃなかったはずだ。強くなりたかった理由は、こんなところで折れる程度のモノじゃなかったはずだ。
――ティフィア様は己で自身の“道”を選んだ。
でも、それをきっと先生は――ガロ・トラクタルアースは、必ず潰しにかかるだろうと、サハディで剣を交えたときに予感めいたものを感じだ。
ティフィア様の側で彼女を守るだけでは駄目だ。私が側にいれば無意識にティフィア様は私を頼るし、私もまた甘やかしてしまう。アルニと共に旅をして分かった。私は彼女の成長を留めてしまっていた。
今ティフィア様に必要なのは守られることじゃない。彼女が決めた“道”へ突き進むための『勇気』と『自信』だ。私の存在は邪魔になってしまう。
それにガロが“敵”になるなら、私は私で強くならなければいけない。もっと、今よりも。
そのために“過去”へけじめをつけにきたのだ。
「……ふ、私は本当に愚か者でしたね」
リウルの手記は、いろんなことが書かれていた。まるでこのノートを誰かに読まれることを意識したように。そして、それは――きっと。
手記の最後のページには、書き殴られた言葉があった。
“ふたりとも、ごめん。今までありがとう”――と。
「私たちは……本当に言葉が足りなかったみたいです。リウル様、それは私とラヴィの台詞でもあるんですよ」
ごめんなさい、と。ありがとう。
言いたかった言葉は、伝えたかった言葉は、いつも届かない。
だからこそ、同じ後悔はしたくないから。
「………そろそろ行かなければ」
ティフィア様は帝国に戻ってくるつもりだ。それまでに私は私の為すべきことをしなければならない。
手記を閉じ、懐へしまう。
覚悟は決まった。
ティフィア様が戦争を止めるために戻ってくるなら――私はそれまで、時間を稼がないと。
***