5-6
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グアラダという人間が、本当の意味で“グアラダ”として生まれたのは――ラージと出会ったあの時からだ。
それまでの彼女の人生は、何も無い。無機質のようなものだった。
グアラダが物心ついたときには、ただ広いだけのほこり臭い、倉庫のような部屋の隅で常に膝を抱えていた。
「グアラダ、お腹空いたでしょ? ほら、食事よ」ときおり部屋にやってくる女性は、おそらくグアラダの母だ。彼女は1日3回、ご飯だけ与えにやってくる。
「グアラダ。いつかきっと、あなたの父親と一緒に3人で暮らしましょうね。どこがいいかしら。あの人がいるカムレネアでも良いわ」
あの女が来ると、彼女から甘ったるい匂いがした。当時は分からなかったが、メグノクサの花だろう。彼女は中毒者だった。
少女の父親との生活を夢想し、そして結局グアラダのことなど忘れて、父親との思い出に一人浸っては幸せそうに部屋を出て行く。
愚かな人だった。どうせその“父親”が戻ってくることなんて、恐らくないだろうに。
そうしていつも母親の一方的な夢物語を聞いて育ったグアラダだったが、ある日を境に彼女が全く来なくなってしまった。
「……?」
グアラダにとっては食事係のような人が、いつまで経ってもご飯を持ってこない。
やがて空腹に死にかけ、部屋から出ることにした。度々暇つぶしに部屋の外に出ていたから、なんとなくどこに何があるのかは知っている。
そして、ここが日の当たらない“地下”であることも。
地下は迷路のようだったが、慣れた足取りで食糧が備蓄されている貯蔵室へ向かう。いつか“母親”が来なくなる日がくると、なんとなく予感がしてたから。
地下には時々巡回してる兵士もいたけど、見つからずに生活するのはグアラダには容易だった。
そうして少女は長い間、ずっと一人で地下にいたのだが――ある日、気まぐれに地上へ出た。「っ、」目に痛い日差し、暖かな空気、耳障りな雑音。
地上は想像以上に雑多で、ごちゃごちゃしていて五月蠅かった。私には無理だ、と再び地下へ潜ろうとしたとき、暖かな空気と一緒に美味しそうな匂いが胃袋を刺激した。
“母親”からした甘ったるい匂いでもなく、貯蔵室にあった非常食の無機質なニオイでもなく。
彼女が持ってきた食事よりも、もっと美味しそうで涎が出てきてしまいそうな――。
食べたい。
貪欲な食欲に理性が負けた。
街には露店が並び、そこから色んな匂いがした。行き交う人々は吟味し、購入して食べている。
当然グアラダにはお金はないし、お金を払って商品を得るという常識も知らない。
カウンターに置かれていた、小麦の麺に野菜と塩辛い調味液を合わせて炒めた物が入ったパックを掴み、その場でかっ込むように食べたら――いきなり店主に殴られた。
怒りに満ちた目、言ってることは分からなかったが怒鳴りつけてきたであろう大声、拳や踵で何度も暴力を受け、グアラダは初めて恐怖を感じた。
死ぬ。
そう思ったとき、暴力はなくなった。「これに懲りたら馬鹿なことすんじゃねーぞガキ!」と店主もいなくなり、痛む体を引きずって地下に戻った。
「……」
地上は恐ろしいところだった。食べ物一つ得るのに、あんな目にあわなければいけないのか。
――そこでふと思った。ああ、バレなければいいのか、と。
地下と同じだ。兵士に会わないように食糧を調達する。地上でも同じことをすれば、痛いことはされない。
それからのグアラダは、いかに店主にバレないよう食べ物を得られるかに夢中になった。人の視線、動き。タイミング。息を潜め足音を消し、気配をなくす方法。
それでも何度か死にかけた。店主に、或いは雇われた傭兵に。ボコボコにされ、川に沈められそうになったときもあった。
だから――地下のとある一室。武器保管庫から刀を盗んだ。
バレたら、殺されそうになったら……その前に殺してしまおう、と。
あの頃は獣だった、とグアラダは思う。
魔物のように人を襲うことも厭わず、本能のままに食べ物を盗む。人間の所業ではない。
殺すことに躊躇いはなかった。殺されそうになったから殺した、それだけだった。
そんなある日、食べ物を盗み地下に戻ろうとした帰り道、男たちに囲まれた。何を言っているかは理解出来なかったが、下卑た笑みが不快で、彼らが手を伸ばしたときには刀を抜いていた。
触るな。
私に触るな。
お前たちも殺しにきたのか? 拳を振るいにきたのか?
なら、私もお前たちを殺そう。生きるために。
「な、なんだこの女! 頭おかしいんじゃねーのか!」男たちが怯えたように尻尾巻いて逃げていく。
その無様な後ろ姿を見送っていると、路地の入り口にやつれた顔の少年が一人、グアラダを見つめて突っ立っているではないか。
――なんで見る? お前も殺しにきたのか。
警戒するグアラダの前で、しかし少年は突然ボロボロと泣き始めてしまった。
ギョッとした。だけど、見るからに貧相な体をした少年は明らかに非力そうだ。グアラダが怖くて泣いてしまったのかもしれない。
……でも、泣きながらも彼女から目を離そうとしない少年の薄茶色い瞳に“恐怖”の色はなかった。
「なんで、なく」
泣き縋る少年が、昔の自分に重なって見えた。一人、倉庫のような部屋で食事を持ってくる母親を待っている、幼い自分の姿。弱かった、あの頃の自分に。
泣き終えて落ち着いたのか、恥ずかしそうに俯き、離れて行こうとする彼をぼんやりと見送ろうとしたとき、別の路地から敵意を感じた。それは少年に向けられていて、彼は無防備に一人どこかへ行こうとしている。
なんて危うげな背中なんだろう。
武器も持ってなさそうだし、あの細い肉付きでは抵抗もままならないはずだ。
「………」
せめて、安全な場所まで送ってあげよう。そう思ったのは、ただの同情だった。
グアラダには“地下”がある。あそこは彼女の居場所であり、ずっと暮らしていたからこそ居心地も良い。
少年は幼い。きっと両親のいる家に帰れば、きっと。
――しかし、彼を襲おうとしている者たちを牽制しながらついていった先は、家、というより事務所のような場所だった。
少年に挨拶やら仕事の話やら世間話やら、声をかけてくる人は多いのに、どいつも狐のような目をして媚びている。少年もそれが分かっているのか適当に相手し、終始固い表情のままどこかの部屋へ入った。
ここが彼の部屋のようだ。疲れたように一息吐く少年に一人満足すると、もう役目は終わったと帰ろうとするが、何故か引き留められて風呂に入れられた。
「……」
地下には風呂はない。初めての風呂に戸惑いつつもなんとか体を綺麗に、それから誰かの服を着せられ、何故か食事まで用意され――今度こそ帰された。
……なんだったんだ。なんで服も食事もくれたのか。敵意から守ったから? でも彼は気付いていなかったはずだ。
「…………」
事務所のような、少年の家を振り返る。
――本当にここは彼の“居場所”だったのか?
彼はずっと、グアラダのことよりも周囲に怯えているように感じた。少年の両親もいるようには見えなかった。
「…………………」
彼は、独りなのか。居場所すらないのか。
これからもずっと、誰かに狙われ、悪意に晒され、信頼できる人もいないまま……。
――それは、なんだかとても悲しい。
それならば、と少年の傍にいることにした。私がいることで、多少なりとも周囲への牽制にはなるはずだ。
彼がそれに気付かなくてもいい。誰か信頼出来る人が出来たなら、それで私は地下に帰ろう。それまでは。そのときまでは―――。
「メビウス・ダミアンや。宜しく、ラージ。……グアラダも」
初めて会ったあの日から歳月が流れ、ずいぶんラージと打ち解けた頃――ヤツは目の前に現れた。
ひと目見て気付いた。きっとそれは彼も同じだっただろう。
メビウス・ダミアン。
彼は、私の“父親”だった。
――ラージの目を盗んで彼に一人会いに行けば、彼は特に感情もなく「なんや、死んでる思っとったわ」と口にした。
「……私も、父は死んでるか別に家庭があると思ってました」
「分からへんなぁ、人生は。でもまぁ、ラージのところにいるとは……俺はツいてんな」
「! 今まで顔も知らなかった父親の言いなりになるつもりはないです。もし、ラージを害すようなら――誰であろうと容赦するつもりはない」
「おぉ、怖ッ!……だけどそれでエエ。むしろその方が俺にとっては都合良い」
お前はそれで良い、とそのときのメビウスは言った。
――なのに。
数年後、メビウスは唐突に私を呼び出して、そのときとは反対のことを宣った。
「そろそろ頃合いやな。――グアラダ、ラージを裏切れ」
「は……?」
「拒否は出来んよ? ラージの母親、ランファの身柄は俺の手元にある」
「!?」
「お前さんがラージの動きを逐一教えてくれれば、ランファにはこれ以上手出しはせぇへん」
「こ、これ以上って――」
「権利書の在処を吐かせるのに手間取ったんや。花使ってな? 結局ラージが持ってることしか分からへんかったけど。でも、それだけ分かれば十分や」
ランファがどこか外国に隠したわけでもなければ、彼女が知っていそうなラージの隠し場所にも無かった。
つまり、本当にラージしか権利書の在処は知らない。
だとすれば。
「一番手っ取り早いんは、お前さんがラージから権利書を預かるか盗むかや。だけど慎重なラージがそんなヘマするわけがない。……せやなぁ、まだこの麻薬のことは気付かれてないことやし。あいつのチョコにでも混ぜて、」
「だ、駄目だ! それだけは……っ」
もし。もしも麻薬を摂取したなんて気付いたら、ラージは在処を吐く前に自害するだろう。
そういうことに備えて、常に毒を持ち歩いていることは知っていた。
「せやろ? 俺もラージに死んで欲しいわけやない。それに――ランファが生きて戻ってきたなら、あのマザコンは泣いて喜ぶとは思わへん?」
「……」
「グアラダ、教えてくれるだけでええんやで? それだけで、ラージも、ラージの大切な母上も――お前さんが守れるんや」
「…………」
ラージ。
私は――ラージが好きだ。
ラージがくれたんだ。
無機質なこの世界が、ラージと一緒にいることで変わったんだ。
今まで“生きること”だけしか知らなかった。そんな私に、誰かを守りたいと、支えたいと、居場所になってあげたいと、そう思わせてくれた。
ねぇ、ラージ。
私だけじゃないんだ。他にもたくさんいるんだ。あなたの身を本当に案じて想ってる人たちが。
「…………………――分かった」
気付いて欲しい。
分かって欲しい。
―――届いて欲しい。
独りじゃない、と。独りぼっちじゃないんだ、と。
怯える必要なんてないんだ、と。
そして、作戦当日。
「ラージ。捻りもなんもなくてアレやけど、ランファ・ブランターク含めた行方不明者全員の命と引き換えに、“権利書”渡してもらおうか?」
「本気で言ってるとしたら、焼きが回ったなメビウス。俺がそんな脅しに屈するわけがないだろ」
メグノクサの花畑でメビウスの脅迫をはね除けたラージ。
まぁそうやな、と溜め息を零すメビウスの動きを警戒する。――こいつのことだ、このまま終わるはずがない。
「じゃあ仕方ない!」にっこりと笑みを浮かべたメビウスは続けて言った。
「グアラダ、お父さんからの頼みや! ラージに麻薬を使ってくれ!」
「――――は?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
確かにメビウスは血縁上“父親”だ。だけど、なにを急に。そんな頼み聞くわけがないだろ。
だけど、ふと視線を感じて振り返れば、何故かラージがグアラダを見ていた。
「わ、若? どうし――」
そのとき、己の失態に気付き愕然とした。
だって私はラージに言っていない。メビウスが父親だと、話さなかった。余計な気苦労かけるかもしれないと、それに自分自身が彼を父親だと意識してなかったから。
「ち、違うんです、ラージ!」
違う? 言いながら、自分で何が違うのかと問う。
メビウスが父親であることは、もう事実だろう。その彼の言いなりになっていることが?――いや、現にメビウスに脅されるまま情報をリークしていた。
違わない。何も。
「ち、ちが……っ、ちがう、んです!」
言わないと。
ラージを害するつもりはないと。味方だと。
本当に裏切ったわけじゃない、全部あなたのために―――!
「……………そ、うか」
ラージの返しは、それだけだった。
でもそう言うのと同時に、合っていたはずの視線を逸らし、顔を俯けてしまう。
その瞬間、分かった。
ラージはおそらく知ってた、メビウスとグアラダの関係を。知っていて、それでも許容してくれていたのだ。
私が間違えたのは――その関係性を否定するのではなく、父親からの頼みを拒絶することだった。
「っ、」
「可哀想なラージ。最初からお前さんは独りぼっち。――せめて俺の役に立ってなぁ?」
ラージへ縋るように伸ばそうとした手をメビウスに取られ、何かを握るように渡された。
見れば、それは麻薬の入った注射器だった。
「な、」
「グアラダ、ラストチャンスや。ラージに在処を吐かせろ。そうすれば――お前さんにラージをやる」
耳元で囁かれたのは悪魔の声のようだった。
どちらにせよラージはここで終わる。グアラダがやらなくてもメビウスがやるだろう。そうなれば、在処を吐いた時点でラージは用済みだ。
死んでしまう。――死んで欲しくない。
ラストチャンスだとメビウスは言った。
ラージが好きなら、欲しいなら………。
「ラー、ジ………」
愛しい青年は何も言わない。ただ、きっとその頭の中では、どうこの状況を切り抜けるかでいっぱいなのだろう。
もう、グアラダのことは“敵”だと切り捨てて。
「――――っ」
ラージ、せめてこっちを向いて。
どうして何も言わない?
どうして諦めているの?
あのときみたいに、泣いて縋ることもしてくれない?
違うだろ、嘘だろ、と言ってもくれない?
信じてたのに! て、批難もしてくれないのか?
「らーじ…………」
グアラダ、と。もう呼んでもくれない?
「ほら、もうええやろ? 死なせたくないんやろ?――もう、答えは出てるやないか」
答え。
そうだ、その通りだ。
ラージ。好き、好きだ。愛してる。
手を伸ばし、初めて彼を抱きしめる。ビクリと肩を震わせ、拒むように暴れる体を押し倒して花畑に埋もれさせると注射器をその肩口へと突き刺した。
「っぐ!」小さく呻き声をあげ、薄茶色の瞳が何を堪えるように涙を浮かべる。
「ラージ……お願いです、権利書の在処を言ってください。そうすれば、」
「ん」全てを注入し終えると、メビウスが新しい注射器を渡してくる。
「ぅうっ、や……止め、」
「言ってくださいラージ! お願いだ! でないと私は――!」
独りで悪意や不安に怯えていた少年。
私が側にいることで、それが少しでも和らげられればと思っていた。
なのに。
どうして、こうなってしまったんだろう。
ごめん。好きになってごめん。
守ってあげられなくて。支えてあげられなくて。
ごめん。
ごめん、ラージ。
―――誰か、助けて。
***