痛みの拠り所 ①
***
『火』が嫌いだった。
視界いっぱいに広がる炎はすべてを焼き尽くさんと激しく燃え盛り、生ける者も築いてきた物も飲み込んで、熱に溶かしてしまうから。
炎と一緒に声が聞こえる。
噎び泣く子供の声。
劈くような叫び声。
この炎は“怨嗟”だ。
この炎は“悲嘆”だ。
炎に巻かれて、すべてが消えていく。
なかったことになっていく。
俺はどうすることも出来ず、目の前で力尽きたように黒い炭となった腕が崩れた。
いやだ。
いやだ!
お願いだから、置いていかないでくれよ。
お前が――アイリスがいなかったら、俺は………俺は、これからどう生きていけばいいんだ!
そのとき、誰かが言った。「これが――の――――本来の×××だと言うのか……!」
「素晴らしい!」「素晴らしい!」
「勇者様、万歳!」
「万歳!」「万歳!」
炎に巻かれて嗤う、人影たち。
許せない、と思った。
憎い、と。
騙したのか、と。
膨れ上がる殺意に歯止めが利かない。
殺してやる。
何もかも、ぶっ壊してでも――!
膨れ上がる魔力を精霊たちに食わせて、初めて己の意志で人を殺した。
だけどそれすらも炎は燃やして消してしまう。
それなら。
どうせなら。
俺のことも消して欲しい。
痛みも苦しみも。
憎しみも悲しみも。
すべて浄化するように、なかったことにして欲しい。
「かみさま、」もし本当にいるのなら。
――どうかこの“願い”を、叶えて欲しい。
***
ふと目を覚まして、起き上がる。
「……?」
霞がかったようにぼんやりとする思考と意識。
虚ろな灰黄色の瞳で周囲を見回しながら、ここが森の中だと認識する。
そのとき視界の隅に映ったたき火が「パキッ」と音を立てて爆ぜた。
「!」びくりと体が震える。
赤い火が。
炎が。
燃えて、すべてを舐めるように溶かして。
嗤う声が。
叫び声が。
「っ、ぅう……ああぁぁあ……っ!」
視界が真っ赤に染まっていく。
痛くて痛くて、気持ちが悪くて、胃から迫り上がってきたものを吐き出す。
「あら、ようやく起きたみたいねぇ?」
不意に背後からかけられた声。
そして肩へ置かれた手の感触にぞっと恐怖が湧いて振り払うと、すぐに前へと転がるように距離をとり、すぐに右手を前に翳した。
「ずいぶんと威勢がいいじゃない? でもダメねぇ。あなたには使える魔力も残ってないし、何より数日間ずっと眠ってた体じゃあ満足に動けないはずよ? 敵対するなら、それくらい分析出来る冷静さはあった方がいいわよ」
それに、と彼女は持っていた酒瓶を逆さにすると、零れるはずだったその液体を宙にいくつも浮かばせる。
「――同じ魔法師なんだから、“敵意”を向けるのは出来れば止めて欲しいわぁ?」
ウェーブがかった金髪の女性は大きな胸を揺らし、どや顔でそう言った。
「ま、ほう?」――魔法。
それは×××の×を×××して×××××、××××××する原理。
「……?」
知っている。いや、知っていた。とても身近に感じていたもののはずだ。
だって今までそれを使って――使う? 何を? どうやって?
戸惑う少年の表情に違和感を覚え、「あなた、もしかして」と言いかけたところで。
「ニマルカぁ~!! 先に戻るなんて酷いじゃんかぁ~! おいらだって眠くて眠くて瞼がさっきから開かな、い………あれぇ~?」
ニマルカ、と呼ばれた女性の後ろから、更に人影が現れて警戒する。今度は吟遊詩人然とした格好の青年だ。
「……ラヴィ、ちょっとタイミング悪いわよぉ?」
「えぇ~、そんなこと言ったって見張り当番一緒だったんだから、先に戻ったニマルカとそんなに変わらないくらいで戻ってくるよぉ~!……というかぁ~、レッセイには言ったの~? きっと泣いて喜ぶんじゃないかなぁ!」
「そういえばあの二人、アルニちゃん置いてどこほっつき歩いてんのよぉ! 見張りだって交代の時間じゃない!」
「お、落ち着いてぇ……どうどうどぉ~」
ぎゃーぎゃー騒ぐニマルカを宥めていたラヴィは、ふ大人しくなった少年へ視線を移す。
彼はたき火から離れた位置で蹲るようにして丸まり、濁ったような黄色い瞳を閉ざしていた。
「ありゃ~……また寝ちゃったみたいだねぇ~」
「死んだように眠ってるわ」
「不謹慎だよぉ~」苦笑しながら毛布を掛けてやると、僅かにピクリと肩が震え、しかしすぐにまた規則的に寝息を立て始める。
「うふふ、可愛い寝顔♪ レッセイと血がつながってるとは思えないわぁ」
「……変なちょっかい、かけちゃダメだよ~?」
「いやねぇ、それくらい分かってるわよ」
本当かなぁと疑うラヴィの視線を無視し、「あ、戻ってきたわ」と森の奥を見る。
そこにはたき火の明かりとぼんやりと姿を現した二人の男がいた。
「ったく、酷い目にあったぜ……! 洗ったってぇーのによぉ、まだベタベタしやがる」
「自業自得だろ。忠告も忘れてガ―ウェ……レッセイが突っ込んで行くから」
「テメェはそろそろ呼び方慣れろや! 帝国出てどんだけ経ってると思ってんだ」
「2年3カ月と23日」
即答で正確な月日を答えられ、ドン引きしている中年の男がレッセイ。
そんな彼の斜め後ろに付き従うようにしている青年がルシュである。
「ちょっと二人ともどこに行って―――て、何それ」
何も言わずにどこかへ行っていた彼らを叱責しようとしたニマルカは、二人が何かを引きずっていることに気付いた。
黄色い甲殻と飛び出た目玉、トンボのような大きな翅を生やしたその魔物のことを、ルシュが口を開くよりも先にやや食い気味に「うっわぁ~! そ、それ! 蟹足蜻蛉だよね~! うひゃ~見たの初めてだよぉ~!」と興奮したラヴィが近寄る。
まだ生きているのか、角ばったいくつもの足がカサカサ蠢き、口からは「ネチャネチャ」と粘度のある泡を小さく吐き出していた。
どうやら森の上空を飛んでたところを偶然見かけ、レッセイが明日の飯だなと追いかけたらしい。
ルシュは残ろうか迷ったが、すぐにニマルカたちが見張りから戻るだろうと踏んでレッセイについていった――というのが経緯だった。
「これはねぇ~、鍋料理にうってつけなんだぁ。煮れば煮るほど出汁が出てねぇ~……それはもう普通の蟹なんか目じゃないくらい美味しいらしいんだぁ。
別名、黄金蟹って呼ばれててね~、普段は【魔界域】近海の廃船とか洞窟に生息してるんだけど、産卵の時期になると暖かい南の大陸まで渡るらしいんだぁ」
ハッ、それってつまりこの魔物にも卵がぁ~!? と一人でぶつぶつ解説しながら興奮している阿呆を放って、ニマルカはレッセイに近づくと、その耳元に「アルニちゃん、さっき目を覚ましたわよ?」と告げる。
ニヤニヤと反応を期待して待つ彼女を裏切り、レッセイはアルニを一瞥すると「そうか」とだけ返して、さっさと見張り場所へ足を向けた。
「えぇ~、それはつまんないわよぉレッセイ!」
彼の背中に文句をぶつけると、軽く頭をはたかれた。ルシュだ。
「あまり揶揄うもんじゃないぞ」
「なら、ルシュは良い反応してくれるわけぇ?」
「お前は酒癖の悪さが玉に瑕だな……」
「飲んでないわよ?」
「酒臭いのにか? どうせ見張りしながら飲んでたんだろ?――いいから寝ろ、見張り交代だ。……ラヴィ、悪いけどそいつ処理してもらっていいか?」
「もちろんさぁ~!……いひひっ、明日調理するのが楽しみだぁ~♪」
個性的な仲間を置いて、ルシュは見張り場所へ急ぐ。
野宿場所から少し離れた崖の近くで、見慣れた男の背中を見つけた。
青白い月を見上げている姿に、小さく笑う。
見えずとも分かる。
レッセイは今、いつものように口角を上げてにやりと笑っているのだろう。
だけど心から喜んでいる姿を見られたくなかったから、あの場では無反応を装ったのだ。
「良かったな、レッセイ」
そう口にすれば、
「うるせえ。見張りに集中しろ」とぶっきらぼうに返された。
だけどその声がやけに弾んでいたので、ルシュは堪えることなく笑った。