泡沫に消えろ 前編⑨
「……ダイジョウブ、カ?」
小首を傾げて問うガラテスに、何度も深呼吸して緊張を解していたリウルは、引き攣った笑みで頷く。
――あれから数日後、リウルとガラテスがいるのは以前ラヴィたちが黒毬藻の大群に襲われた、例の遺跡の中だ。
魔王がリウルと会うことを快諾したと聞き、場所と時間を指定した。
大型の魔物が出現したことで人も立ち寄らないし、遺跡に入らなければ密会の場面を見られる心配もないということで、ここなら都合がいいと判断したのだ。
「……上手く説得出来ればいいけど」
失敗すれば……下手すればここで魔王と戦う、なんてことになりかねない。それだけは避けなければ。
「――ユーシャ」
ガラテスの声に顔を上げる。
来た。
ゆっくりと近づいてくる禍々しい気配と力に固唾を飲み込む。
無意識に武器を出さないように、腕輪をさすって気を紛らわし―――そして。
「またせたのう、勇者よ。一応“初めまして”と言うべきか?」
広間に通じる扉をすり抜けて登場を果たしたのは一人の女性と、彼女の後ろをついていくように巨躯の男が現れた。
男は巨鬼よりは小柄ではあるが、スキンヘッドで剥き出しの逞しい上半身に入れ墨のような紋様が刻まれている。
だが何よりもリウルの目を奪ったのは、喪服のような黒いドレスを纏う女性の方だ。
緑がかった紺色の髪を緩く三つ編みにして左肩に下ろし、獣の耳と赤い紋様が浮かぶ肌。切れ長の群青色の瞳―――その姿にある人の面影が重なる。
「か、あ……さん?」
呆然と思わず口にした呼称に、魔王はクッと愉快そうに口角を上げた。
「そうかそうか、勇者よ。おぬしには妾が“母”に見えるか! だがおぬしの母は魔族ではなかろう? それに今も貴様の故郷にいるはずじゃ」
「……」そうだ。その通りだ。
こんな場所に母がいるわけないし、こんな奇抜な格好も口調もしていない。
――落ち着け。
ただ似てるだけだ。
なぜ魔王が母のことを知っているのかはさておき、まだ話もしていないのに相手のペースに呑まれるなんてことあってはいけない。
「……そろそろ落ち着いたようじゃし、改めて自己紹介でもしておこうじゃないか」
まるでリウルの心情を見透かしているかのように、魔王が話を進める。
「妾は魔王ヴァネッサ。魔の者を束ねる存在じゃ。それから後ろにいる唐変木はジュラート。記録係じゃ」
「その紹介、悪意を感じるんですがねぇ……雑すぎませんかい?」
「ふんっ、間違ってはなかろう?」
まぁ良いですけどね、と疲れたように食い下がる魔族の男。
「………おれはリウル・クォーツレイ。知っての通り『勇者』だ」
「うむ。ガラテスから話は聞いたぞ? 戦争を止めたいと言ったそうじゃな」
「!――そうだよ。おれは、こんな争いに意味がないと思っている」いきなり本題に入るとは思わず、少し身構えながら口にする。
「争うことに意味が必要かのう?」
「じゃあ意味もないのに、魔の者は人を襲ってるの?」
「みんな好きにやってるだけじゃ。妾も、他の者も」
「死ぬかもしれないのに……?」
「『死ぬ』? ふっ、くく……! やはり、おぬしは何も知らないのじゃな」
まるで嘲るような物言いに、リウルは「な、何が?」と問う。
しかし魔王は焦らすように口を閉ざし、リウルの周りを見渡した。
「――本当に一人で来たようじゃな、勇者よ。仲間も友もここにはおらぬ。どうせ誰にもこの密会のことは話しておらぬのだろう?」
「っ、そんなこと――」
「“関係ない”、か?」
続けて言うはずだった言葉を奪われ、リウルは大きく目を見開いた。
「勇者よ、妾はおぬしのことをおぬし以上に知っておる。
――人は醜い。人は汚い。人は愚か。人は惨い。傲慢で利己的で、理不尽で暴力的で。
だからおぬしは誰も信用しておらぬ。おぬしを気に掛ける者も、友すらも。その証拠がコレじゃ。ここには魔王の妾と魔族が二人もいるにも関わらず、おぬしは“独りぽっち”ではないか!」
リウルが何かを言う前に、魔王は更に続ける。
「何が『勇者』よ。何が『希望』よ。人を救う存在が人間を信用していないなど――これほど滑稽なこともあるまい!」
「それは―――!」
「のう、勇者よ。いや、リウルよ。戦うことに意味を求めるのであれば……ならば、人間を救うことに何の意味を見出す?」
救う、意味?
「『勇者』だから? それとも、そうしなければならないからか? それが意味だというなら、魔の者と人間が争うのもまた同じこと。妾たちが魔の者で、おぬしらが人間だからじゃ」
意味などない、と。
それがあり様なのだと、彼女は諭す。
「それと憐れな勇者に良いことを教えてやろう。信じるか否かは己で決めるが良い」
魔王は言う。
「おぬしら人間の言う“100の巡り”……じゃったか? あれは真っ赤な嘘じゃ」
「う、そ……?」
「100年ごとに魔王が復活するわけではない。魔王がいるから女神が勇者を選ぶのではない。―――良いか、勇者。すべては逆なのじゃ」
逆。
それは、つまり。
「勇者が選ばれるから魔王が存在する。そして選んでいるのは女神ではない。人間じゃ」
「ま、待ってよ! それは矛盾してる。魔王が存在してないのに――なんで勇者を、しかも人間が選ぶ必要なんてあるの!?」
「そこまでは知らぬ。じゃが勇者が魔王を生む、これは事実じゃ。だから妾は“おぬしをおぬし以上に知っている”と言ったのじゃ」
「勇者が、魔王を……?」
到底信じられるものではない。
なのに、それなのに……魔王は真実を話していると、そう感じてしまう。
「勇者と魔王は“対”であり“一心同体”。勇者が死ねば魔王も死に、魔王が死ねば勇者も死ぬ。じゃから、歴代の勇者が『英雄』となって帰ることはない」
ああ、だから文献をいくら探してもないわけだ。
おれ以前の勇者たちは皆、魔王を倒して死んでしまったんだ……魔王と一緒に。
「なんで、そんな茶番……」
「さてのう。歴代の勇者もそれを知っていたはずなのじゃが、どうして死ぬことを選んだのじゃろうなぁ?」
魔王のその言葉に、リウルはつい最近の出来事を思い出す。
意識を失って、そして我に返ると魔物たちの死体の山が築き上げられていたことを。
「……なら、どうして魔王は人間に戦争を仕掛けるの」
先ほど魔王は言った。勇者が死ねば魔王も死に、魔王が死ねば勇者も死ぬと。それが本当なら、魔王が勇者を倒す理由も、そもそも人間を滅ぼそうとする理由もないはずだ。
争う意味はなくとも、理由がないということはないはずだ。
「“――人は醜い。人は汚い。人は愚か。人は惨い。傲慢で利己的で、理不尽で暴力的で。信用ならぬ”からじゃ」
「それ、」
「そう、さっきおぬしに言った言葉じゃ。そもそも妾たち魔の者は人間たちの“対”じゃ。おぬしら人間から生まれた、な。…………ここまで言えばもう分かるじゃろう、リウルよ」
聞きたくない。
そう思うのに、おれは魔王の言葉を待つ。
彼女はそんなリウルの前で唐突に跪くと、恭しく左手をとってその甲に唇を落とした。
「妾の――哀れで愛しき『神様』。おぬしの願いを叶えることこそが、妾の“理由”じゃ」