泡沫に消えろ 前編⑤
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「マオウサマ。ユーシャ、アッテ、ホシイ」
拙い言葉を紡ぎながら、先ほどの勇者とのやり取りを報告するガラテスに、歴代の魔王の側仕えである魔族のジュラートは「まじですか」と頭を抱えたくなった。
今代の勇者は最強だと名高い。しかし愚かなのかと咄嗟に魔王へと視線を向ける。
斜め前の玉座には黒いドレスを身に纏った、それは美しい女がいた。
――魔王ヴァネッサだ。
緑がかった紺色の髪を緩く三つ編みにして左肩に下ろし、獣の耳と赤い紋様が浮かぶ肌が特徴的だ。
そして切れ長の群青色の瞳が冷たくガラテスを見下す。
「本気でそのような戯れ言に耳を貸したのか、ガラテスよ。それはおぬしを誑かし、陥れるための罠じゃ。……人間が――特に勇者がそれほど愚かなことを言うはずが、」
ない、と続けるはずの言葉を止め、ヴァネッサは考え込むように目を伏せて唇を触れる。
「―――ふむ、そう言えば勇者はまだ子供だったな。……まだ、知らぬのか?」
『勇者』と『魔王』が対であることを。
そしてその理由を。
だとすれば、なんと滑稽な!
ヴァネッサは笑い転げたい衝動を抑え、良いだろうとガラテスに告げる。
「妾も勇者と話がしてみたくなった。時間も場所もそちらに任せると伝えよ」
「魔王様! さすがにそれは、」
「よい。例え罠であろうとそうでなかろうと、恐らくこれは勇者の独断。ならばこちらに分がある――じゃろう?」
「そうですけど……。魔王様の身に何かあれば、魔王代理である我が輩が大変なんですからね!」
「ふっ、ストレスで抜ける毛ももう無かろう。安心して苦労するがよい」
「これは生まれつきです!」
キラリとスキンヘッドを輝かせて喚くジュラートと魔王のやりとりを見ながら、ガラテスは本当にこれで良かったんだろうかと考える。
難しいことは分からない。
でも勇者は戦争を止めたいと言った。そして魔王様は勇者に会いたいと言った。
二人が話し合って和解することが出来れば、勇者の願いは実現するかもしれない。
――コレデ、ヨカッタ。
そう、これで良かったはずだ。
無理矢理己を納得させると、ガラテスはリウルに教えてやろうと魔王城を後にした。
***
帝都の玄関口の一つである“北門”の真下で、一人の少女が立ちすくんでいた。
薄桃色の瞳はじっと足先の地面を睨み、そこから先へ前に踏み出せない自分に「臆病者」と呟く。
――勇者に認めて貰おうと失態を犯してから、早数日。
彼女はその数日間毎日のようにこの門の下で立ち往生してしまい、先に進めずにいた。
ニアにとって『勇者』は特別な存在だ。
故郷であるカムレネア王国は、今やならず者たちに依頼して駆除してもらっているものの、昔は魔の者を遮る結界もなく、我が身を守るために国民達が魔物と戦っていた。
そういう歴史があるためか、国民は皆とても強い。
だからなのか、いるかどうかも分からない女神様よりも“強さの象徴”でもある『勇者』に信仰心を抱いている。
そしてそれはニアも同じだ。
何度も擦れきれるほど読んだ『勇者の物語』は、家族と縁を切って故郷を出てからもずっと大事に保管している。
大切な人や物を守れる強さ。それが欲しくて騎士になったニアにとって、目標であり憧れの存在だ。
「なんて情けないんだ、私は……!」
リウルの冷たい視線が何度も脳裏に過ぎる。その度に怖くなって、これ以上惨めな姿を見せてしまうかもしれないことが怖いのだ。
……ラヴィは気にしない方がいいと言っていたが、そういうわけにはいかないだろう。
「今の私はリウル様の仲間に相応しくない。……強く、もっと強くならなければ」
踵を返して北門へ背中を向ける。目指す場所は南門――その先にある遺跡だ。
前に先輩から聞いた話では、そこには強力な魔物が出るとか。
それを一人で倒すことが出来たら再びリウル様の元へ行こう、と決意を固めて。
***
殺せ。殺せ。殺せ。
――それが『勇者』の“存在意義”だ。
ハッと不意に我に返ったリウルは、飛び込んできた目の前の惨状に息を呑んだ。
少年を中心とした周囲には、切り刻まれたり抉られた四肢を放り投げた魔物の遺体が転がっていた。
地面は魔物の血肉で色を変え、リウル自身も返り血に塗れて全身が赤い。
「……おれ、」なんでこんな場所にいるんだ?
今日は休息日で任務もなかったはずだ。
なのにどうしてここにいる?
どうしておれは剣を握っている?
どうして魔物が死んでる?
どうして―――――――殺した?
「――うっ、ぉ」混乱と恐怖と共にせり上がってきた吐瀉物を吐き出し、喉の痛みとニオイと不快感に――これが“夢”ではないことを悟る。
リウルは口元を拭ってから大剣を地面に突き刺して、ふらつく体を支えながら改めて周囲を見回す。幸か不幸か、ラヴィの姿はない。
「………おれが、やったの?」
自分以外の人影はない。気配も感じられない。
不気味なほどの静寂に包まれていた。
「っ、?」ふとやけに左手が熱く感じて見れば、魔力も使ってないのに何故か『勇者の証』が浮かび上がっていた。しかも、黒く禍々しく。
だがそれは一瞬のことで、いつの間にか証は消えてしまった。
――どういうこと?
今のは何?
おれは―――どうなっちゃったの?
そのときだ。
<帰っておいで、我が愛しき勇者―――>
唐突に頭に響いた誰かの声。
いや、知ってる。
この声は、
しかしリウルが思い出すよりも早く、ぶつんっ、と意識が途絶えた。
「――ル様、リウル様」
誰かに呼ばれる声が聞こえて、そっとまぶたを開ける。
「このような場所で寝ては風邪を引いてしまいますよ?」
群青色の瞳がぼんやりと目の前の人を捉えると、リウルは気だるい体を起こした。
……どうやらいつの間にか城の中庭にあるベンチで寝ていたようだ。
少年を起こした女性は寝癖が残る彼の頭を優しく撫で、くすりと笑った。
「お久しぶりです、リウル様。ずいぶんお疲れみたいだけど、あまり無理をしてはダメよ?」
「………」リウルを気遣うその優しさにどう返していいか分からず戸惑う。
毛先が青みがかった銀色の長髪と黒曜石の瞳――ミファンダムス帝国第1王女のフィアナ・ルディス・ミファンダムス。
リウルの許嫁だ。
しかしお互いの気持ちなど無視した政略的なもので、二人にそういう気持ちはない。ただ歳が少し離れているのもあってか、フィアナにとっては手のかかる弟のような扱われ方をされている。
幼少期から親元を離れ、それからは親しい間柄の人がいなかったリウルは子供扱いされるのはちょっとうざったいのだが、別に悪い気はしないのでどういう距離感で接するべきか未だに悩んでいた。
「き、気遣い、感謝します」
「ふふっ、畏まっちゃって可愛い!」
ね、ガロ! と少し離れた場所で様子を見ていた彼女の護衛であるガロ・トラクタルアースは「こっちに振るなよ」と言わんばかりに眉を顰めた。
それにクスクス笑いながら、おもむろにリウルの頬へ手を伸ばす。思わずびくりと体が震えた。
「……顔色、悪いわ。お父様にもう少し休みをもらえるよう頼んでみるわね」
「え、ぁ。――いえ、ちょっと……夢見が悪かっただけ、だから」
「夢?」
首を傾げて問う彼女に、そこを聞かれるとは思わなかったが。
仕方なく先ほどの夢の内容を思いだそうとするが、ダメだった。嫌な夢だったことしか分からない。
――そもそもあれは本当に夢だった……?
一瞬過ぎった疑問に蓋をしてフィアナには適当に誤魔化せば、不意に彼女はリウルの手をとって両手で包み込むように握った。
「リウル様、私は貴方の味方です。だから――あまり気負いすぎないでね」
気負う……?
何のことを言っているのか分からないが、真剣な眼差しの彼女に圧されるように戸惑いつつも頷く。
そして自室に戻っていくリウルの背中を見送ってから、フィアナは近くに寄ってきたガロへ「ガロ、貴方は何か気付いた?」と問う。
「? 何かおかしかったですかぁ?」
訝しげな態度に、どうやら彼は本当に気付いていなかったようだ。
と言ってもフィアナ自身何がおかしいかハッキリ言葉に出来るわけではない。……ただ。
「――怖い」
彼女の小さな呟きに「なんか言いました?」と聞き返すガロになんでもないと首を横に振る。
リウルの手がとてつもなく冷たかった。それに口元も引き攣っていた。
フィアナに対して緊張していたのもあったかもしれないが、それ以上に――。
――――あれは“怯え”だ。
本人に自覚があったのかは分からないが、フィアナとけして目を合わせようとしなかった。夢見が悪かったと言っていたので、その夢のせいかもしれないけれど。
……でも、少し前からお父様の様子もおかしい。
個人的な友人でもあるイゼッタからも色々と帝国内部の情勢は聞いている。
ここ最近、異常なほど教会の力が増していることも。
それからリウルと他者を遠ざけているような動きがあることも。
元々彼自身、他人との関わりを避けているところがあるので分かりにくいが、許嫁でもあるフィアナですら会おうとしても会えないことが多いのは不自然すぎる。
今回はガロの力を借りて強引に会うことが出来たが……。
リウルの様子を見てなんともなければ杞憂だったとやり過ごそうと思ったが、どうにも嫌な感じがする。
――調べてみた方が良いかもしれない。
教会のこと。
勇者のこと。
それが少しでも、あの幼い勇者のためになれば良いと願いながら。
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