来る日に備えて
海鳥の鳴き声と波止場に打ち寄せた波が弾ける中、蒸気船がけたたましい音と共に黒煙を吹き上げている。
コウキはサヤを連れだって港に行き、トラジが所有する倉庫の応接間のソファに腰かけている。
少し待つとトラジが紙の束で顔を扇ぎながら、部屋に入って来た。
「まったく、探すのに苦労したぜ。ほらよ、使用書だ」
軽く笑みを浮かべながら、トラジはコウキに向けて紙の束を差し出す。
コウキは紙の束を受け取ると、1枚ずつ目を通し始めた。
「トラさん、助かる。これだけの物を短期間で集めてくれて」
「何だ? やけに素直じゃねぇか。気持ち悪いぞ」
紙の束からコウキは目を外して、笑い声を上げているトラジに冷たい視線を送った。
笑いが治まったトラジは、コウキが読んだ1枚の紙を手に取り、神妙な面持ちで目を落とす。
「まあ、細かくは聞かないが、とんでもねぇことするようだな」
「あまり話せる内容じゃない。トラさんの事だから大丈夫だと思うが、いざという時は逃げられるようにしてくれ」
「また変に気持ち悪いな。ま、そこら辺は安心しろ。最悪、海外に逃亡だ。綺麗な海と白い砂浜を見ながら、余生を過ごすのも悪かないかもな」
コウキの心配に対して、トラジはひょうひょうと返事をし、また笑い声を上げる。
どこまでもたくましく、外国人と表だけでなく裏の貿易もやり遂げる頼もしさを言葉と態度から見せた。
・ ・ ・
広いとは到底言えない陽明社の中に、熱い思いと熱気がこもって蒸し暑さを感じさせている。
「お前も人に言えないことがある……。つうかあり過ぎだが、今回はやけに深刻そうだな」
モリタカは神妙な面持ちをしながら、声の大きさをいつもより低めにして言った。
それだけコウキの顔と言葉から重みが伝わったのだろう。
「モっさん、すまない。できるだけ迷惑を掛けたくない。だから、変に話す訳にはいかないんだ」
「つってもよぉ、警察だって力を貸せないことはないんじゃないか?」
「いや、今話した分だけで十分だ。それ以上は危険すぎる」
コウキの言葉を聞き、モリタカは目を逸らして腕組みをし、唸り声を上げた。
今まで散々危ない橋を共に乗り越えてきた者として、できることが少ないことが歯がゆいのかもしれない。
モリタカが葛藤している中、キョウコがコウキに目を向ける。
コウキはその目を見返すと、キョウコは少しだけ笑みを浮かべた。
「モリタカさん、コウキくんの秘密主義は今に始まったことじゃないし、言えないことも多いんですよ。ねぇ、コウキくん?」
キョウコはコウキのために助け舟を出すような事を言ったが、暗にコウキの事を試しているような感じがする言葉を口にした。
「……ああ。言えないこともあるが、言わない方が良い事もある」
キョウコの視線を逃れるようにコウキは目を逸らして、苦し紛れにも取れる言葉を返した。
その言葉が面白かったのか、キョウコの顔がほころび、カズマは顔をニヤけさせている。
モリタカは何かを納得したように、仕方ないと言わんばかりの顔をして頷いた。
・ ・ ・
コウキは心を落ち着かせてくれる、古風な庭園が見える応接間で人を待っていた。
縁側からでなく、逆のふすまから人の気配を感じコウキは顔を向けると、ライゾウとゼンスケが現れた。
「わりぃな、コウちゃん。待たせちまったか?」
岩のようなライゾウが笑みを浮かべながら、座布団に座り言った。
ライゾウの言葉にコウキは首を横に振ると、顔つきを険しいものに変える。
「ライゾウさん、今日はお願いがあって来た。俺に力を貸してもらえないだろうか?」
コウキの改まった口調での言葉に、ライゾウはハトが豆鉄砲でもくらった顔をしている。
すぐに顔を頑強な岩に戻すと、コウキを見つめる目が鋭くなった。
「コウちゃんよぉ…、今まで世話になってきたが、今の口ぶりからすると、とんでもない話が飛び出てきそうだが?」
「ああ、ライゾウさんの見立て通りだ。正気の沙汰ではないと取られても仕方がないことだ」
神妙な顔つきで、いつもの暗い声ではなく、強い熱がこもった声にライゾウは顔をしかめた。
「俺達はヤクザもんだ。あぶねぇ橋は何度も渡って来たが……。それは俺達にとって、得になるからだ。だが、コウちゃんの口ぶりからは、とてもそうは思えねぇが?」
「ライゾウさんの言う通りだ。得にはならない。俺が…、俺のためにやらなければならないことだ」
ライゾウは至極真っ当なことを言い、コウキもその事を理解しながらも自分の思いを伝えた。
コウキの思いをライゾウは受け止めたのか、顔を更に固くして目を閉じる。
次の言葉を待つしかなく、ライゾウが体を揺らしているのを見ることしかできない。
「コウちゃん…、わりぃんだが、願いを聞くことは、」
「良いんじゃないか、親父。色々と世話になったんだ。恩には応えるのが、ヤクザ者の筋じゃないのか?」
動きを止めて目を開いたライゾウは、コウキの願いを断るものであった。
だが、縁側から応接間に向かってきたハヅキがすかした笑顔を見せて、ライゾウの言葉を遮った上に、コウキの肩を持つ言葉を口にする。
「ハヅキ、下手なことを言うな。うちの組に関わることだぞ?」
肝を押しつぶしそうな迫力のある物言いをライゾウはハヅキに向けた。
その圧力を軽やかにかわすように、軽く笑みを見せながら座卓の一画にハヅキは軽快に座る。
「組がヤバい時も助けてくれたじゃないか。その前にも何度も世話になってるんだ。そんな男が俺等に頼みに来たんだぜ? それに応えんのが道理と思うがね」
いつも通りのひょうひょうとした口調でハヅキは言いながら、顔つきを真面目なものに変えた。
ライゾウの顔色が少しだけ変わる。ハヅキが反逆でも仕掛けて来たかのように、徹底抗戦をしようとしているように固い。
「お前は言っている事を理解しているのか? 場合によっちゃあ、」
「親父殿、俺からも良いですか?」
「…何だ、ゼンスケ?」
ライゾウの話しを鋭い目を向けたゼンスケが遮る。
思わぬ人物からの言葉にライゾウは少しだけ言葉に詰まったが、すぐに固い物言いをした。
「ハヅキ兄さんの言う通り、恩を返してねぇです」
「お前もそんなことを言うのか? お前も破門にしたっていいんだぞ?」
「…構わねぇです。それで俺達が恩に応えて、親父殿の面目が立つなら喜んで受けやす」
脅迫をものともしないゼンスケの言葉にライゾウは顔を少しだけ背けた。
その先にはハヅキがおり、すかした笑顔で余裕を見せている。
最後にコウキに目をやると、コウキは深々と頭を下げた。
「揃いも揃って馬鹿共が……。危なくなったら、速攻で切るからな? あとは勝手にやれ」
諦め顔でライゾウは言うと、ため息を吐いた後に少しだけ柔和な顔を見せて部屋を去った。
・ ・ ・
コウキはサヤと源平食堂で遅めの昼食を終え、ハルを連れだって家路についていた。
いつもと変わらぬ光景でサヤは大量の食事を平らげた。
いつも通り、その光景を見るだけでコウキの食欲が満たされそうになりながら、食事を済ませた。
昼食を終えると、店を出ようとした時にハルに呼び止められた。
コウキの家に何度も来た時に置いていた物を取りに行きたいと言われて、3人で家に向かっている。
ハルはサヤと他愛もない話をし、時々コウキを見ては微笑む。
その笑みを見ては、コウキは少しだけ目を逸らす。
今、サヤがここにいるのはハルが渡してくれた勇気があってのことだ。
それが嬉しくも気恥ずかしい思いが湧き、正面から受け止めることができなかった。
家に着くとサヤは部屋に戻って行き、ハルは台所や居間に置いていた物をまとめているようだ。
コウキは黙って部屋に戻り、目を閉じて、今後の事を考える。
踏み込む世界は今までの比にならない程、危険なものだ。
不死人が味方にいたとしても、勝って帰ることができるのか分からない。
帰る。誰のために帰るというのだろう。
今まで感じたことがない思いが湧いて来ていた。
コウキは自分の思いに驚いていると、ふすまが静かに開けられる。
開けたのはハルだった。
「あの…、ちょっとだけ良いですか?」
真面目な顔をしているハルに向けて、コウキは頷く。
コウキの前にハルは正座をすると、微かに笑みを浮かべた。
「コウキさん…、ありがとうございます。サヤちゃんを助けてくれて」
「……お前のお陰だ。礼を言うのはこっちだ。……ありがとう」
真っ直ぐ見つめるハルとは対照的に、コウキは目を逸らした。
小さな笑いが聞こえ、コウキはハルを見ると楽しそうに笑みを浮かべている。
「ごめんなさい。でも、素直に話してくれるコウキさんが面白くて。とても嬉しいんです。私のことを受け入れてくれたようで」
慈愛に満ちたハルの笑顔と声に、コウキはまた気恥ずかしくなり顔を背ける。
それも楽しかったのか、ハルは笑いを堪えようと肩を震えさせていた。




