逆襲
人々が寝静まり、家からの灯りが途絶えて久しい時間に、男が道の隅を1人で歩いていた。
黒い中折れ帽子を目深に被り、華美な装飾がなされたロングコートと、凝った黒いブーツ。
全身が黒く、猫背な姿勢から暗さが漂い、地面をするような歩き方も陰気さをかもしだしていた。
発せられる全てが黒い中、帽子から垂れて肩までつく綺麗な金髪だけが、男の暗さに一筋の光明がさしているように見える。
街灯が照らす下、影から影が伸びるような黒い男が足を止めた。
洋風作りの館に、大きな庭が広がっている。
陽の光の下では異国を模した滑稽な建物に見えるかもしれないが、闇が覆う中では他の建物とさほど変わらない。
多くの家は光が消えている中、この屋敷だけはいくつか光がのぞいている。
黒い男は体の向きを変え一歩前に出ると、屋敷を守るための鉄柵が行く手を阻むように屹立していた。
そう見える程に高く建てられている鉄柵に飛び着き、足を掛け、体を捻りながら蹴り上げて、鉄柵の上部を掴むと逆立ちするように体を持ち上げ、静かに敷地の中に下り立った。
街灯の光が届かなくなると黒い男は更に闇に溶けて、暗がりを音も無く走って行く。
黒い男は屋敷の縁に体を押し当てて、息をひそめた。
壁の一部になり、壁がうねっているように壁に溶け込んだ男は進む。
壁に同化した男は一枚の窓の横で動きを止めた。ただの壁の一部と化して、呼吸だけをしている。
数秒間、闇夜に動きがなくなった時、近くから爆発音と爆炎が上がり、住宅街の目を荒々しく覚まさせた。
次いで、前以上の爆発音と爆炎が上がった瞬間、壁の一部だった男は爆発と同時に窓ガラスを割り、屋敷の中に流れるように入って行く。
忍び込んだ屋敷のドアに張り付くと、屋敷の奥から怒号が飛び交っている。
言葉づかいは下品で、吠える声は畜生以下だと、心の中で悪態をつきながら、人の気配が減るのを待った。
最低限の人間が残ったことを物音と気配から確認し、ドアを少しだけ開ける。
階段を上って行く男が1人いた。それ以外にも感じるが、ここからは見えない。
ドアに背中をあずけて、ギリギリ自分が抜けることができる隙間を作り、音も無く隙間から体を滑るように出した。
階段を上る男は気付くことなく目もくれていない。予想通りいた別の1人は少し離れた場所で外を気にしている様子だったが、黒い男に目が向いた。
腰に手を回し、口を開こうとしている男に対して、黒い男は右手で男のあごに掌打を当て、揺さぶられた頭とあごをそれぞれ手で掴み、頭とあごの位置を変えるように力任せにひっくり返す。
首を引っこ抜かんばかりの力では曲げたが、途中までしかあごは上らなかった。
だが、絶命していることを確認し床に静かに下ろすと、気配を殺して再度確認をする。
このフロアには階段を上る男の気配しかない。黒い男は屋敷の中を這う生き物のように、体勢を屈め、音を立てず階段に近づく。
黒い男が階段に足を掛けたとき、今迄からは想像できない足音を立てて、階段を一気に駆け上った。
男は想像だにしなかった音に驚き、振り向いた瞬間、黒い男は横を駆け抜けた。
疾風が吹き抜けると、男の首に真一文字の赤い線が浮かび上がり、血が上に噴き出す。
喉を押さえながら、大量の血液を心臓が作り出した鼓動に合わせて、喉から勢いよく何度も噴出した。
黒い男は絶命の瞬間を見届けることなく、目的の部屋のドアに体を密着させる。
ドアノブに手を掛け静かに開けると、窓ガラスに張り付くように見ている男がいた。
ドアの隙間をすり抜けるように入り、音を立てずドアを閉める。
音を立てなかったのは歩くのも同じで、外から見える炎と、それに照らされた煙に集中している男には全く気付かれない。
周りに注意を払い誰もいないことを確認すると、男の背後に亡霊の如く立った。
亡霊は優しく首回りから体を抱きしめるように手を伸ばすと、首と頭に手を絡みつかせる。
右手を首に回し、左手を頭が動かないように押さえて、右手で左手の二の腕を掴み固定した。
呼吸のみでなく、脳に血を送るための血管すらも締め上げる。
男は不意な事態に驚くと共に、息ができないことに体をよじり、何とかこの状態から逃れようともがき続ける。
見る見るうちに顔が赤く、ダルマのようになっていくと、黒い男が耳打ちするように顔を近づけた。
「ウカジ…、お前の責任だ。詫びなどいらん、死ね」
黒い男であるコウキの声にウカジは反応し、最後の抵抗とも言えるような暴れっぷりを見せたが、血が脳に行かなくなり失神した。
ウカジに絡めていた手を離すと、崩れ落ちる前にウカジの首から大量の血液が部屋に飛び散り、白いベッドを赤く染め、カーペットに血の色が足される。
首をクナイで裂かれて、カーペットに血だまりを作り顔をうずめているウカジを、コウキは冷たく見下ろした。
すぐに思考を変え、窓ガラスに1人用のテーブルを投げつける。
盛大に割れたガラスの音が響く中、コウキは別の窓ガラスへ体ごと突っ込みながら割って、宙を舞った。
庭では、ウカジが雇ったものと思わしき者達がたむろしている。
そんなところに2階のガラスが割れ、何かが落ちたことで目を奪われた。更に時を置かずに、もう一度ガラスが割れる音を聞かされた。
落ちて来たものが何か判断できないため、誰もが交互に目をやる。
1つは物言わぬテーブルと気付き、銃を構えてコウキ目掛けて撃ち始めた時には、殺傷射程距離から離れていた。
コウキは後ろから襲い掛かる銃弾に怯むことなく、侵入した時と同じように、軽やかな動きで鉄柵を乗り越える。
まるで家に遊びに来て軽やかに帰る子供のように、一瞬の躊躇もなく全てを成し遂げ、黒い影と化したまま夜の街に消えた。
・ ・ ・
「いやはや……。流石はお兄さんだ。迎えに来たのに損したぜ」
車の助手席からハヅキが後部座席に身を乗り出して、コウキを見て言った。
コウキは帽子と金髪のかつらを脱ぎ、ロングコートとブーツを脱いで横に放りやる。
「いや、助かった。あと、これは処分してもらえるか?」
用意していた靴を履きながら、ハヅキを見ずに言う。
「あいよ。燃やして灰にしておく。…傷は大丈夫か?」
暗がりの中でもハヅキは見えたのか、コウキを心配して言った。
聞かれたコウキは適当な布で縛っている。
「問題ない。少しだけ肉を持って行かれただけだ。薬なら戻ればある」
「そうかい。何かあったとき用に闇医者の手配がすぐできるようにしてあるが、無駄だったようだな」
コウキの言葉を聞き、ハヅキは笑いながら返した。
特段、コウキは顔色を変えず、そのまま傷ついた箇所を確認し縛っている。
「そろそろ着くぜ。しばらくは養生しないとな」
ハヅキが前に向きなおして言った。
歓楽街が広がっている中、車はその手前で止まる。
ハヅキに続くように車を降りると、慣れた動きで歓楽街の裏道に足を進める後をコウキは追った。
表から見た歓楽街の灯りが、裏道に入ると一切なくなる。
進んだ先の脇にある1件の戸を叩くと、少ししてお年を召した女性が現れた。
「おやまぁ、ハヅキさん、お早いお帰りでしたねぇ」
「なぁに、仕事は迅速かつ丁寧に、ってね。ま、冗談はこのくらいにしておいてだ、中に入れてもらえるかい?」
「はい、はい、どうぞぉ」
女性に連れられてハヅキが付いて行き、その後を追うようにコウキは歩いた。
和風の大きな家だと思っていたが、中には廊下があり、障子ではなくドアが部屋の入口になっている。
ハヅキは足を止めると、右手のドアを親指でさした。
「ここで休んでもらってる。お兄さんが一緒にいてやんな。1人でいるよりは、ずっとマシだろうよ」
背中を向けたままハヅキは言うと、女性に連れられて奥に進んで行った。
ハヅキが指さしたドアを見る。ドアノブに手を掛けて、ドアを開ける。
4畳半ほどの大きさの畳ばりの部屋の中、浴衣を着たキョウコが壁の隅で小さくなっていた。
部屋の真ん中に布団が敷かれているが、中に入った形跡はない。
コウキは黙って部屋の中に入り、キョウコの横に座る。
「全部終わった……」
それだけを言い、少しの間だけキョウコの隣にいた。
反応がないことからコウキは自分の鞄を漁り、魔精骨入りの軟膏を取り出す。
縛っていた布を取り、服を脱ぎ、下着だけになって、体の傷を今一度確認した。
体にめり込むようなものは受けてはいないが、2か所程、肉を少しだけえぐられた場所がある。
そこへ重点的に軟膏を塗りつけて、細かな傷にも軽く塗った。
沈痛効果により、熱を持った傷口からひりついたものが無くなっていく。
背中に少しだけ傷があるようだが、塗る程のものでないとして手を出さなかった。
「…それ、貸して」
いつの間にかコウキの後ろにいたキョウコから声を掛けられ、思わず振り返った。
まだ顔が暗いキョウコがコウキの後ろに座っている。コウキは何も言わず、瓶を渡した。
キョウコの冷たい手がコウキの背中に触れたとき、傷の痛みではない痛みが走った。
振り返ってキョウコを見つめる。キョウコの手を握り、唇を無理やり重ねた。
キョウコは抵抗せず、コウキは押し付けるような口づけから、優しく触れる口づけに変える。
口づけが終わると、キョウコは目を伏せた。
「無理にそんなことはしないで……」
コウキを見ず、暗い声でキョウコは寂しい言葉を発した。
「何故、そう思う?」
「同情なんてしないで……。こんなことぐらいで私は……」
声に涙が交じり、口から出る言葉は涙にぬれて震えるような響きをさせている。
コウキはキョウコの肩に手を置いて、ゆっくりと力を掛けて布団の上に倒した。
「同情じゃない。お前が苦しんでいる顔が頭から離れないんだ……。俺はこのまま、お前を抱く。無理やりにでもだ。嫌なら俺を汚らわしく思え、一番嫌な男だと記憶しろ。そうでないのなら、お前の汚れを俺が拭う」
キョウコを見つめ、コウキは言えるだけのことを言った。
心に残った傷を埋めるのは更に嫌な傷か、柔らかく優しい温もりか。
コウキにはそれしか分からなかった。
「好きにして…、何でも良いから……」
「分かった」
コウキは静かに言うとキョウコの浴衣を剥ぎ、全身に口づけをし、舌を這わせる。
汚れた物を拭い取るように、キョウコに優しく触れ、温もりを全身に送っていた。
体にコウキの存在をなすりつけて、他のものが感じられないようにするために、体を更に寄せて強く抱きしめた。




