ホットスタート
「……どうなってんのこれ……」
意識を取り戻したとき、私は牢獄にいた。
壁の一面が赤錆の浮いた鉄格子。残り三面は石の壁。天井は高く、3mほど上に明かり取りの穴がある。
寝台かわりのボロキレと、汚物用らしい床の穴。これが私を囲む世界のすべてだった。
おまけに、両手首には木製の枷がはめられている。
鉄格子の向こうには、こちらと似たような空の牢獄が見えた。
「なんというホットスタート……」
確かに『見守る者』は、どんな状態で転移されるかという説明はしなかった。聞かない私が悪かったのかも知れないが……。
なんとなく、草原のど真ん中とか森の奥とか遺跡の中とか、そんなイメージでいたらこれだ。
「もしゲームマスターがいるとしたら、かなり性格が悪いな」
立ち上がって自分の状態を確認しながら愚痴る。
この場合の『ゲームマスター』はやはり『見守る者』ということになるだろう。『見守る者』は何をするのも自由とはいっていたが、鵜呑みにしてハメを外す気には到底なれない。こんな手の込んだことを意味も無くやるはずがないからだ。
頭上の穴からは光が入り込んでいるから、昼間だということは分かった。
今の自分はといえば、ぴっちりしたズボンに長袖のシャツ、足元はなんと裸足だ。
ローブや杖、大事な呪文書の入った背負い袋もどこにもなく、マジックアイテムである指輪なども全てはぎ取られていた。
「急転直下もいいところだぞ……死ぬわ、へんな異次元にいくわ、TRPGのキャラになるわ……」
とても疲れた気がして、壁にもたれて頭を抱える。
「はぁーーーっ……。本当に異世界転移なんだなぁ……」
自分の死体は誰が見つけてくれるのだろうかとか、来週の会議の準備がまだ途中だったなとか、もとの世界のことが今更気になってくる。
本当ならすぐさま行動しなければいけない場面なのかも知れないが、心を落ち着かせるため何度も大きく深呼吸する。
数分ほど茫然としていたが。ようやく少し頭が働き始めた。
「まぁ、アイテムがなくても呪文が使えれば……そういえば呪文書もないのか!?」
その瞬間に改めて気付いた事実に血の気が引いていく。
「呪文書がないのは……やばいな」
呪文書。
それは『D&B』の魔法使いにとって最重要のアイテムだ。
『D&B』の魔法使いは、毎朝呪文書を読んでその日に使用する呪文を意識の中に『準備』しなければならないのだ。
しかも一度使用した呪文は意識から消えてしまい、翌朝に再度『準備』するまで使えないことだ。
いや、それ以前に現在呪文を準備していなかったら……。マジックアイテムもない今、はっきりいって私はただの一般人だ。
42年間ずっとただの一般人だったくせに、私は強い焦りを感じた。
「呪文、呪文が準備されてるのかどうか……」
『D&B』のプレイではともかく、実際に呪文を使ったことなどないが。とりあえず、数学の方程式を思い出すような要領で頭の中を探ってみると……。
「あ、あった」
確かに、頭の片隅に独立したエネルギーのような存在を感じた。これが準備された呪文なのだろう。呪文、つまり魔法を使う手順も自然と頭に浮かんだ。
その他にも『ジオ・マルギルス』が身に付けていた知識はしっかりと頭に刷り込まれている。呪文書を一から作成する方法も入っていたが、それには莫大な手間と時間と費用がかかる。
「ここから抜け出して、呪文書だけでも絶対に探さないとな。……そもそも誰が私をこんなところに閉じ込めたんだ?」
重大な危機感を覚えたことで、ようやく頭がまともにまわりはじめたようだ。
脱出も大事だが、その前に現状を把握する必要がある。
牢獄の中を探ってみたが、案の定目ぼしいものはなかった。
「さっさと何か呪文を使って逃げ出しておこうか?」
『D&B』の魔法使いが一番頭を悩ませるのが、その日に準備する呪文の選択であり、準備した呪文をいつどうやって使うか、ということだ。
私は最高レベル魔法使いなので、1~9レベルの呪文をそれぞれ1日9回分準備できる。81回分も呪文を準備していると逆に迷ってしまう。
手枷や鉄格子の鍵を開けるには【魔力の鍵】だし、単純にここから離れるだけなら【瞬間移動】で良いだろう。もっとも周囲の状況が分からないから、事故の可能性がある【瞬間移動】は使えない。
「とりあえず、安全を確保しよう」
迷った末に私は【無 敵】の呪文を使うことにした。
これは9レベルという最高難度の呪文の1つで、通常の武器による攻撃と、3レベル以下の魔法による攻撃全てに対する完全耐性を得るというものだ。持続時間が6時間もあるし、最悪の場合に備えるという意味では必須だろう。
「さあて……本当に使えるんだろうな、呪文は……」
私はまた何度も深呼吸したあと、かつてゲームの中で何百回も繰り返した『呪文の詠唱』をはじめた。