シルバスの三日間 二日目(三人称)
『シルバス男爵捕獲』。その報告が騎士団長ロバルドの元に届く少し前。
シルバスに数軒存在する高級娼館の一室である。
豪華な天蓋付きのベッドの上で、丸まる太った青年が娼婦に膝枕されていた。腰に布を巻いただけの青年は、言うまでもなくシルバス男爵その人である。
現在、男爵はシルバス騎士団に『捜索』されている身だ。一般の市民に事情は知らされていないが、『男爵様が何かやらかして騎士団長から逃げ回っている』くらいの噂は既に広がっている。男爵を探し回る騎士たちは、情報提供者には謝礼を払うことも言っていた。
「ふひぃー。お隣さんもそろそろお帰りかなぁー?」
これ以上ないほどニヤケ面の男爵は、娼婦の太腿を堪能しながらも隣室の様子を気にしていた。
「隣のお客さんって、確か騎士団長さんの甥っ子さんでしょ? あーあ、あっちが良かったなぁ」
娼婦はため息をついた。とはいえ、サービス業のプロだけあって男爵の言動にも笑顔を絶やしてはいない。
もちろん、男爵は身分を偽ってここにいる。
「そういえばお客さんって、どっかで見たことあるんだけど。……なんか、あの男爵様に似てない?」
『たまたまシルバスにやってきた交易商人の放蕩息子』という設定ではあったが、何しろ男爵の姿は特徴的だ。
娼婦はまじまじと男爵の顔を覗き込む。
「えー、僕があの品行方正で頭脳明晰なシルバス男爵様に似てるってぇー? ……だとしたらどうするのかなぁ? ぶひっ」
「ひっ」
男爵はじろりとスケベったらしい視線を娼婦へ向けた。さすがのプロも背筋に寒気が走る。
「なんてねぇー? 冗談冗談! あ、僕そろそろ帰るから! その前に飲み物でも持ってきてもらえるぅー?」
「は、はいっ。ちょ、ちょっと待ってくださいねっ?」
胡散臭過ぎる青年の態度に、娼婦は着替えもそこそこに部屋を出ていった。娼館の主を通じて騎士団に通報するのは目に見えている。
「ふひっ。『俺に惚れて通報どころか匿ってくれる』可能性も半分はあると思ったがなー」
娼婦の態度を見た男爵は、微妙な表情で肩を竦めた。着替えもせず、壁に立てかけておいた『杖』を手にとる。そのまま扉に張り付いた。
『やだぁロンダル様ったらぁー』
『ははは、今日も楽しかったよ』
「……うっし」
扉越しの声は、隣室の客――ロバルドの甥っ子――が丁度、廊下に出たところだと男爵に教える。
男爵は丸い顔を不敵に歪めた。
「おらぁー!」
「なっ!?」
男爵はドアを蹴破る勢いで廊下に出る。廊下には上等な服を着た優男と娼婦がいたが、その勢いに硬直する。
「これでも喰らえ!」
「ぎゃんっ!?」
男爵は、手にした豪華絢爛な『杖』を優男の顔面に叩きつける。鉱物をそのまま植え込んだような杖の先端が優男の前歯を叩き折り、血しぶきが上がった。
「きゃぁぁ!?」
「おらおらぁ! まだまだ!」
「いいいぃぃ!? やめへぇぇ!?」
顔面を血だらけにした騎士団長の甥っ子、ロンダルは恐慌状態で逃げ出した。男爵は杖を振り回しながらそれを追いかける。
娼館は当然、大騒ぎになった。しかしあまりにも急な事態に、従業員も用心棒も対応が間に合わない。
「ひぃぃっ!? らぁすけれぇっ!?」
「逃げんじゃねーぞおらあっ!」
「なんだなんだ!?」
「何やってるんだ!?」
歯が折れてまともに発音できないロンダルは、恥も外聞もなく娼館の外へ逃げ出した。それを追いかける男爵は……いつの間にか腰の布が外れ全裸となっている。
身なりの良い市民たちが行き交う通りは、騒然となった。
騎士団から正式な発表はなかったが、市民はみな男爵が騎士団に捕獲されたと理解していた。そして、シルバス男爵は裸で杖を振り回し人を追いかけ回す異常者である、という噂もあっというまに広がった。
もはや、シルバスの民の心は完全に男爵から離れていた。
シルバス男爵はその後、急行した騎士団によって捕縛され騎士団本部へ連行される。
騎士団長が男爵と面会(という名の尋問)を始めたのは、翌日の早朝だった。
「ぶふぅ……」
騎士団本部の取調室。殺風景な石壁に囲まれた小部屋である。床に裸のまま縛り上げられた男爵が転がり、それを騎士団長と副長が見下ろしていた。
「……一体、何なのだ? 何を考えている?」
騎士団長ロバルドにはもはや、男爵に対して敬意を払うつもりはないようだった。しかし、その目には困惑の色が強い。軟禁されていた屋敷からまんまと逃げ出した男爵が、何故わざわざ甥っ子を襲撃したのか分からないからだが……無理もない。
「ふひっふひひっ! ざ、残念だなぁー。マルギルスから盗んだ杖があれば、お前もマルギルスもぶっ倒してシルバスを自分のものにできると思ったんだけどねぇー」
「な、何!?」
男爵の口から出たのは、衝撃的な言葉だった。
「どういうことだ? 何故、お前がマルギルスを……そうか、家令の娘のことをマルギルスに教えたのはお前か!」
「ふひひっ。そうだよぉー」
男爵はロバルドの尋問に何の抵抗もなくすらすらと答えていく。
屋敷から逃げ出し、マルギルスを頼って騎士団に対抗しようとしたものの、マルギルスは男爵も騎士団も排除して自分がシルバスを支配しようとする悪党だったというのだ。
「男爵位を奪うために、姉上と結婚するつもりなんだよねぇー」
「なっ、何だと!? やはり奴はフィリィネ様を狙っておったのか!?」
助けを求めた男爵はそのまま捕獲して『シルバスの盾』も奪い、騎士団長は家令の娘を奪還して脅迫する。その上で『残る唯一の』男爵家の血筋である男爵の姉、フィリィネと結婚し男爵位を奪う。
それが、男爵の語ったマルギルスの計画だった。
「お、おのれおのれぇ! 何と卑劣な男だ……! 許さん!」
「し、しかし団長。マルギルスの魔法の力は本物です。逆らうと隕石を落とされるのでは……」
「ぐ、ぐうっ」
マルギルスへの敵愾心と恐怖に顔色を変える団長と副長を見上げ、男爵はへらりと笑った。
「ふひひっ。それならもう大丈夫なんだなぁー。実はマルギルスの魔法の源は、あの『杖』なんだよねぇー」
「!?」
男爵は自慢気に言った。
マルギルスを頼って彼の船に言った時、こっそり盗み聞きしたと。マルギルス自身には何の魔力もなく、『大魔法使いの杖』と呼んでいる強大な魔具によって隕石など様々な魔法を使って見せているのだと。
「あの、やたら豪華な杖か」
「そ、そういえばそうです! あの杖は確かにマルギルスの物でした!」
先日、マルギルスがバリケードを撤去する時に魔法を使ったのを見ていた副長は、激しく頷いた。
「シルバスを守るため、命がけであの杖を奪ってきたのさぁ! ふひひ! どうだ、俺は偉大だろう!? それにシルバスの盾もちゃんと秘密の場所に隠してるからな!」
「……黙れ! それが本当だという証拠が何処にある!」
「ぐほっ!?」
男爵のドヤ顔が癇に障ったのだろう。
ロバルドは男爵の腹を思い切り蹴り上げた。そのまま、顔にも脚にも容赦なく蹴りを叩き込んでいく。男爵の脂肪で丸まるした身体は見る間に痣と裂傷だらけになっていった。
「だいたい! 貴様が! 大人しく男爵位を私に譲っておけば! このようなことにはなぁ!」
「げふっ! がふぅっ!」
「だ、団長! さすがに殺すのはまずいですぞ! この後のこともあります!」
男爵が血まみれになるころ、副長が思い出したようにロバルドを止めた。そう、いくら『野豚』男爵であろうと、死んでいるよりは生きているほうが利用価値は高い。
「ぶひっ……ふひっ……す、すんっませんでしたぁぁ! 団長さまぁぁぁ! もう逆らいませんからぁ! 命だけは! 命ばかりはぁお助けくださいませぇぇ!」
シルバス男爵は芋虫のように這いつくばり、石の床に額を擦りつけた。
「ふん! 今までのらりくらりと逆らい続けて……」
「ほんとにごめんなさいってぇ! これからは団長様に従いますからぁ! 男爵位も姉上も差し上げますのでぇ! ぺろぺろぺろっ!」
這いつくばったまま前進した男爵はロバルドのブーツのつま先を舐めはじめた。物凄い勢いだった。
「……うっ……やめんか気色悪い!」
「だ、団長。これは……」
再度、男爵を蹴飛ばしたロバルドに副長は耳打ちする。これまで何十人もの人間の心を拷問でへし折ってきた彼らだったが、これほどまでに卑屈になった男を見たことはなかった。
「うむ……。ふくくっ。まあ所詮、こいつは野豚だったということだな。言うことを聞くというなら……」
「あ、ありがとうございますぅ!」
「だがもう一つ! シルバスの盾はどこにある!?」
「そ、それはそのぉ……。命を助けてくれると約束してくれたら話しますぅ」
「何だと!?」
「団長、今はシルバスの盾よりあの杖のことでは……」
シルバスの盾はあった方が都合が良いのは確かだが、現在最重要なのはマルギルスへの対応だ。副長がそういって団長を抑える。ロバルドは渋々頷いた。
「だが、今話したことが偽りだった時は……」
「う、嘘じゃないですぅ! え、ええと……確か今日は姉上と宰相の晩餐にマルギルスを招待してますよねえ!? その場で、魔法を使ってみろって挑発してみてくださいよぉ!」
男爵が言うのは、もともとの予定にあったマルギルスに対する歓迎の宴のことだった。騎士団長はふむと頷く。
「まあ試すだけなら危険もないしな。……試すというなら、闇討ちさせてもいいかも知れん」
その日の夕刻まで、騎士団は忙しく動き回った。
一つは、マルギルスに男爵を捕らえたことを察知されぬよう、捜索を続けるふりをしたこと。『娼館で暴れた男は男爵とは別人だった』ということだ。マルギルスが騙されるかどうかは不明だが、建前としては男爵はまだ逃亡中ということになる。
もちろん、シルバス市民は誰一人それを信じていない。
もう一つは、マルギルスが本当に魔法を使えなくなっているかどうか確認する手段として、襲撃者を用意することだ。騎士団員は論外として、普通なら盗賊ギルドから人材を雇うのだが、どうにもギルドの反応が鈍かった。そこで、仕方なく町のチンピラを雇うことにした。もちろん彼らは自分たちの雇い主の正体など知らない。
最後は、魔術師ギルドから繋がりのある魔術師を呼び寄せたことだ。男爵が持ち込んだ『大魔法使いの杖』を調べるためである。
「……信じられません。魔力は感じないのにこれは……」
杖を手にした魔術師は顔を青ざめさせて報告する。
「確かにこの杖には、巨大な火の玉や稲妻を撃ち出したり、精霊を使役する力があります……凄まじい……」
「おお、やはりか!」
その魔術師は(あの『魔の五人』ほどではないが)暴力や犯罪に抵抗のない男であったため、騎士団長も便利に付き合っていたのだ。これまで何度も、騎士団長に害を与えそうな人間を排除するのに使っている。
「では今度、その杖を使う時はお前を呼ぶとしよう。ただし」
「!?」
ロバルドは杖を手にした魔術師の首筋に剣を突きつけた。
「お前の家族のところには、騎士団から何人か『護衛』を出そう。杖の力を、私の命令以外に使おうものなら……分かるな?」
『強力な力を持てばそれを我欲に使うのが当然』。それは騎士団長ロバルドの心理であり、彼は魔術師を通して自分自身を見ているに過ぎなかった。だがそうやって彼が男爵位を脅かすまでの勢力を築いたのもまた、確かである。
魔術師は頷くしかなかった。
「……これはやはり、こいつは真実を言っていたということか」
魔法使いマルギルスを歓迎する宴は終わった。
招待した側である男爵の姉、フィリィネがやけにマルギルスと親しげだったことにロバルドは強い嫉妬と怒りを感じた。
しかしそれ以上に印象に残ったのは、フィリィネが甘えるように(それがますますロバルドの怒りを煽ったのだが)魔法を見せるようせがんでもマルギルスが応じなかったことだ。もちろん、ロバルドもフィリィネに乗っかる形でマルギルスに『余興』として魔法を見せるよう提案したが、断られている。
その時のマルギルスの、不安そうな表情。
さらに駄目押しだったのは、宴の会場から宿に戻る途中で『強盗団』に襲われても、マルギルスが魔法を使わなかったことだ。
もちろん、強盗団などは護衛の戦士に蹴散らされて被害は出ていない。だが、少数で行動していたマルギルスの眼前にまで強盗の数人が迫っても、マルギルスは怯えるだけで何もしなかったという。
「あの杖が魔法とやらの正体で、間違いなさそうですな」
「へ、へへへっ。そうでしょ? 本当だったでしょ?」
「どうもそうらしいな……」
自分にとって都合の良い結論が出たのに、ロバルドは少し不機嫌そうだった。何しろ、足元に這いつくばっている肥満体の青年と同じ意見というのは、生理的な嫌悪があった。
「ふひひっ。シルバスの盾の場所も後で教えますからぁ。マルギルスも何時までもシルバスに居るわけにはいかないみたいですし、このまま黙ってても団長様の勝利間違いなしですよっ! ぶひひぃっ!」
「……確かに、そうですな……」
マルギルスはリュウス大会議へ出席する途中で、シルバスに表敬訪問したに過ぎない。それが建前だったとしても、このまま何日もシルバスに滞在することはできないはずだ。
家令の娘というネタがあったとしても、ロバルドには『杖』という切り札がある。
マルギルスの方から頭を下げてくるか、諦めて立ち去るか。いずれにしても、ロバルドが急ぐ必要はない……と、男爵は強調した。副長ももっともだと頷く。
「ええい、黙れ豚ぁ!」
「ぐえっ!?」
しかし、ロバルドは男爵を蹴り上げていた。
「ど、どうされました?」
「馬鹿が! この豚の考えることなど、マルギルスにだって分かるだろうが!」
確かに男爵の提案である『待ち』は、マルギルスの立場で考えてみれば非常に不都合である。ならば、彼らがそれを嫌って反撃に出る可能性も高い。
……と、ロバルドは力説した。それは確かに一理ある考えであったが。
彼は気づいていなかった。その『この無様な男と同じ考えをするのは嫌だ』思考が、男爵に誘導されたものだということに。
こうして、騎士団長ロバルドはマルギルスを排除するための陰謀を計画することになった。
明日。男爵に継承式を行わせ、その場でマルギルスを屈服させるのだ。
予告より遅くなってすみませんでした……。