恐怖の島 または女賊ヒルメの災難 その3 (三人称)
お陰様で、書籍第二巻の発売が決定しました。詳細は作者活動報告をご覧ください。
今後とも拙作をよろしくお願いいたします。
《ゲコゲコッ》
「ああ、愛しい人よ」
仮面を着けた魔術師五人は、緑のカエルに似た化け物といちゃついていた。化け物に恐怖で従わせられる、あるいは力で蹂躙される……そんな『普通』の恐怖ならば、耐えられた。いや、耐えられないかもしれないが、納得し諦めることができただろう。
だが。
「だけどっ! だけどよっ! あ、あんな風になるくらいなら死んだ方がマシだっ!」
「も、もうダメだぁ……おしまいだぁ……」
生理的嫌悪を催す化け物を愛している自分を受け入れることなど、不可能だった。
シガンとヒルメが選抜した血も涙もないはずの湖賊たちが、一人二人とへたり込んでいく。
「てめーは誰だ? マルギルスを出せ」
湖賊たちが未知の恐怖に竦んでいても、『狂剣』だけは正気だった。船内から姿を現した常識外れの巨体の戦士(戦士に決まっている)に、平然と声をかける。いや、その静かな声の内側には暴発寸前の殺意が満ちていた。
「……誰がシガンなんだ?」
大柄なシガンからしても見上げる巨体。二メートルはありそうな大剣を片手にぶら下げた男は、シガンを無視して質問を繰り返した。
普通の人間ならば、湖賊たちの顔ぶれを見れば誰が『狂剣』なのかはすぐに見当がつきそうなものである。何しろ一人だけ裸の上半身に無気味な刺青を施し、背中に二刀を担ぎ、何よりもその凶相だ。しかし、大男の目は、彼ら全員に均等に注がれていた。
……つまり、大男にとって今自分に話しかけている男は、その他大勢の一人でしかない。
「シャアッッ!」
その事実に気付いた瞬間、シガンの身体は跳ねた。
両手を背中にまわして二刀を掴み、引き抜き、前傾姿勢で踏み込み、斬る。一連の動作が自分でも信じられないほど疾かった。そして、疾さは鋭さとなる。
狙いは大男の肘だ。どれほどの巨体だろうが、腱を切り裂かれれば無力となる。
そうして血まみれにしてやった大男を思う存分突き刺し切り刻めば……嗜虐の妄想にシガンの唇が歪む。そら、まだ奴はこちらに顔を向けてすらいない。大剣もだらしなくぶら下げたまま……で?
《ドスッ》
自分の身体の真ん中から妙な音が聞こえ、足が止まったことにシガンは気付いた。
視線を下げれば、みぞおちあたりに鋼鉄の塊が突き刺さっている。鋼鉄は大男の手元まで伸びていた。……奴の大剣だ。
「な、んで」
「なんで!?」
シガンの呟きとヒルメの叫びが被った。シガンは口から血を吐いて倒れる。
ヒルメや、まだ正気の湖賊から見れば、何ということもない。
突如斬りかかっていったシガンに対して、大男が右手でぶら下げていた大剣の剣先を持ち上げたのだ。シガンは自ら大剣に飛び込み串刺しになったことになる。
「片手で……びくとも動いてないのに……」
人並み以上には武器使いの知識があるヒルメたちからすれば、言葉で言うほど簡単なことではない。どう見たってあの大剣の重量は相当なものだ。担ぎ上げるだけでも苦労するだろう。
それを手首の力だけで、神速ともいえるシガンの斬撃よりも早く行ったのだ。
要するに目の前の大男は、手首を少し動かしただけで湖賊最強の剣士を葬ったのである。
「……」
大男――戦族戦士長レードの瞳には何の感慨も浮かんでいなかった。
見かけ上、彼がやったことは手首を曲げただけだ。しかしその巨体の内部では恐るべき作業が行われていた。
全身の筋肉の瞬間的な緊張が生み出す力を、足底から膝、腿、腰、脇、肩、腕、手首へと伝達する。この時、関節に螺旋の捩じりを加えることで力はさらに増幅していく。巨きな手の中で支点と力点を作り、てこの原理で大剣を一気に跳ね上げたのだ。
はた目にはただ手首を曲げたに過ぎない動作。それは戦族に伝わる身体操作術と剣技の極でもあった。
「それで? シガンはどいつなんだ?」
「……!?」
つまらなそうなレードの声に、ヒルメたちは背筋を凍らせた。
「レード。何をやってるんだ」
「……うるさいぞ」
「?」
羽虫を払うような気軽さで『狂剣」を倒した戦士の背後から、緊張感のない男の声がした。
船内への入り口を隠すような巨体の影から、黒い豪華なローブをまとった男が現れた。黒い髪に黒い目。手には青い鉱石が埋め込まれた杖。
「マ、マルギルス……?」
ヒルメは掠れた声で呟いた。
「いかにも。私が魔法使いジオ・マルギルスだ」
「マルギルス様!」
「大魔法使いマルギルス様万歳!」
レードの隣に立った男……ジオは淡々と答えた。
船べりにいた五人の魔術師とカエル化け物コプルッグたちは、彼を称えながら跪く。
「君が多分、ヒルメだな? で、そっちがシガンか?」
「う、そ、そうだよ……です……」
ヒルメは何度も唇を舐め、唾を飲み込みながら答えた。あまりにも常識離れした光景の連続に、女賊の精神は悲鳴を上げている。だが、それでも――殺意は絶えていなかった。
わざわざ姿を見せてくれたんだ……魔術を使う暇もなく殺れば……。
ヒルメはかつてないほど高速で思考していた。視線を左右に走らせ、手下どもの状況を確認する。
「ひ、ひぃぃ……」
「いやだぁ、カエルの恋人はいやだぁ……」
蹲りすすり泣いているのが半分。残り半分も死人のような顔で呆然としている。こいつらは何とか活を入れれば動けるかもしれない。
「……くそ……」
手下で唯一の魔術師の男は、蒼白ながらまだ正気を保っていた。いくら大剣の戦士が強くても魔術は防げないだろう。これなら……。
「あ、あんたは……貴方様は私たちを、どうするつもりなの……?」
時間を稼ぐため、ヒルメは先に語り掛けた。露出度の高い革鎧の身体を絶妙にくねらせ、興味を引こうとする。
「まあちょっと待ってくれ」
「……!?」
軽く杖を上げたジオを見て、ヒルメは赤い唇をわななかせた。
まるでモノを見るような冷たく静かな目!
今まで自分の身体や媚びを見て、あんな目をした男は一人もいなかった。強い意思を持つ男、あるいは潔癖な男から、蔑むような目や汚物を見るような目を向けられたことはある(後でその目を抉ってやったことも多い)。しかしほとんどの男は、口でどんなに崇高なことを言おうが、舐めるような目で自分を見てきたというのに。
魔法使いという男は、女としてのヒルメに一片の価値(蔑む価値すら)も認めていないようだった。
ヒルメの胸中に、これまでの職業的な殺意とは別種の憎悪が生まれる。
この私を無視しやがって……絶対に許さねぇ!
「……【完全治療】」
「ごほっ! はあっはあっ!」
「あ? シ、シガンさんっ!?」
ヒルメが憎悪を芽生えさせている間に、ジオは呪文を完成させていた。杖を向けられていた血まみれのシガンが、ぴくりと体を震わせ、血の塊を吐き出す。息を引き取る寸前で、体に空いた穴が塞がったのだ。
「シガン、あんた生きてんのかい!?」
「ど、どうなって……やがる……」
「私が治療した。君たちには用事があるんでね」
「何だって!?」
ヒルメは血まみれのシガンを抱きかかえるような可愛げのある女ではない。敵を治療するという、ジオの意味不明な行動に眉を持ち上げる。
「シガンにヒルメ。それに部下の君たちもだが……これから湖賊の拠点に帰って、私からの要請を伝えてほしいのだ」
ジオは、王が部下に命令するような鷹揚な口調で言った。一片の緊張も感じられない態度に、ヒルメは自分や、盗賊ギルドの幹部たちとの圧倒的な『格の差』を見せつけられた気がした。
「……」
「よ、要請っていうのは、どのようなものでしょうか?」
ぎりりと奥歯を噛みしめ、大男を睨むだけのシガンはもはやあてにならなかった。ヒルメは必死にしなを作ってジオに問う。
「簡単だ。ハリドの湖賊団は解散。今日以降、一般市民への犯罪行為、特に殺人、強姦、麻薬売買は全て禁じる。これだけだよ」
「……」
ジオはこともなげに言った。相変わらずヒルメの媚態には眉一筋動かさない。
が、さすがに盗賊ギルドに対して解散を告げるに等しい『要請』を聞いたヒルメは、それどころではなかった。
「……そ、そんな無茶苦茶な……。あ、あたしは良いんですけどね!? ハリド様やギルドの幹部どもが承知しないかも……」
もちろんヒルメだって良くはない。だが、ここは彼女自身が生き延びられるか、隙をついてジオを抹殺できるかの瀬戸際だ。
「少し難しいかもな。だから、こうして手間暇かけているんだ。もし、要請を聞いてくれないなら……『こうなるぞ』とね」
「こうなる……!?」
軽く肩をすくめたジオが、なにやらぶつぶつと呟きはじめた。普段なら頭の一つも張り飛ばすところだが、ヒルメは黙って待つしかない。
「この呪文により対象一体の心を砕き千切り、狂気の依り代とせしむ。【精神破壊】」
シガンたち湖賊船団が魔法使いの船を襲撃するため出発してから数時間後。
リュウス湖に無数に存在する小島の一角。少し前からハリドの船団の秘密拠点となっている。
狭い島であったが樹々や岩陰を利用して建てられた館は豪華なもので、大湖賊ハリドの勢力の大きさを物語っていた。
その屋敷の中。大広間には、リュウス同盟諸都市から盗賊ギルドの大幹部たちが集まっていた。
宮廷ででも使われていそうな大きなテーブルの上座には、目立たない容貌の男――ハリドその人が着いている。
「……」
「しかし、遅いな……」
「手こずるような船でもあるまいに」
「むしろ船団の数が多すぎて事故でもあったのかもな」
ソレール市盗賊ギルドのマスター、カイゼスはぼやいた。他の幹部たちも頷く。
普段なら彼らが一か所に集められることなどない。それが、今回の襲撃にあたっては各盗賊ギルドの戦力だけでなく、幹部自身も拠点に集合することが命じられていた。
それだけ、今回の魔法使い襲撃はハリドにとっても大きな賭けなのだろう。
そんなわけで、多少船団の帰港の遅れくらいで、ハリド傘下で甘い汁をすすってきたカイゼスたちが帰るわけにもいかない。むしろ立場上、足しげくハリドのもとに顔を出さざるを得ない。
他の幹部たちも似たり寄ったりの状況だ。
上座についたまま押し黙るハリドに遠慮しながらも、ひそひそと囁きあう。
そこへ、伝令の男が飛び込んでくる。
「戻ってきましたぁ! 『水の竜』です!」
「やっと戻ったか! 首尾はどうだった? 財宝は!?」
「……そ、それが……」
汗だくの伝令は言葉に詰まった。その顔色は異常に悪い。
「どきなよ……」
「ひっ!? は、はいぃっ」
伝令を押しのけて広間に姿を見せたのは、鉄線鞭の使い手にして妖艶な女賊として知られるヒルメだった。
彼女の顔に殺戮の興奮も略奪の恍惚も欠片もないことに気付いたカイゼスは、嫌な気分になった。
「おう、ヒルメ! シガンはどうした?」
ヒルメが所属するジラルス市盗賊ギルドの幹部が呑気な声をかけた。この無能が、とカイゼスは内心罵るが、しかしそれは聞かねばならないことでもある。
「シガンは……ここにいるよ」
「シ、シガンさんっ。しっかりしてくださいよっ」
ヒルメは横に移動して道をあけた。開けっ放しのドアから、若い湖賊に肩を支えられ、俯いた『狂剣』が入ってくる。
「シガン! お前らしくないな、怪我でもしたのか?」
ハリドにさえ不遜な態度をとるシガンの意外な姿に、幹部たちの顔に不安が浮かんだ。まあ、襲撃自体が失敗したとは思えないが……。
「ぺぴ?」
一声、甲高い声を吐いてから、シガンは顔をあげた。
「ひっ」
彼と視線を合わせてしまったカイゼスは、一生それを後悔することになる。
シガンの焼き付くような殺意と狂気に満ちていた瞳は……『空っぽ』だったのだ。その奥に何も……意思も、記憶も、誇りも、怒りも、欲望も、人格も……底のない井戸のように真っ暗な穴……それが、今の『狂剣』シガンの瞳だった。
《ゲコゲコッ》
《ゲゲゲッ ゲコッ》
屋敷の外からは、無気味な鳴き声が響いてきた。




