慈母の恩恵
まあそもそも、あの日牢獄に居ることに気付いた瞬間に『これは脳梗塞で倒れた自分が植物状態のまま見ている夢ではないか?』と疑うべきだったんだろう。
夢でも仮想でも関係ないという結論は同じだとしても、SF・ファンタジーファンの端くれとしては情けない限りだ。もっとも、あの時は動揺してそれどころでもなかったと言える。
翌朝。
そんな今更な思考を頭の中で転がしながら、私は昨夜と同じ神聖樹の祭壇に居た。
三人で相談したように、ツアレスの儀式で暗鬼の影響を受けているであろう神聖樹を浄化するためだ。もちろん『ラウリスの杖』も回収する。
同席しているのはレード、セダム。暗鬼教司祭ザルザムも控えていた。
本来ならこの場に呼ぶべきであろうラウリス貴族、ライル青年は冒険者たちと一緒に待機してもらっている。
何せ、ラウリス市民がそれこそ母のように慕う神聖樹が、暗鬼崇拝者の儀式に使われていたという醜聞だ。
後に説明はするつもりだが、魔法で神聖樹を浄化し、『なかったこと』にできればそれに越したことはない。
「というわけで、【祓い】の呪文は六回分ほど【準備】してある」
【祓い】は四レベル呪文。他に今日必要になりそうな呪文もあまりないので、大盛り目に用意しておいた。なにせ相手は高層ビルなみの巨体である。
「質問なんだが」
「はい、セダム君」
「暗鬼の影響を取り払ったとしても、それによって神聖樹が崩れ去ってしまったりしないか? コーバル男爵が死んだみたいに」
「うむ」
コーバル男爵は【魔力解除】の呪文が効果を発揮した直後、死亡した。これは男爵の頭部で成長した『闇蟲』が【魔力解除】によって消滅したためと思われる。
同じように、内部をかなり侵食しているであろう暗鬼成分を消滅させれば、神聖樹は完全に枯死してしまうかもしれない。
ちなみに、暗鬼崇拝者に洗脳されたり儀式を施されていたレイハとバルザードに【祓い】を使った時は両者ともに無事だった。
これは使った呪文の違いというよりは、暗鬼から受けた影響の度合いの違いだろう。頭の中に『闇蟲』が発生していたら手遅れということだ。
神聖樹がどの程度侵食されているかわからないが、なるべくこれ以上無残な姿にしたくない。
「そこで、一つ試みてみたいことがある。つまり……」
予定通り、私はまずツアレスのミイラに【祓い】をかけた。
その結果、この世界の秩序を代表する法の神殿の司祭衣をまとったミイラは文字通り塵と化して消滅する。
これについては全く問題ない。
「じゃあ、こいつを持っててくれ」
「了解だ」
神聖樹の幹に突き刺さったままのラウリスの杖を引っこ抜き、セダムに渡す。
ここからが本番、である。
「この呪文により時の歯車を止め世界を我が一人の支配下に置く。その支配期間は1D4足す1ラウンドなり。【時間停止】」
昨日に続いて【時間停止】の呪文を使うと、例によって凍結したように周囲が停止した。
それにしても、何だかんだ言ってこちらにきてから最もよく使うのは九レベル呪文だな。仮想の自分を混沌の領域の九階層まで往復させるにもだいぶ慣れてきた。
……まさかこれ以上レベルアップしたりは、ないよな。
下らない考えを振り払い、停止した時間の中でさらに二つの呪文を唱える。
「この呪文により、神聖なる大樹を蝕む邪悪を浄化する。【祓い】」
「この呪文により、神聖なる大樹の傷を全て癒やし完全なる健康を取り戻させる。【完全治療】」
【祓い】と【完全治療】のコンボだ。
コンボといっても、【時間停止】の効果が切れた後、二つの呪文は完全に同時に効果を発揮する。
上手く行けば、【祓い】によって神聖樹の内部を浄化するのと全く同時に傷を癒やすことができるはずだ。
実際のところ、良くある話だ。TRPGのシナリオでは。
悪魔や呪いのアイテムに体内に寄生された貴族の娘(美少女)を救うため、○○の秘薬を探す、とかな。
そういう定番のシチュエーションを力技で解決するのも、『D&B』超級レベルセッションの醍醐味である(もっともその後にまた別の超級レベルクエストが発生するが)。
「……こいつらも、TRPGでもやって仮想や幻想の世界に慣れてれば、暗鬼崇拝なんて方向には捻れなかったのかもな」
跪いて私を崇拝の目を向けるザルザムの方を見て、つい呟いてしまう。
世界が作り物だと思い込むのと、無価値で憎いと思うようになることは別問題だ。
私が昔、『D&B』のプレイで味わった興奮や感動は確かに幻想から発したものだが。それでも、私にとっては本物の興奮で、感動だった。
別にTRPGに限らず、書物でも映画でもアニメでも何でもいい。そういう経験が彼らにもあったら、違う未来もあったのかもしれない。
「おっ!? おおおおおっ!??」
時間が動き出した瞬間。そのザルザムが驚愕の叫びをあげた。
数秒間は、神聖樹全体から黒い霧が凄い勢いで噴出し視界を遮る。しかし霧はすぐさま消え去り、姿を表したのは……。
「こりゃぁ……」
「……っ」
私の魔法を見慣れたセダムとレードまで、目を見開いている。
それはそうだろう。
「うはぁ」
私も絶句するしかない。
先ほどまで朽ちて腐臭を放ち、焼け焦げたように黒ずんでいた巨木が、見る間に瑞々しく健康な姿に『戻って』いくのだから。
「現状維持できればいいと思っただけなんだが……」
「これがっマルギルス様のお力っ!? 素晴らしい! 素晴らし過ぎまするぅ!」
大蛇のように地面をのたうっていた根は穏やかな姿でしっかりと幹を支えていく。
表皮の色は明るくなり、あちこちにあった裂け目や黒ずみも消え去る。
地上部分へ通じる穴から上がどうなっているか良くわからないが、見える範囲だけでも折れた枝は修復され緑に輝く葉が広がっていくのが分かった。
そしてなにより。
「魔力が……溢れ出しているな……」
「……」
セダムが呆然と呟いた。
これまでも薄っすらと光って見えていた魔力が、いまや眩く広大な地下空間を照らし出していた。
何かきらきらする粒子が盛んに空中を舞っているのが、私にさえはっきりと見える。
「うっうわあぁぁっ慈母がっ! ラウリスの慈母がっ!」
「な、なんだっこりゃぁー!?」
祭壇の下方から、ライルや冒険者たちの叫びもあがった。
周囲の異変に気付いて出てきたのだろう。
「まあなんだ。予想外ではあったが、これは別に悪いことじゃあない。よな?」
「うーむ……」
まさか、一度の【完全治療】の呪文にここまでの威力があるとは。いや、いくら巨大でも神聖樹を一体の生命と考えれば、正しい効果を発揮しただけなのか。
無言のレードは放置して、セダムに確認する。
「ラウリス市民は……いやリュウス同盟の人間なら誰でもあんたに最大限の感謝をするだろうな」
「そ、そうか」
別に感謝がほしいわけではないが、建国を認めてもらうという現在の目的もあることだし悪くはない。
「ただなぁ。前もいったが神聖樹ってのは創造神が人間に贈った至宝なんだ。神聖樹があれば魔具も作り放題だし土地は豊かになるし経済的な恩恵も計り知れん」
「……つまり?」
セダムの思案気な顔に私も不安を煽られる。というか何となく言いたいことはわかったぞ。
「早いところラウリスを奪還しないと、この世界中の権力者や魔術師が『慈母』を狙ってやってくるってことさ」
ほら、やっぱり。