聖地の夜
あっというまに夕刻となった。
日中の間はガンヒが聖地を案内してくれた。ガンヒの知己には良く出会ったし、相手はガンヒが居る事に一様に驚いていたが、ガンヒは詳しい事を話さず言葉を濁した。事情があると思われたのか、後日説明すると明言したのが効いたのか、さして問い詰められることも無かった。カヤを見て驚いた様子を見せた者たちには、明日までは黙っているように、ロクショウの名を出して言い含めた。
デーガントラ寺院の僧達は、開祖の教えを実践すべく日々修業している。開祖を祀る礼拝堂への参拝客や祈祷を依頼する信者が引きも切らないし、修業僧も各国からやって来る。寺院自体が、小さな都市のようだ。
寺院内部では流石に商売は出来ないが、寺院の外には参拝客相手の店が軒を連ねていた。
いろいろと珍しい物を見せてもらったものの、実のところカヤはよく覚えていない。
首飾りの重みが気になって気になって、礼拝堂の人ごみばかりが印象に残っている。
もしもこの中に摺りが居たらどうしよう。気が付かない内に鎖の先の石が無くなっていたら?
カヤが観光や参拝どころではない事に気が付いたガンヒも、まぁ、これから先いくらでも機会はあるでしょう、などという不吉な事を言って、カヤに部屋を手配するとどこかへ行ってしまった。
ガンヒが用意してくれたのは、僧の客人や面会者が泊まるための部屋だった。寝台と椅子、そして灯り採りの窓があるだけの小さな部屋であったが、カヤはこれ幸いと引き籠った。
ところが半刻も立たないうちに、部屋の戸が叩かれた。
叩いたのは、ガンヒにカヤの世話を頼まれたという下女で、湯を使うようにと言った。
首に下げる物の事を思うと、カヤはとてもそんな気にはなれなかったが、もう沸かしてあるのを断るのは気が引けるし、第一、女中頭を思い出させる初老の下女にそれを告げるのは勇気が要った。
案内されたのは、小さいながらも立派な浴室であった。建物は石で出来ているのだが、内装には白い石、黄色い石、灰色の石を使っている。3色の石を組み合わせ、美しい幾何学模様が描かれていた。丸い天井には硝子が嵌め込まれていて、薄い緑に色づいた日光が浴室内を明るく照らしている。
硝子窓があるなんて!
お屋敷の浴室よりも狭いし古いが、カヤには貴族が使うような設備に思われた。下女は笑って、この辺では庶民が湯船を使うのは珍しくないし、あんたはガンヒ様の客なんだからこれくらい当然だといった。
なにか行き違いがあるのではと思われたが、久しぶりに感じる暖かいお湯の気配はあまりにも魅力的で、ここまで来て断わる事なんて、カヤには出来ないことだった。
湯船に入る前に、お湯をかぶって身体を洗った。温かいお湯で身体を洗えるなんて何十日ぶりだろう。
備え付けの石鹸の泡立ちや、泡立てる度に香る松葉を思わせる爽やかな芳香に、カヤはすっかり夢中になってしまった。
幸い石鹸を置く棚は高い所にあったので、首飾りは其処に置いておくことにした。
すっかり上機嫌になって、風呂から上がったカヤは更に驚いた。身に付けていた服が無くなり、着替えが用意されていたのだ。お屋敷で客人に着替えを用意した事はあったが、まさか自分が用意される側になるとは。
来ていた服は洗濯して、明日返してくれるという。
部屋に戻ってしばらくすると、ガンヒが戻って来て、夕食はロクショウの部屋で摂る事を告げた。
急に重さを増した首飾りをなるべく気にしないようにしながら、カヤはガンヒの後を追った。
ロクショウは昼間に訪ねたのとは別の部屋にいた。数人程で過ごすための小さな部屋だ。
中央には円卓があり、椅子が三つ用意され、一つには既にロクショウが掛けていた。
全員が卓に着くと、では、食事の前に済ませてしまおうか、とロクショウが笑って告げた。
相変わらず、カヤが無色を宿している事を疑う様子は見られない。
ガンヒに至っては、ここに来るまで首飾りを見ようともしなかった。今も急かす様子は無く、カヤを待っているようだった。
いや違うな、とカヤは思う。
ガンヒ様は、私が観念するのを待っているんだ。
カヤは震える手で、首飾りを外した。
首飾りの先に揺れる石は、鮮やかな緑色をしていた。